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透明ボディ
ネット上の私はボディがない。
いや、私だけではなくインターネット上の人みんなそうだと思う。
noteもそうだが、他のSNS…
たとえばTwitterだとかInstagramだとか。
投稿すれば存在していることがわかるけど、その投稿者が誰なのかを私たちは基本知ることができない。
だから私はネット上の“人間”にはボディがない、と思う。
最近そのことについてよく考えている。
私には命ほど好きなとあるアーティストがいて、そのアーティストのファンである“私”のTwitterがある。
ファン歴10年目の私のTwitterは開設して早8年だ。
本当はそれ以前からTwitterはやっていたものの、他の趣味と掛け持ちしていたので新しく作り直したわけだ。
8年もやってればある程度フォロワーもつくし、なんとなく顔見知りにもなる人が増える。
Twitterで知り合ったファンと仲良くし始めたのは3,4年ほど前からだろうか?
チケット譲渡やらなんやらで、まったく交流のなかったフォロワーたちとの交流が増えた。
もともとライブも全て一人で行き、周囲に同じアーティストが好きな友達もいなかった私は、そのフォロワーたちとの関係を随分と楽しんだ。
今まで誰にも言えず、心に溜めていた感動をはじめて人に打ち明けたとき。
私がそのアーティストに抱いている美しい感情を、ダムが決壊したが如く熱く語った。
誰一人として私の熱量に引いたり、苦笑いせず、真剣に耳を傾けてうなずいてくれた。
とても居心地がよくて、人に自分の抱いている感情を伝えることの素晴らしさを知った。
そんなこんなで、私はネット上の人たちの中に「新しい居場所」を見つけた。
でも今は色々なことがあってそれが苦しい。
ネットの世界は楽しくて、そこで出会った人たちもみんな素敵な人で。
感動を共有できる数少ない、私の友人たち。
でも時代が変わって、世界が変わって。
私の生活も、そんなネット上の友人たちの生活も変わって。
好きなアーティストが楽曲を発表する方法も変わってしまった。
日々流れてくる多くの情報。
目まぐるしくてたまらないタイムライン。
情報過多になっていた私は、新しい居場所だと捉えていた場所にいるのが恐ろしくなった。
先日、そのアーティストが大阪でライブをする、というので私は大阪に向かった。
大阪にいるとても仲のいいフォロワーたちと、ライブ前もライブ後も語り合った。
でもその帰り道。
皆でZepp Nambaから難波駅に向かっている道の途中で、私は激しい動悸と手の震えに襲われた。
「もうここに私の居場所はない」
直感的にそう悟った瞬間だった。
そう悟るのに、かなり飛躍しているのではないか?と思うかもしれない。
けれど、色々なことが複雑に絡み合っていて、結局私の精神は目の前に広がる全ての関係性に耐えられなくなった。
複雑に絡み合っていることについては、今日は綴らないけれど、いつか自分の中で答えが見つかったら綴りたいと思う。
その場から今すぐにでも逃げ出したい、そう思わった私は、数人のフォロワーが気にかけてくれている目線を感じながら逃げ道を探した。
横断歩道で赤になり、みんなが立ち止まったとき。
私はグループの一番後ろに一人でいて、斜め後ろに立つ商業施設の入り口しかない、と覚悟を決めた。
その場から逃げる覚悟を。
私の前にいたフォロワーの一人が、気を利かせて私に話しかけようと、何度か私を見てくれていたのに気づいていた。
でも私は気づかないふりをした。
「もう今しかないな」
そう思って、商業施設の入り口を目で捉えて、一瞬だけグループを振り返ったとき。
やはりその一人の子が私を見てくれていたのがわかった。
アーティストとは全く関係のない、私と同じ趣味を持った子で、私たちは少なからず仲がよかったと思う。
とても大人しくて、でも関西人らしいユーモアを持った、とても優しい子だった。
一瞬交わった目線を、私は気づかないふりをして外し、一目散に逃げた。
突然いなくなった私を心配して、数人のフォロワーがDMをくれた。
体調が悪くなった、と当たり障りないことを言って、何事もなかったようにやり過ごし、翌日の昼過ぎには東京に帰った。
その翌日以降、私はそのTwitterアカウントを動かしていない。
優しいフォロワーが心配して、改めてDMもくれたが既読すらつけていない。
最低だ、と思う反面、今はもうこれでいい、と思っている自分がいる。
ネット上の私は透明だ。
現実世界において、その人たちに会いさえしなければ、私の存在はすぐに消すことができる。
リアルな人間関係よりも遥かにたやすく、自分という存在を消すことができる。
人は認識するから存在するもの。
逆にいえば、認識さえしなければ存在しない。
私は今、この数年で築いたあの人間関係の中から、自分という存在を消し去りたくてたまらない。
あの世界にいると直面する苦しさや、情報の多さから解放されたくてたまらない。
存在を消し去ったあとに、いつかまた笑顔で「久しぶり、元気だった?」なんてのんきに声を掛けるくらいの人になりたい。
私の中には今いろいろな感情が芽生えている。
だからこそ、私は今なんのしがらみのない世界で、冷静に自分と向き合わなければならないと思う。
自分が素敵だと思う世界、素敵だと思う感性を持つ人。
そうした人たちの中にずっといるのは居心地がいいけれど、その輝きに当てられ続けると私の心が壊れてしまう。
自分自身のコンプレックスを受け入れられなくなってしまう。
ネットの私にはボディがない。
本当に“私”が存在しているのか、確かめるすべもあなたにはない。
でも私は確かに存在している。
現実世界の私はここにいて、こうしてnoteを綴ってる。
これを綴ってる私は確かに本物で、確かに存在していて
でもやっぱり、これを見てるあなたからすれば透明な存在なんだろうな。
はぁネットは不思議だなぁ。
note、改行の仕方が自分の中でまだ定まらないなぁ。