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恥の多い人生


湿度の高い炎天下。垂れた前髪と皺の付いたTシャツ、紺色のジーンズ。どこへ行くにも何をするにも、気力が湧くことのない夏。限りなく真夏に近い夏。夜になっても冷めることのない熱。陽炎が揺らめく街の上。照り返す光に目を細め、風を受け、またその足を進める。

二十代も半ばになると、視野に入れなきゃならないことが多くなってくる。時代も時代と言えど、そんな悠長に構えていられる性格でもない。かと言って、焦っているわけでも。
光に手が届くのならば、掴んでいるのだろう。その手を開くことはなく、その先のビジョンさえ見通すことだってできそうである。
それはまた夢の話であるけれど。
人生そう甘くないよ。僕が言う。甘そうではない。その先何十年生きていくのか知ったこっちゃないが、生きていくと仮定するのならば、それ相応の準備をしていかなければならない。
精神的な? 経済的な? 身体的な?
人間である。生きていればそれでいい、というわけにもいかない。それがどうだ。生きることさえむつかしい世の中だ。未来にどう希望を抱いて前を向いていけばいいのだろう。

あぁ、恥だとしても望むように生きている人間の方が輝いているに違いない。
恥の多い人生は、生きているって感じだ。

恥といえば、一般的に見て精神疾患を持っていた過去は紛れもなく恥である。
僕としては恥だと感じていないにしろ、社会的に、人間的に不利に働くことは想像に容易い。というか、不利だった。
マイナスポイントでしかない精神病に対して、近頃は前向きな考えである。そのこと触れた話をすれば、心を開いたという証になってくれる。そのことを相手に伝えることができる。
そういった面では、恥であることを恥だと思わなくなってきた。
いつ再発するかわからない病気であること。そのことだけが不安であり、これからの人生にとっての大きな足枷になる。
この恥は、僕自身だ。恥をひっくるめて、僕は僕を認めていかなければならない。

人生について、前向きなわけではない。
決して。
ただそこに、一幅の諦念があれば、ある程度は前を向いて生きていけるのだと今の僕は感じている。
諦念は飼い慣らせばいいのだと。僕は僕に言う。熟れさせてゆけ。



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