忘れると思い出す(カルチベート)
夢の中で時々父親のことを思い出す。顔はおぼろげだが何か話している。聞こうとして顔に手を伸ばすがいつも何を言っているのか分からない。そしてハッとする。「そうだ。もういないんだった」。
忘れることが多くなった。歳のせいもあるだろう。こう思うと忘れることは何か悪いことのように聞こえる。確かにプラスの響きはない。でもふと思い出す。「忘れたから生きてこられた」。思い出すものをいいものと嫌なものと分ければ、どうしてか悪いことが多い。それはお前の過去だからと言えばそれまでだが、不思議と楽しい思い出は鮮明で、嫌な思い出はおぼろげだ。過去してきた仕事も楽しいものは鮮明に残り、そうでもなかったものは、「何だったのかな」という程度におさまる。はっきりとせず無意識の中で忘れ去られている。そんなどんよりした過去はどこへ行ってしまったのだろう。
そんな中、新聞面で「カルチベート」という言葉を見つけた。作家太宰治の言葉に出会った高校生に教えられた。「カルチベートとは人間として磨き、愛するということを知ること。私なりに解釈すれば、数式を覚えることは重要ではなくて、忘れてもいい。ただ覚えようとした行為の後に残ったものをゆっくり磨けばいいのだ」…。なんと聡明な高校生だろうか。
ここで先の私の「忘れる」という言葉とつながった。ちょっと強引かもしれないが。細くて美しく光る絹のような糸が見えた。忘れて嫌な過去も、思い出せないだけでしっかりと私の中に残っている。時折顔を覗かせるが普段はその姿を現さない。私の中でゆっくり磨かれているのかもしれない。だから決して消えてなくなったわけでもない。それでもいいか、それが私の人生だったのだ。嫌な思い出は静かに背景に溶けこみ、楽しい思い出に様々な彩りを与える。
多くを経験し、多くを忘れる。そして時にちょっと思い出す。思い出はご褒美のようなものかもしれない。カルチベートとは、人間として磨き愛することを知ることだ。この言葉を改めてかみしめたい。