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映画「閉鎖病棟」をみて

 映画のCM を見て興味が沸いて・・・。これがこの映画を見るきっかけとなった。このような社会問題的な映画を探して見ているわけではない。

少し前に見た三谷幸喜の「記憶にございません」は唯々面白かった。
映画を見ようと思った時、想像するのは映画の中身だけでなく、映画館のシートに座っている自分の姿だ。約二時間の長いかもしれない、短いかもかもしれない時間を自分がそこでどう過ごしているかを想像してしまう。気になってしまう。
つまらない映画だったらどうしよう。その時間他に何かすることができるのでは?と考えてしまうこともある。だからいつも「どうしても見たい」という気持ちと、「映画でも」という気持ちが入り混じったものになる。

 「閉鎖病棟」は、こんなところもあるのか、という感想がおぼろげに残っている。登場人物のそれぞれの環境やそこから生じる病状や精神状態には確かに興味が沸く。言い方は悪いが当事者ではない自分から見れば、やはり興味という言葉が合っている。

そして物語のプロットとなる事件の展開もあるが、どうしても頭の中にこびりついていたのが「閉鎖病棟」という言葉だった。
人物の変化していく心情や、その中で起きた事件、事件に纏わる人物の心理描写を丁寧に描くという意図は見えたが、どうしてもこの「閉鎖病棟」という言葉には勝てないような気がした。誰かにこの映画のことを話すにも、まずこの「閉鎖病棟」とは何かという説明から始まる。そういう意味では、「閉鎖病棟内での物語」であり、サブタイトルの「それぞれの朝」に繋がる線が弱いような気がする。せっかくの登場人物の描写が埋もれてしまったのでは、という気持ちが残る。

閉鎖病棟という異質な空間の中でも、今を変えて明日を見ていこうとする患者たちの意思が随所に感じられたのは、出演する俳優の演技のすばらしさであろう。それだけにこのタイトル「閉鎖病棟」が残念でならない。

 その「閉鎖病棟」というタイトルにつないだものが、何回も現れた病棟内でのドアを施錠するシーンだ。役者の演技に彷彿するシーンがあっても次に施錠するシーンがあると、何故かそこに気持ちが行ってしまう。これがすべて「閉鎖病棟」というタイトルに繋がっている。

この映画をどう見るかは個々の裁量に任せる。ただ見終わった後「これが閉鎖病棟か」という感想だけで終わることだけは避けたいものだ。それぞれの登場人物が今を生き、登場人物に生きたい明日があることを役者の演技から感じ取って欲しい。

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