嫉妬

 今回で四回目。勢いだけで書き進めることができなくなってきた。行き詰まることが増えた、辛い。何が辛いのか、はっきりと説明することができない。えたいの知れない不吉な塊がある。


 とりあえず、テーマを決めなければ、と本屋に向かった。私がいつも行く本屋は品揃えが豊富な上に陳列が分かりやすくとても便利だ。行けば大抵の本の場所がわかるくらいになった。本屋は私にとって夢の国。この世の中で唯一浮遊できる場所であり、時が止まる場所であり、自分を見つめる場所である。図書館ではダメで、私はまだ誰のものでもない、本という宇宙の美しさが好きなのだ。 
 ただ、この日だけは違った。書棚をいつものように眺めていると、妙な焦りと息苦しさ、とてつもない苛立ちが込み上げてくるのだ。なぜそのようになったのかは分からないが、ここにいられないと思い店を出た。


 慌てて店を出たせいか、動悸が止まらないので音楽でも聴くことに。イヤホンをして流れてくる音楽に安らぎを求めるが、頭の中の考えや記憶、脳そのものを吸い取られそうだったのでイヤホンを上着のポケットの中にしまった。そういう日もある。と振り切って風の吹く自然の音、車や人が行き交う生活を聴きながら家に帰った。
 数日後、私は美術館の企画展を見に行った。私は、美術館のどんな色相・彩度にも負けない真っ白な壁が好きだ。しかし、なぜか今日は落ち着かない、作品について考えているうちにそのメッセージを受け止めることが出来ない事に気がついて仕方なく流れるように外へ出た。
 帰り道、思い立って古本屋に寄った。慣れない本屋の書棚を見ていると、一冊の本に惹かれた。レモンエロウの絵の具をチューブから絞り出して固めたような色の表紙。梶井基次郎の「檸檬」である。


 「えたいの知れない不吉な塊」に取り憑かれた青年「私」は憂鬱な心を慰めようと京都の町を徘徊し、好んで通っていた丸善に行くが、今の「私」にとっては重苦しい場所になってしまっていた。あてもなく彷徨う「私」は果物屋で足を止め、檸檬を一つ購入。檸檬の冷たい手触りと鮮やかな色にとても幸福を覚えた。気分の良さを取り戻した「私」は再び丸善に行き画集を見るが、再び心が塞がっていってしまった。すると「私」は袂から檸檬を取り出し、画集の山の上に檸檬を据えた。檸檬という爆弾が丸善を木端微塵にするのを想像しながら…。


 私は、「檸檬」を読んで、古本の埃っぽい、ある意味香ばしい香りと梶井基次郎の書く文章の瑞々しさにとても助けられた。内容と文体からは冷たさを感じるが、作品としての熱を感じる。
 美術・文芸・音楽と言った芸術の模索というものは果てがない。既にある芸術や美という概念、構造に新たな価値観や表現を持って向かっていく人間は大勢いるが、その道は険しい。私もそうであるが、憧れを持ったり、その作品や作家を好きになったりすればするほど、到達できないような気がしてしまう。梶井基次郎もそのような人間の一人であったのだろう。


 美術館や本屋、CD(サブスクリプション)というものは芸術を表現する場・物であるかもしれないが、過去の芸術・美の蓄積がされている存在でもある。私は、このような存在を通して芸術に触れると自分のやるせなさ、強い不安に脅かされる事、嫉妬する事がある。だから、芸術を全く避けてしまいたい時がある。
 芸術とは美しさや好みの選別をする物でなく、過去の美の要素を捉えて自分のものにすることであると私は考えた。この「檸檬」の主人公は果物屋で檸檬を手にすることでそれを手に入れ、自分のものにしたのだろう。自分の芸術を得たのだ。また、檸檬を爆発させることで不吉な塊から解放されたのだ。


 私は作品を読み、文章を書くことで不吉な塊から解放されたとまでは行かないが、熱を取り戻したように思える。そして、この「檸檬」をそっと本棚に並べたのだった。

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