誰かが言った
誰かが言った。
「好きです」と。
目を見ていた。手が触れていた。彼女のぬくもりと、涙の冷たさが身体の中で混ざっていく。真夏の夜。信じる眼。底知れぬ暗がり。不安定な未来と焦燥感。あの真夜中のふたりの影が、あの部屋には未だくっきりと残っている。
誰かが言った。
「ずっと付き合っていきたい」と。
酔い覚ましの珈琲一杯。間接照明で照らされた店内には喧騒が響く。テキーラ。ダーツ。ボードゲーム。その端の席でふたりは学生時代の淡い記憶を追悼した。美化。取り戻せないパステルカラーな光景。講義を抜け出して行った喫煙所。わざわざ言わなくてもわかってる、と僕は返した。知らぬ間に珈琲は冷え切っていたけれど、あの夜の言葉たちは熱かった。
誰かが言った。
「また連絡するわ」と。
まだ連絡は来ない。もういいかもしれない。自分からばかりでは惨めである。仕方がない。そうなるべくしてそうなった、としか言いようがない。とんでもない。傲慢だ。求められようとするのは甚だ傲慢である。仕方がない。そんな予感はしていたのだし、傷はない。そうだ、仕方がないのだ。繋がりは容易くほつれる。
誰かが言った。
「まだあなたの珈琲を飲んでいたかった」と。
時々、珈琲を淹れるボクの横に座って待っていた横顔を思い出す。ゆらめく湯気が現像している。何回飲んでも「美味しい」と笑ってくれた優しさが、マグカップに注がれていく。飲むこともシンクに流すこともできず、ただ持ちながら立っていることしかできなかった。紙が濡れる。文字が滲む。インクにはまだ愛が残っている、と信じていたかった。
誰かが言った。
「本当の自分っていうのは、ひとつじゃなくていいんだよ」と。
どこに自分がいるのか、どれが自分なのか。どこまでが真実で、どこからが虚偽なのか。
同じじゃなくていい。違くたっていい。本当のお前、なんて無いし、それぞれの場所にそれぞれの素の自分がいる。
そのどれもが本物で、正直で、本音で、偽りで、僕である。
誰かが言った。
一緒にいて と。
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