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料理人の学び合いで美食の街を作っていくプロジェクト。函館の実践から学べること。

こんにちは、きづきくみたてファシリテーターの森本です。

今回は、今、私が関わらせてもらっている長野県、松本市のシェフたちの学び合いの活動について共有させてもらいたいと思い、これを書いております。

今回のエントリーも約一万文字と、とても長くなっていますので、お時間のある時に読んでいただけると幸いです。それでは本題です。

皆さんは、スペインにある世界一の美食の街と言われるサンセバスチャンについて聞いたことがあるでしょうか。

世界一の美食の街サンセバスチャン

2012年に高城剛さんが、「人口18万の街がなぜ美食世界一になれたのか」という本を出版されたことで、日本でも急激に知名度が上がりました。
(かくいう私も、高城さんの本をきっかけにその存在を知りました)
きっと聞いたことがあるという方もいらっしゃるのではないかと思います。

スペイン・バスク地方にある人口一八万人の小さな街、サン・セバスチャン。
いま、ここは世界中から美味しいものを求めて人が集まる「美食世界一の街」として知られる。

かつては高級保養地として知られたが、世界遺産などの観光資源もとくになかったため、この地を訪れる観光客は低迷していた。そんな街がなぜ、たった10年ほどで変われたのか。

その背景には、美食を売りに出す徹底した地域戦略があった。サン・セバスチャンでは、あたかもシリコンバレーがIT産業に特化したように、料理を知的産業として売り出そうとしているのだ。

製造業だけでは限界にきている日本の活路は観光業にある。そうしたなかで、世界を旅する高城剛が、いまもっとも注目する街が、ここサン・セバスチャンである。

日本が観光立国となるために、サン・セバスチャンに学ぶことが多くあるはずだ。

人口18万の街がなぜ美食世界一になれたのか

なぜサンセバスチャンが世界一の美食の街になれたのかについては、まずは本書や下の記事を読んでいただくのが良いのではないかと思います。

世界一の街を作った原動力はシェフ同士の教え合い、学び合い

以前は特別に目立った産業がなかったサン・セバスチャンですが、「ヌエバ・コッシーナ」を目指して多くの料理人が集まり研究を重ねるようになると、街にはミシュラン店が次々と並びはじめ、「世界のベストレストラントップ50」のトップ10にサン・セバスチャンのレストランが2軒選ばれるなど、一気に美食の街として世界中に知られるようになりました。

この快挙を実現させたのは、海の幸・山の幸が豊富にあるという環境に加え、料理業界では禁断だとされていた「レシピをライバルや仲間と共有する」ことを実行したことによります。レシピの公開には“オリジナルの味”が盗まれるリスクも伴うため、シェフたちがどれほど本気で「ヌエバ・コッシーナ」に取り組み、何とかサン・セバスチャンを活性化させようとしていたかが伺えるでしょう。

「レシピの共有」を提唱した第一人者のルイス・イリサール氏は16歳の頃からレストランで働き始め、その後、ヒルトンホテルのチーフ兼教育係になったことで、シェフの教育の重要性を知ったと言います。

そして彼が1992年に開校した「ルイス・イリサール料理学校」は、スペインでナンバーワンの料理学校と呼ばれていますが、イリサール氏の教育の基本は、料理の技術そのものではなく、「みんなで教え合う」という哲学なのだと言います。(3)

キッチンで隠れながらソースの味見をし、「味を盗む」ことで一人前の料理人になることが、料理人の世界では一般的に下積みだと考えられています。しかし、ルイス・イリサール氏が提唱した「レシピのシェア」が街中に浸透し始めると、レストランはある種、料理人が互いから学びあう料理学校の役割も果たすようになり、学校を卒業した後も誰もが料理の腕を磨き続けられる環境が自然に整い始めました。

街全体でビジネスのノウハウを共有。世界のベストレストランに選出された街「サン・セバスチャン」

上記の記事にあるように、その理由の1つが、ルイスイリサール料理学校での実践や、料理人たちの学び合いにあると言われています。

日々、教育や人材育成をテーマに活動している人間としては、「学びを通じて、街が豊かになっていったというこのケースは、なんと興味深いのだろう!!」と思い、どうやってこれを実現していったのか、いつか自分の目で見てみたいと思っていました。

サンセバスチャンでそば教室を行ってきた話

そんな私ですが、無事2020年の2月サンセバスチャンに視察に行ってくることができました。

それも単にいくだけでなく、日本のそば職人さんと一緒にこのルイスイリサール料理教室でそば教室を提供することができたのです!

その時の様子が動画にまとめられているので、興味がある方はぜひご覧いただけたらと思います。

そのそば教室には、当時、現役で学んでいた生徒さん達や、卒業生に加え、果ては、現地の星付きレストランのシェフにも参加していただくことができました。

ホールでそば打ちの実演をしている様子。スペインのシェフたちが釘付けになっていました。
全員での記念撮影
実演が終わった後は試食をしていただきました。真ん中にいるグレーの服を着ているのが、ルイス先生の娘さんのビシ校長先生。その左にいるのが、三星レストラン「アケラレ」のペドロシェフ。ルイス先生と一緒にサンセバスチャンの街を育てた方々がきてくれました

こんな体験をさせてもらえるなんてなんと言う運の良さでしょうか。

なんでも、引き受けてくれた時には、ビシ校長先生から
「ちょうど、今、グルテンフリーがブームになっていることもあり、蕎麦作りには興味を持っていたところです」
「一度、自分でも作ってみたことがあるのだが、うまくできなかったので教えて欲しいです」という言葉をいただいたとのこと。

1人の日本人として、世界の食の歴史に名を刻んでいる料理教室の校長先生から、そんな風に言ってもらえているというところが嬉しい限りです。

念願のルイスイリサール料理教室に辿り着き、興奮しているそば職人チーム
教室に飾ってあるルイス先生の肖像画と記念写真を撮り、緊張気味の松本にある蕎麦処木鶏の大将塙さん


いきなり依頼してきた我々側からのオファーを引き受けてくれたのも、サンセバスチャンの皆さんの食に対する探究心、この学び合いの精神があったからではないかと想像します。
そして、私は本当に蕎麦屋さんの友達がいてくれてよかったと思いました。

こんな取り組みをさせてもらえたのも、現地のコーディネーターである山口純子さんや、山口さんに働きかけてくれたみらい研のオーナーである後藤正樹さんの力があってこそ。2人には本当に感謝しています。

コロナ後のルイスイリサール料理教室

そして、2020年の2月といえば、コロナに入る直前、本当にギリギリのタイミングでした。このプロジェクトがもうあと一週間後ろで計画されていたら、タイミング的に出国が禁止になり、中止になっていたでしょう。

世界中でコロナが流行し、移動が難しくなってしまっていた当時から「本当にあのタイミングでいけてよかった」と、仲間内で、話をしていました。

それが、コロナが明けた今となり、その運の良さがいかにすごいレベルだったのかということがわかりました。

というのも、このコロナの影響で、残念ながら、およそ30年間に渡り、今のサンセバスチャンを作るための一役を担ってきたルイスイリサール料理教室がクローズしてしまったのです。

リンク先の料理教室のサイトに行ってもらうと、冒頭で以下のようなメッセージが出てきます。Google翻訳で通したものを貼っておきます。

世界中から若いシェフを育ててきた29年間に別れを告げる時が来た。
他の多くの小規模民間企業と同様、新型コロナウイルス感染症による困難と影響により、私たちは調理学校を閉鎖するという決定をせざるを得ませんでした。
私たちは、この数年間に成し遂げられた仕事と、職業的および個人的なレベルの両方で価値観を共有する650人を超える卒業生を非常に誇りに思っています。アホラ・イ・シエンプレフォーマンは私たちの家族の一員です。
私たちは、長年にわたって私たちのトレーニングの優れた質を保証するのに協力してくれた教授と協力者に非常に感謝しており、それが私たちの学校が認められています。
最後に、何らかの形で当校に関わっていただいた皆様、特にこの不確実な時期に、希望を失わず、当校のオフィスをよりフレンドリーで協力的で献身的な場所にすることに貢献していただけるよう、ご多幸をお祈り申し上げます。
ハスタシエンプレ!(さようなら!)


先日、サンセバスチャンに再訪した後藤さんがビシ校長先生に聞いてきたところ以下のような説明がなされたということでした。

「コロナの最中に街中のレストランが開けなくなってしまったのです」
「ルイスイリサール料理学校は、レストランでの実習を大切にしていた。それができなくなってしまうと、学校としての授業の質を担保することができなくなってしまいました」
「コロナ禍の時、行政も十分な支援をしてくれませんでした」
「多くの人が今から再開してほしいということを伝えてくれますが、あの期間の負担も大きく、一度、あの辛い経験をしてしまうと簡単には再開できません」

これからまた何かをきっかけに再開する可能性もなくはないですが、現時点ではもう2度と見ることができなくなってしまっています。

コロナによって、1つの歴史が終わってしまったことはとても悲しいことだなと思いますが、私も何か支援ができたわけでもありません。
当事者だからこそわかる苦労がいろいろとあろうことは容易に想像がつきます。
私も閉じてしまったと聞いた時は、今からぜひ再開してくださいと言いたい気持ちが生まれたのですが、これを聞いて以来、彼らの判断を尊重し、次の活動を応援したいという気持ちになりました。

信州嵐(シンシュラン)とは

このサンセバスチャンに蕎麦教室をしに行ったのが、信州松本平をサンセバスチャンのように、日本一の美食の街にしていこうと活動している信州嵐(シンシュラン)という有志団体です。

文字を見ていただければわかると思いますが、この名前は「信州」と「ミシュラン」を掛け合わせて生まれました。

現在、蕎麦屋さんだけでなく、日本食、イタリアン、フレンチ、和菓子、中華などのシェフ人に、農家さんたちも加わり、総勢20名弱の団体になっています。

松本のシェフが集まり、教え合い、学び合いを行いながら、もっと素敵な街や美味しい料理を作っていこうと取り組んでいます。

活動の様子はこちらのFacebookページで確認することができるのでぜひチェックしてみていただけたらと思います。

またさまざまな特典がついてくるファンクラブも設立しています。


函館の実践

そんな信州嵐が今後、活動していくにあたって、日本の他の自治体の実践を参考にさせてもらっています。

日本においては、すでにサンセバスチャンを参考に街づくりをしていこうという活動がたくさん生まれています。

そのトップランナーが、北海道にある函館です。函館には、まさにルイス先生と、一時期をともにし、長い間、交流を深めてきた深谷シェフが中心となり、様々な活動をおこなっています。

詳しくは、下の本にまとめられていますのでぜひ読んでみていただけたらと思います。

1985年に函館にスペイン料理店「レストランバスク」を開き、いち早く本格バスク料理を日本に伝えてきた著者。
修業時代を過ごしたスペイン・サンセバスチャン(美食の街として知られる町)のバル文化のエッセンスを伝えようと、2004年に地域の仲間たちと「函館西部地区バル街」というイベントをスタートし、年2回の町の名物に成長させました。

2009年には「世界料理学会 in HAKODATE」を発足して、世界の名だたるシェフたちを招聘。

これらの取り組みは、料理界に新たなネットワークを生み出し、地方自治体からは「お手本」として注目を浴びています。

いまや全国に広がった「バルイベントによる町おこし」の核心は? 「食を通じて人と人がつながる」「料理人が社会に貢献する」という理想の源にあるのは?

さまざまな出会い・出来事を振り返りながら、「料理人にできること」を語ります。

信州嵐のメンバーもこの本を読み、いろいろと刺激を受けています。

ということで、今回、信州嵐のメンバーで、深谷さんのところにお話をきかせてもらおうと、2023年の5月17日、18日と函館の深谷シェフのお店である「レストラン バスク」にお邪魔し、お話を聞かせてもらってきました。

今回、信州嵐でプロデューサー的な活動をしている後藤さんに声をかけていただき、私も同行させてもらいました。声をかけていただき、本当に感謝です。

レストランバスクのお店の前の花壇にはアスパラガスが育てられていました

函館のバル街

深谷さんのお店に伺おうとスケジュールを調整したのですが、今、このバル街の取り組みでなかなか時間が作れないということで、我々が時間をいただけることになったのが、2日目のお昼の時間帯でした。

ということで、1日目は函館の街並みや、バル街の様子を感じようと、市内の視察を行いました。

深谷シェフは、自身でバスク料理のレストランを営むだけでなく、サンセバスチャンの街づくりを参考に、函館でもより食を楽しめるようになる取り組みをいくつも実現されています。

その一つが先ほどから出てきている「バル街」です。
「バル街」というのは、深谷さんがサンセバスチャンからの帰国後、故郷である函館に、サンセバスチャンの食の楽しみ方「バーホッピング」を持ちこんだものです。

バーホッピングを日本語で言うと、はしご酒がイメージが近いかもしれませんが、サンセバスチャンのバーホッピングは、それとはちょっと違います。

日本のはしご酒の場合、1つ1つの居酒屋で過ごす時間は90分とか、120分とかという時間単位ではないかと思いますが、サンセバスチャンのバーホッピングは、ビール1杯に、おつまみ1つ(ピンチョスと呼ばれる指でつまめるようなおつまみが主流)を楽しみ、すぐに次の店に行くというものです。
時間にすると、1件あたり、15分〜30分というイメージでしょうか。それを3件、4件、5件、6件とつないでいきます。
お店ごとに、得意とするピンチョスがあるため、それを食べ歩いていくようなイメージです。

こんな感じで、バーカウンターにそのお見せの得意なピンチョスが並べられ、指差してオーダーしていくのがサンセバスチャンスタイル
サンセバスチャンのバル街はこんな雰囲気

函館では、このバル街と言う取り組みを、すでに2004年からやっているとのことです。

ここ2年ほど、コロナの影響で止まっていましたが、2023年の5月20日、21日に3年ぶりに行われました。

バル街が誕生したきっかけは、2004年2月に函館市内で開催された「スペイン料理フォーラム」というスペイン料理の国際会議。市内でスペイン・バスク料理のレストラン「レストラン・バスク」のオーナーシェフ深谷宏治(ふかやこうじ)氏を中心に、スペイン料理の文化を世の中に広めようと企画したイベントです。

「函館西部地区バル街」異国情緒溢れる街ではしご酒!

今では、この函館の取り組みを参考に、日本でもあちこちで200以上のバル街が行われているということでした。

残念ながら、我々は別の日程があり、久しぶりのバル街の開催直前の様子だけをみて帰ることにしました。バル街当日のマップを見ながら、いくつかのお店を巡っていきます。

2023年版のマップ

現地に行ってみて面白いなと思ったこと

バル街の中心となるスポット。西地区には古くて味わいのある建物がいくつも建っていました。

本などで読んだ情報や、サンセバスチャンの様子を視察に行った時のイメージでは、函館のバル街では、この通り周辺にびっしりとバルが並んでいて、そこを歩きながら、順にお店に入り、食を楽しんでいくのかと思っていました。

おそらく、イベント当日はそのような状況になるのだろうと思いますが、我々が行った時には、エリアマップ上ではたくさんのお店が表示されているのに、全然お店がみつからなくて、びっくりしました。

函館のイベントがない夜の街の雰囲気はこんな感じでした バル街本番は大賑わいだそうです

なんとか見つけたクラフトビールのバーのマスターに聞いたところ、なんと、このバル街のイベントに合わせて、日頃から飲食店をやっているところだけでなく、普段飲食店ではないところも含めて、さまざまなスペースを借りて、ピンチョスなどを振る舞うことになるのだそうです。

その日は、函館の西地区エリア以外からも(中には青森県からも!)、お店を出しにやってくる人たちもいるということをおっしゃっていました。

今年に関しては、前売り券も一瞬で売り切れたのだそうです。それだけこのイベントが魅力的なものになっているのだなということを感じました。
なお、なんで前売り券をもっと発行しないのだろうと不思議に思っていたのですが、供給側がおいつかないという問題があると言っていました。

たしかに、日常的に飲食店を行っているところばかりではないでしょうし、これだけ注目されてしまうと、需要に追いついていくのも難しいのだろうと思いました。

深谷さんから学ばせてもらったこと

2日目の朝10時から、我々は、レストランバスクで深谷シェフからお話を聞かせてもらうことになっていました。
時間ちょうどにお伺いし、まだお客様のいないレストランの一室で、我々4人と深谷シェフとが対面に座り、話を聞かせてもらいました。

・我々が何者なのか。
・信州嵐として、これまでどんなことをして、これからどんなことをしていきたいと思っているか。
・深谷シェフがこれまでに取り組んできたこととはどういったものなのか。
・今の函館の活動の様子はどんな状況なのか。

およそ1時間半にわたって質問をさせていただきました。

その中でも私が、気になっていた1つの問いがありました。

それは深谷シェフが最近出された本である「料理人にできること」というタイトルの先にあるものです。

この本を拝読し、また深谷シェフの活動を聞いていくと、とてもではないけれど、普通の料理人にできることではないなと言うのを感じました。

「深谷シェフは自分のことを料理人だとおっしゃっていましたが、とてもではないが、普通の料理人にできるレベルのことを大きく超えているように思います。ルイス先生の場合、料理人と教育者の2つの精神が重なりあって、あの活動が生まれたのではないかと想像しますが、深谷シェフの場合、ご自身をどう認識されていますか?」

と。

そこで聞かせていただいた内容は、本に書いてあったことと重なる部分もありましたが、直接、話を聞かせていただくと、全然違う印象を持ちました。

自分はもともと学生運動を行っていました。当時の時代環境でいろいろと思うところがあり、いくつかの活動をしていました。
就職後も、いろいろな出来事がありましたが、さまざまな流れの中で、サンセバスチャンにたどり着きました。そこでルイスに会いました。
そこで学んだことは私の人生に大きな影響を与えました。
結局、日本に帰ってくることになりましたが、ルイスの想いを日本でも広げようと思いました。
そこから目の前にあるいろいろなことに夢中になって取り組んできたら、結果、今のような状況になっていました。
まさか、その当時は、サンセバスチャンがあんな街になるなんて、そして日本からもこんな動きが生まれてくることになるなんて思いもしませんでした。

ただ、今のメディアが伝えていることは、サンセバスチャンのごくごく一部にすぎません。みんな表層的に理解して、ぱっとやろうとするけれど、そんなに簡単な話ではありません。
結局、サンセバスチャンのことを日本人で一番わかっているのは私だと思っています。そういう状況を見て、これは私が伝えないといけないと思い、今回、本にまとめることにしました。

これまでも日本で食の学会を開くなど、いろいろなことに取り組んできましたが、今度は、函館で食をテーマにしたコンベンションを開けたらと思っています。今も世界中の一流のシェフが気にかけてくれていて、函館まで足を運んでくれています。
今、函館の行政にも働きかけているところです。
クリアしなければいけない課題はいくつもありますが、なんとか実施に向けて取り組んでいけたらと思っています

これまでの話を聞かせていただいていた時の深谷シェフの顔は、とても穏やかで、まるで子供のような表情で、楽しみながら、料理やこれまでの実践について語られていましたが、この話を始められた時の深谷シェフの顔は、スイッチが切り替わったように、シリアスな表情で、言葉により一層力が入ってきているのを感じました。

こんな話を聞かせていただき、私なりに感じたことをお返しました。

私なりに聞かせてもらってこういうことなのかなと思ったことをお話ししますので、違和感があったらぜひ返してもらえるとありがたいです。

もともと深谷シェフの中には、活動家としての精神、ソウルがあった。それが紆余曲折あって、サンセバスチャンに辿り着き、そこで、料理人であり、教育者であり、活動家としてのBeingを持っていたルイス先生と巡り合い、共鳴するところが生まれた。

その後、日本に戻ってきて、その景色を見ると、料理人であり活動家として、心が動いていく瞬間がたびたび訪れた。

それを実行に移していくという活動をずっとやり続けていたら、いつのまにか今のような現状が生まれてきていた。

そして、2023年の今の日本や函館の状況を見ると、これはこれで、なんとかしたいと思う心が生まれてくる。

きっと、深谷シェフと他の料理人との違いや、これだけのものを残せる地域と残せない地域の違いは、そのマインド、活動家、アクティビストのようなBeingにあるのかもしれないということを感じました。

そうすると、深谷さんはこう返してくれました。

「今の話を聞き、森本さんの理解はそんなに間違っていないかもと感じました。もしかしたらそういうことなのかもしれないですね」と。

そんな話をしていたら、気がついたら、あっという間にランチの時間になっていました。

その後、深谷さんは、コックコートに着替え、我々にランチを振舞ってくれました。


「深谷さんの作る生ハムは絶品ですよ」とは聞いていましたが、噂通り最高においしかったです
バスク料理でも人気メニューである函館産の小イカ墨煮 


食事が終わった後、できれば、今回、話を聞かせてもらいにいったメンバーと深谷さんとで記念写真を撮らせてもらえないかと思っていたのですが、残念なことに、もうランチの営業の後は、バル街に向けての打ち合わせがあるということで、残念ながら、食後の挨拶ができませんでした。
が、もう一度、絶対に行きたいと思っています。

これから取り組んでいきたいこと

今回、深谷シェフのお話を聞かせていただき、本当にたくさんの刺激をいただきました。

ここでは描き切れていないことばかりなので、ぜひ深谷シェフの著書を読んでみていただけたらと思います。

その中でもやはり一番心に残っているのは、深谷シェフから溢れ出ていた現状をなんとかしたいという強い想いです。

結局、何をしようにも、困難はつきものです。
最後には、やりきるための胆力が物を言うのだなということを強く思いました。
「つまるところ、自分は今の世の中を見て、どのような活動をしていきたいと思っているのか?」
という問いは、一生忘れられないものとなりました。

私の最近の教育活動においての中心的なテーマは「冒険心」や「アドベンチャーマインドの醸成」なわけですが、まさにルイス先生と深谷シェフの活動は、それを歴史に残るレベルで高度に体現されてきているのを感じました。

私も、いただいた刺激を大切に、これからも、このアドベンチャーマインドを軸とし、信州嵐のメンバーとも、そして、さらにいろいろな人と関わり合い、響合わせながら、その精神を広げていけたらと思っています。

今日も素晴らしい学びの機会をありがとうございました。

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