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土曜日のチャーハン

「土曜が完全に休みになって、半日で帰ったときの父が作ってくれたチャーハンが食べられなくなった。純粋に味の問題じゃない。うまさじゃない。『お、帰ってきたか』と立ち上がる父の笑顔なしでは土曜日のチャーハンは成立しない。」

「愛おしいことば」(中日新聞 堀田あけみ)より抜粋したものだ。
(一部加筆)

読みながら愛おしいと思った文章だ。「土曜日のチャーハン」という言葉の響きも心地いい。それは過去の自分の記憶に繋がっていく。

父親が台所に立ち不器用な包丁さばきを見せていた。木のまな板の上で、コン、コンと切れ味の悪い鈍い包丁の音がする。チャーハンに入れるために、母親が買っておいた赤いウインナーを切る姿は楽しそうだった。
その横で子どもの私が父親の左腕に自分の手を絡みつけて笑っている。何の話をしていたかなんて、もちろん憶えていない。でもその時の幸せ感は、「土曜日のチャーハン」という言葉を想えば思い出すことができる。

「今日は半日で学校が終わる」と朝からウキウキしていた。チャーハンを食べた後は、弟達と短い午後を楽しんだ。好きなことが沢山つながっていた。
豊かとは言えない暮らしだったのに生き生きしていた。

週休二日っていつから始まったんだろう?
始まりは昭和四十年頃といわれている。アメリカのような豊かな暮らしを実現するために松下電機が取り入れたと聞いたことがある。
それに憧れていた。苦労の多い大変な時代を何とかしようと頑張ってきた。薄暗く狭い台所の中で、母親はキレイなダイニングキッチンに憧れていた。おかげで家は広く明るくなった。だから懐古主義のように、また前の時代にも戻りたいとは思わない。でも週休二日になったのに心の余裕は少なくなった。

どうやら私たちは、空いた場所にそれ以上のものを詰め込む癖があるようだ。暇が不安で手帳の空白を必死に文字で埋めている。スマホの画面はアプリのカルタのようだ。

今、「土曜のチャーハン」に代わる言葉はあるだろうか?
いや、きっとある。
ひとつひとつのことをわざわざ時間をかけて楽しんでみよう。

アプリを開けば、きっと別の楽しみが広がる。
でも、「土曜日のチャーハン」のように愛おしさを感じられない。
前を見ながら後ろを懐かしむ、これが歳をとったということかもしれない。
そういえば最近、思い出という言葉を聞かなくなった。
みんな前ばかり向いている。


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