見えないものと見ようとしないもの
見えないものや不可思議な力に魅かれる時があります。
神様や亡くなった人のチカラにすがることもあります。
そんな不可思議な力を否定するつもりはありません。
見えている人には見えるだろうし、声が聞こえている人には聞こえているのでしょう。 私には見えない、聞こえないというだけです。
自宅にも神棚はあります。
その前で手を合わせることもあります。
手を合わせる先に見えるものはお札であり、ご神体と言われる鏡でした。
ある時、こんな気持ちになりました。
神棚の鏡はそのまま自分の心に繋がります。
私が見えないものとして拝んでいた神様は、実は見ようとしていない自分の心でした。
見えない神様に意識を集中することも、心が静まり大切なことでしょう。
でも、自分で見ることが出来るのに見ようとしないものがありました。
自分の心であり、大切な人の気持ちです。
神棚の鏡は自分の心を映すものだと思います。
自分の心を尊重して手を合わせます。
疲れた心を癒します。憎悪や嫉妬を持った心を赦します。
嫌な部分を認めたくないために、自分の心を見ようとしない
こんなことがあるようです。
見えない不思議を探す前に、見ようとしなかった自分の心や
大切な人の気持ちに素直に意識を向けることも必要なのでは。
今はそんな気がします。