一生懸命な人ほど必要のないものまで抱え込む
「一生懸命やっている」
「一生懸命やりなさい」
この言葉の意味は分かりますが、その行動がわからない。
なんとなく分かります。だから、自分にも他人にもこの言葉を投げかけていました
でも、言葉を「理解」することと「分かる」」ことは違います。
「なぜ一生懸命しなければいけないのか」
「一生懸命は尊いのか」
「一生懸命に働くとはどういうことか、どう考えることか」
「一生懸命とは具体的にどう行動することか」
・・・・・・
改めて聞かれると悩んでしまいます。
私には、こんな「一生懸命」がイメージできます。
朝起きてから寝るまで動き回る。
人のことをいつも考える。
目的をもって前向きに行動する。
でも他人に説明しようとすると納得できないものがあります。それが何なのか?今でもはっきりとしていませんが、私は聞かれたらこう答えます。
「私の一生懸命は、今を丁寧に生きることです」
だから他人の一生懸命を語ることはできません。「こうあれ」ということは出来ません。
想えば、私の過去の「一生懸命」はこんなものでした。
朝起きてから寝るまで動き回る。
人のことをいつも考える。
目的をもって前向きに行動する。
これをしていると、「何となく一生懸命生きている」と思っていました。そして何かトラブルがあると、それを自分の力で解決しようとまた一生懸命考えていました。行動していました。
でも、ある時気づきました。
トラブルが起きた時、何か生き生きしていました。「トラブル解決」に向けた自分が好きでした。一生懸命やればやるほどトラブルは続きました。またトラブルを解決することで、自分の「一生懸命」を認識していました。いつも他人の目を意識していました。だからトラブルや問題が次々と起きていました。いや、何でもない、どうでもいい、自分が解決しなくてもいい問題を無意識に自分がしなければいけないと思い込んでいました。
一生懸命だった私は、必要のないものまで抱え込んでいました。
怖いのはその状態が長く続き、心が疲れているのに気づかなかったことです。身体が疲れ壊れても心の疲れに気づかなかったことです。だからちょっとだけ身体を休め、また一生懸命考えることから始めていました。でも、心は疲れたままです。
今聞かれたら、私はこう答えます。
「私の一生懸命は、今を丁寧に生きることです」
今やるべきことはひとつひとつ丁寧に淡々と行う。
「雑用」といわれる仕事の意味を見つける。
目の前にゴミがあったら拾う。
一生懸命を「しなければならない」ではなく、楽しむ。
一生懸命が自分が理想とする未来につながるかどうか、それは分りません。分からない未来のことを考えるよりも、今を楽しもうと思います。
それが私の一生懸命です。