「相手のしあわせを願う」を止めていっしょに喜ぶ
「軽やかに暮らす」の中で「三つのしあわせ」を提唱しています。
三つのしあわせとは
・自分のしあわせ
・相手のしあわせ
・仕合わせ(めぐり合わせ)
きょうは「相手のしわせ」についてです。
悩む人間関係の話です。
「相手のしあわせ」を願う。
これはとても大切なこと、もちろんです。
自分の子どものしあわせを願わない親はいません。
でも私は願わない、と決めました。
「願う」ではなく、相手がちょっとでもしあわせに近づいたとき、いっしょに「喜び」ます。
「相手のしあわせを願う」とは、相手を想うようで実は自分の想いに執着している、と思っています。「私が想うしあわせ」を押し付けています。「私の想うしあわせの尺度」で相手のしあわせを捉えているところがあります。
「心配はわがままな趣味のようなもの」という言葉があります。本当は相手が私から心配されず、自分の足で立つことが良いのです。それでも私は、こうなって欲しいと願い、勝手に心配していました。相手の力量を自分と比べて卑下している部分があったかもしれません。「うまくいかないだろう」と、私が勝手にあきらめていたかもしれません。でも相手には自分が想うよりもずっと大きな力があるのです。
だから、「願う」ではなく、相手がちょっとでもしあわせに近づいたとき、いっしょに「喜び」ます。それはもう手放しで喜びます。自分のことのように喜びます。
雨が降れば隣に立ってそっと傘を出す。
私が願わなくて雨はいつかやみます。
雨がやんだら明るくなった空をいっしょに喜びたい。
そして相手が順調に前に歩いているとき、私は必要ありません。でもうまくいかず、もし誰かを傷つけたなら、その人の前に一緒に立って謝ります。それが相手の味方になるということです。「頑張れ」と応援することとは違います。「味方」は悩んだり、失敗したときに必要なんです。私はそんなときに必要とされたい。