山菜夜話11 ウド
山菜と言えば、暗くじめじめした雪解けも終わりきらないような湿地の片隅に、恥ずかし気に顔を覗かせるような山菜が多いけれども、日当たり斜面に堂々とその姿を現すウドという奴は、その色彩や姿形も相まってどこか健康的な植物のように見える。太陽に愛されているかの山菜の趣きに満ちている。栽培品の東京ウドが有名な関東圏の人たちには、軟白ウドの方が目にする機会が多いのだろう。軟白ウドの方をウドと呼んで、山でとれた野生のウドをヤマウドと別名をつけて区別したりする向きがあるようだけれども、本来、太陽のもとでまっすぐに育つこちらの方こそが本家本元のウドであろう。もちろん、泥土の斜面にもウドはその姿を現してはくるものの、勢いよく群落となって生い茂るのは、よく陽の当たる斜面である。ダイナミックに斜面が崩れたところ、生命力の強いほかの植物たちの中に混じって、競って伸長していくウドの存在感は、生命の息吹きがみなぎっているようで、見ていてとても勇気づけられるものだ。「光あるうちに光の中を歩め」、そんな信条でも抱いているかのように、枯れ草の中、すっと背の高いウドが伸びやかにその葉を広げて生い茂っている。
ウドは毎年ほぼ同じ場所に顔を出すので、ウドの枯れ殻を探せなんてことを言われるが、ウドの好む生育場所は崩れやすい斜面であることが多く、昨年見つけたウドの崖が、今年は土砂によって埋もれてしまっていたなんてことは、珍しいことではない。枯れ殻を探し出すこと自体がなかなかに難しいことであって、何年か山に足を運んで、ある程度ウドの生育する場所を覚えていればこそ、枯れ殻を頼りに今年のウドを探し当てるなんてことも可能であるが、山入り初めてなんて人には、枯れ殻を探すこと自体がウドを探すことよりも難易度が高いのではないかと思えてくる。土砂によって埋まってしまえば、枯れ殻だって土の下ということになるわけであるし、それならば、すでに土の上に顔を出して伸びているウドの姿を目指した方が、効率がよいはずである。土砂の奥底から力強く再生してくれているウドの姿を見かけると、今年は見逃してやろうかなどと、貪欲な山菜採りらしからぬ大らかな思いに捕らわれてしまうこと、たまにある。図鑑などでは、ウドは、崩落斜面を好んで出てくるとは言うけれども、ウドの生育しているところの斜面が、特別、崩れやすいという気はしない。おそらくはウドの根に守られて、斜面はがっちりと固められ、それ以上には崩落しない場所であろう。大きくえぐり取られて崩落しているように見える場所でも、雪とともに土砂や泥濘が上滑りしているだけで、地盤自体は固く締まっていることが多い。上滑りしてきた土砂によって埋められることで、ウドのおいしい白い部分が増えるわけであるから、崩落土砂もまた、ありがたい存在ではあるのである。
ウドは、山菜の王様という言われ方をされることが多いけれども、私には、ウドはどこか女性的なたおやかさを持っている山菜のように感じられ、姫や王女とでも呼びたいようなそんな気分にされられる。やわらかく広げられたウドの葉先には、なにやら、しとやかさややさしさを感じる。考えてみれば、ウドの白い産毛も、なにやら妙に色っぽい。その白い柔肌へ、酢味噌和えの酢味噌を垂らした姿には、エロティシズムを感じずにはいられない。ウドは主に、天ぷらに揚げたり、酢味噌で和えたり、豚肉と合わせて醤油で煮たりなどして味わうが、私が最も好きなのはウドの皮の部分を活用したきんぴらである。本当なら捨てるような部分でさえもおいしく味わえるところが、ウドという山菜の真骨頂であろう。ウドの大木などという不名誉な慣用句が巷間流布されているけれども、木材という単一の価値観による見方だけに縛りつけられた狭量な見解である。ウドのえぐみに対する耐久度は人によって差があるようで、酢味噌和えで次々と食べれる人と、それほど量は食べられない人に分かれてしまう。わたしは実は後者の方だ。そんなわけで、わたしは天ぷらやきんぴらの方が食が進む。
ウドを掘るときの理想は、木の枝で土をかき分け、斜面の下へ向けて折り採ることであろう。東北の山の奥の方には、ナイフのような金属の刃でウドの根元を傷つけると、金属の毒素が影響して、ウドがふたたび生育しなくなるという迷信じみた風習がある。ある時期までは、わたしも、ウドにナイフなどの金属の刃を突き付けるのをためらっていたが、今となっては、カッターや山菜鎌などで普通に切り採るようになってしまった。折り採ったウドの切断面よりも、金属の刃でスパッと切られたウドの切断面の方が、機械的で愛情のない採り方をしているかのような気分になるので、自分で選択したことながら、維管束が輪切りにされた切断面は、あまり見たくはない。せめて、ウドの切断面には土をかぶせて埋め戻し、人の目には触れないように配慮する。あいつはナイフでウドを切る奴だなんて、後から来た山菜採りに思われるのも、山菜採りとして何やら恥ずかしい思いもしてしまう。そんなわけであるから、ウドを収穫するときは、ウド掘りと言って、大地から顔を出したばかりの若芽を、なるべく土の深くまで掘りすすめて、収穫するものと考えていたものであるが、あるとき、津軽の山菜採りたちは、あまり土にまみれず、地べたを這いずりまわらずに、ウドを採集していることに気が付いた。津軽の山菜採りたちは、若芽の状態のウドだけではなく、子供の背丈ほどにも充分に伸びた枝先の、その若葉の部分を切り取って、これを天ぷらに揚げて味わっていた。同じくウドを活用する土地とは言っても、その内実は一様ではないということも多くあるようで、そこが山菜文化の面白いところでもある。
ウドを切り採るとき、生き物を殺している感にとらわれることがある。土の中に隠された幹の白さ、やわらかな毛並み、ほどよい太さ、痛々しくも赤さのにじむ根、土を掘り、柔肌に刃を突きつけて力をこめる。一瞬の芳香、力なく崩れ落ちるウドのあられもない姿。刃を突き立てた先の皮の硬い印象に反して、さしたる抵抗もなくサクッと刃先が通り抜ける。ウドを殺ることとはこんなにもたやすいものかと、あまりのあっけなさに少し驚く。土をかけて、折り採ったその場所を鎮める。まるで、してはいけないことをしてしまった咎人でもあるかのように。人殺し、そんな言葉を突き付けられても、その瞬間なら言い訳などしないかもしれない。その手にかけて殺めてしまったものは、はたしてウドだったのか、はたまた人であったのか。手の奥に残る感触は、まるで愛しき女を殺めたかのような、そんなずっしりと重い感覚。ああ、ウドよ、私はおまえをこんなに愛しているのに、おまえはいつもつれないじゃないか・・・、殺しの動機は、おそらくは、そんなところであろうか。うしろめたさのあまり、見えているウドの切断面には土をかぶせ、何食わぬ顔で平静を装う。遺体を土に埋めて隠す連続殺人鬼の心持ち、かくやあらん。草と枝と藪で覆われたこの沢筋には、人影などはないにも関わらず、なぜかあたりを見回して意味もなく周囲の気配をうかがっている。もしも通りすがりの見知らぬ山菜採りに出くわしたなら、ポオの「黒猫」よろしく、ここにウドの遺体が眠っているぞと、思わず声高に叫んでしまいそうだ。遠くで鳥の啼く声がして、時間が動き出している。静寂を突き破るのはツツドリの啼く声か、センダイムシクイのさえずりか。Who killed Cock-Lobin。誰がコマドリを殺したのか、鳥たちはみな気になると言うのか。このウドを殺した犯人は誰か。山菜山という周囲からは隔絶されたクローズドサークルで、犯人探しが始まってしまう。名探偵がふらりとやってくれば、証拠は、彼女が最期につけていた香水のその残り香だと言うだろう。名探偵は、ウドの残り香が、指にしみついたままのわたしを指差す。そう、犯人はあなたです、と。わたしは、ウドの香りの残る自分の指先を確かめると、その罪の芳香に恍惚としてさいなまれるのだ。
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