アメリカでラグビーをしてきた理由、高校時代への後悔、そしてシーズンの終了
今日4/20。Quarter final(準決勝)
20-38。負け。
まけたら終わりのプレーオフトーナメント。
次のシーズンは9月から
つまりこの試合が、アメリカで15人制の最後の試合となった。
今カナダから帰るバスの中で、チームメートの横で、これを書いている。
さっきまでみんなでカントリーロードを歌って踊っていた。
多少酔っ払っているし、駄文も許していただきたい。
正直まだ負けた実感はない。
10月の初めからほぼ毎日ラグビー中心の生活をしてきた。
大学生なので勉学が中心ではあるが、
8〜19時くらいまで勉強して、そこか月曜ジム、火曜練習、水曜ジム、木曜練習、金曜休んで土曜試合という毎日を送っていた。
アメリカに留学していた人はわかると思うが、金曜の夜はパーティーが多い。
どこかの家に集まって学校近くでパーティーにいくのだ。
・ただそれさえも、お酒は飲まず、お茶で参加、帰るのは10時台
・授業の合間にプロテインをのみ、餅やピザなどを増量のために食べる。
そんなストイックな生活を送っていた。
アスリートからしたら優しい生活ではあるが、
普通の学生生活よりはかなり自らに制約を課したものだったであるだろう。
たまに人に聞かれる。
「なんでそんなにラグビーやってるの?」
「なんでストイックなの?」
セミプロでプレーしているという事実も含め、非常にこの手の質問をたくさん投げかけられた。
そんな時決まっていつも、「楽しいから」とか、「頑張りたいんだよ」とか、浅い理由を返してきた。
だが今日は少しだけここに記すことができたらなあと思う。
まだ色褪せぬ思い出への自分自身へのオマージュとして。
1.高校時代
僕がラグビーをはじめたのは高校時代だった。
ノーベル賞受賞者も出すような公立の進学校。
しかも15人ぴったりしか選手がいないのに直前の大会で愛知県2位の成績を残してきた。先輩たちに花園へ行くんだと熱く語られ、ロマンを感じ入部したのを覚えている
その年の花園は逃したが、3月に開かれる全国選抜にはチャレンジ枠として出場し、2勝をあげた。
翌年の花園も逃し、僕らの代ではそこに遠く及ばない結果ではあった。
だが全国選抜に出場した経歴で大学に入ることもできた。悪くない高校時代だ。
ただ個人としてみてみると常に何かを逃し続けてきた。
2年の全国選抜前の支部予選では、ロックでスタメンになったのに、不甲斐ないプレーで県大会、東海大会と控えに回る
全国大会でプロップで途中出場し、そこからスタメンに定着するも、夏合宿で骨折
2年秋の福岡遠征、修猷館戦で復帰するも、プレーがひどく外される。
3年になり、コンタクトの強いプロップとしてボールキャリーやスクラムなどで活躍”しかける”ものの、春の大会前に内側じん帯を痛め、離脱
復帰しても練習や試合で膝の靭帯を伸ばし続け、夏は同期でただ1人スタメン落ち。秋には戻るも、スクラムしか組めないそんなプロップだった。
初めてコンタクト練習に混ぜてもらうのも、一番上の試合に出られるようになったのも、同期の中で1番目が2番目に早かった。
春から夏にかけ一個上の代のスタメンに入っていた下級生は、僕含め4人いたが、1人はのちにジュニアジャパン、1人はU17日本代表候補、もう1人は県代表とそこまで悪くない位置にいたと言えるだろう
だがどこか大事なところで怪我をしたり、意欲を失ったりして、3年の途中からは、ただの木偶の坊のような選手であった。
ただ僕がそうなったのにはある一つの大きな出来事があった。
2.僕を変えた大きな出来事
それは顧問側からのいわれのない疑惑と、その周りへの僕自身への不信感だ。
3年に上がる時のクラス分け発表のこと。
多くの生徒がそうであるように、僕の高校もそうであった。
クラス分けの次の日には担任の発表もされ、これまた一つイベントのようになっていた。
だが僕が三年生になるその年。
公式発表される前に生徒側に担任発表が漏れてしまった。
原因は誰かが教卓の下に入っていた各クラスの担任が一覧になった紙を見つけ、それをラインで拡散させた事によるものだった。
ただ何故かその犯人を僕にされてしまった。
理由はパソコンが得意だから。
なぜ得意だと思われていたか。それは全国選抜の際、校内や近隣のコンビニなどに貼るポスターをいくつかのソフトで僕が作ったからである。
そして更に悪いことに当時は
・ラインが出始めた頃、
・高校生などは使っているが、大人は使っていない
・たまにラインでの既読無視やグループにいられてもらえないいじめなどが問題となりニュースになる
・公立の進学校であるがゆえ、年配の教員=デジタルリテラシーが全くない教員が多い
つまり教員間ではラインは何かトラブルの元になるような物という認識だった。
ガラケーを使っている教員も多く、
「アプリ?ネットの一部?ネット?パソコン?」そんな区別さえも付いていない有様だった。
だから「何かパソコンとかネットとかなんか機会が得意なやつがやったに違いない、お前だろう」となってしまったわけだ。
僕としては全く何も悪くないわけではなく、その犯人が拡散させた担任発表が書かれた画像を他人に回してしまってもいたが。
だが教員側が想定するようなことはしていなかった。
ある日の試合後、
監督であるラグビー部の顧問の社会科教員から
「ネットで悪いことしたのはお前だろ」
と怒鳴られた。
当時返事は「はい」か「はっ、、」といいえをごまかしたような返事しかなく、ぼくはごまかしたような返事をしたのを覚えている。
この顧問の先生は県内でも有名な人だったが、60を超え、ITに関連したことは一切わかる人ではなかった。
ただ彼がそれをわかる人になる必要もない。
基本的なラグビーを教えることにストレングスがある人であるからだ。
だから僕は第2顧問の情報の先生のところへ「僕ではありません」と言いに行った。
ただそれに対し彼の答えは
「〇〇(社会科の監督の先生のこと)はわかっとる。」
全く会話にならなかった。
サーっと全身の血が引いて、体の体温が急激に落ちていった感覚があった。
この時僕のラグビーへのモチベーションはゼロに近くなった。
ラグビー部のためにきつい練習の合間にパソコンでデザインしたポスターのおかげで、「パソコンが得意=こいつだ」と犯人に間違われ、
かつ学校教育におけるIT分野への知見を生徒たちに向け広げる立場にある、情報の先生に取り合ってさえもらえなかった。
ここにおいて
ラグビー部のためにやってきたことが回り回って自分への矢となり返ってくるという図式が成立したのだ。
ここでラグビーに対するモチベーションはゼロになった。
同時に情報教育が崩壊していると心の底から学校へ失望したことも覚えている。
ちょうどその頃膝の靭帯を痛め、リハビリが必要だったことから、部活の時間にわざとリハビリを入れて、皆に会わないようにしていた。
ラグビーへのモチベーションも無いから、リハビリ自体へのモチベーションも無く、ただ、ダラダラしていた。
そんな状態だったから、復帰しても1試合で何度も膝を捻り続け、膝が曲がらない、50メートルも走れない、階段も降りられないそんな状態になってしまった。
11月に引退してからMRIを取りに行ったら内側靭帯だけで無く、半月板と前十字も完全断裂していた。
下級生の頃から試合に出してもらっていた選手が、3年生では皆を引っ張るどころか、グランドに立っているのがやっと、何の役にも立たない。
そんな選手に成り下がっていた。
この事実は僕にとってかなり大きかった。
浪人期に学校へ進路報告に行っても、3年生の退部式でもどこか僕には居場所がない。
そんな感覚だった。
浪人の頃もふと気がつけば、何故僕はこうなってしまったのだろうと頭に浮かび、考えていた。
だがある時ふと気がついた。
同期の主将(いまも某対抗戦の主将)だったら、犯人扱いされていたか?
練習熱心で医学部志望、真面目なあいつなら犯人扱いされていたか?
高校時代の僕はすきあらば練習はサボりたい、走りたく無い、フィットネスもない、そんな甘えた選手だった。
監督から課されたきつい練習、しごきには耐えられるものの、自分からは頑張らない。そんな選手だった。
勿論情報顧問の対応や、高校時代のガバナンスやリテラシーに大きな問題はある。
だが本質的に問題なのはそこでは無い。
またこの文自体も彼らへの糾弾のためにかいているわけではないし、問題にして欲しくもない
**大きな問題は自分が信頼され得るに足る人物だったかということだった。
信頼され得るに足る行動をしていなかった。**
そこからである。
自分の行動が大きく変わった。
自分の在り方や姿が周りに大きな影響を及ぼし、回り回って自分に帰ってくるのだと強く意識するようになった。
浪人期は莫大な勉強時間をこなすようになった。一心不乱に。
また膝が治ればプレーできる。ラグビーやり越したことばかりだと思い、リハビリにもかなり力を入れた。
大学入学してすぐはプレーできる状態ではなかったし、だからこそ体育会ではなく、学生クラブというカテゴリーの中で、コーチやきちんとした練習環境、いうならば、高校や国公立大学のラグビー部くらいの厳しさやレベル感でやっているチームを選んだ。
あれほど嫌いだったフィットネスも、10キロ走などを自分に課し、常に上位をキープするようになった。
練習も積極的に取り組んだ。
ゴミなど落ちていれば当たり前だが拾い、ロッカーの掃除や靴を揃えることなどもこだわるようになった。
学生クラブというカテゴリーは、私立大学の多い関東では一般的だ。
私立大学の体育会となると全寮制で週6日、バイトなどはできずラグビーに四年間を捧げることになる。
そうではなく学生生活も楽しみながらきちんとラグビーをしたいという学生クラブが盛んになるのは当然の流れだろう。
僕が所属するチームも元体育会の監督がコーチにつき、対抗戦二部のチームや社会人チームとの試合も多く、夏合宿は10日間などそれなりにラグビーに熱を注いできた。練習も平日はかなり厳しい。
ただ僕の地元の愛知ではそんな実情は知られていない。
「所詮サークルだろ」「合宿なんてないだろ遊びなんだし」などと地元の友人から言われたこともある。
高校時代のクソみたいな自分、そんな目を覆したく、大学でも熱心にプレーした。だがそんな目を覆せるわけではなかった。
また自分のラグビーの頂点は高校時代に全国に出たことだが、そんな思い出を上書きしたく、アメリカでセミプロチームでプレーするようになった。
3.そして今日
そして今日。冒頭に書いた通り負けた。
アメリカとカナダのリーグを制覇すること、何かで1番になることはできなかった。
目標にしていた一軍出場はレギュラーシーズンの最終節の残り10分で達成することはできた。
だがそこで結果を残し、一軍の上のプロチームのワイダースコッドに入れたわけでもない。
一試合でもマンオブザマッチになれたわけでもない。
ただレギュラーとしてDivision.1カテゴリーで試合に出続け、プレーオフ進出まではたどり着けただけだ。
今日の試合もかなりの回数タックルしたが、自分のペナルティから敵陣に入られ、失点した。
後半開始早々にキックオフから抜け出し、独走したのに最後追いつかれてトライできなかった。
後悔ばかり浮かんでくる。
試合終了の瞬間、感情が高ぶって泣いてしまった。
優しくハグしてくれる奴、「お前はマジでおれのブラザーだ」とかそんな言葉をかけてくれる奴、そんなチームメイトたちに囲まれて心の底からよかったと思う。
また日常的に国の代表やW杯経験者、プロ選手と体をぶつけてこられたのは大きな財産だった。
次の火曜日、当たり前のように練習に行く気がしてならない。
当たり前のように「Yo, What's up man」とか言いながらミーティングが始まるような気がしてならない。
でもそれはもうこない。心でそれを理解した時、もっとさみしくなるんだろうな。
そろそろ家の近くまで戻ってきた。
もう12時。中間テストに向けてまた明日から勉強しなければ。
でも今週からは月曜日も水曜日も金曜日の夜もお酒が飲めるなあ。
応援してくれたみなさんありがとうございました。
6~8月はセブンスのシーズンなので、8月の帰国まではセブンスをします。
海外ラグビーと日本のラグビーを繋げられるような何かを企画しているので、お楽しみにしていてください。