湖沼鉄「みすず」と諏訪信仰。

田んぼの取水口などに浮いていて、油膜が張っているかのように見えるアレ。
実は、鉄バクテリアによって自然界から分離された、鉄なのだそうである。

あの油膜のようなものが、長い時間を掛けて葦などの注水植物の根や茎にまとわりついて固形化したものが、「みすず」だとか「高師小僧」などと呼ばれる「褐鉄鉱の塊」なのだそうだ。
注水植物にまとわりつくことで、湖沼地帯に特徴的に見られる褐鉄鉱の塊を称して、湖沼鉄「みすず」と呼んだらしい。

思い返せば、子供のころ、登下校で往復していた道のわきの用水路などに、油膜のようなものを見かけていたこともあったし、遊びでガマの穂などを採りに湿地に分け入ったとき、地面に赤錆のような色が付いていたのを思い出す。
あれは、鉄だったのか。

みすずとは「御スズ」。
「すず」という言葉は、本来、鈴でも錫でもなく、湖沼鉄のことを指していた。
太古の日本人が最初に手に入れた鉄とは、どうやらそんな鉄であったらしい。
そして、そのことに気が付くと、信濃に用いられた枕詞「みすずかる」の意味がわかるようになる。

「みすずかる」信濃。
御スズの付着した葦の根を刈り取る土地・信濃…である。
古代、みすず刈る信濃は、良質な湖沼鉄の産地として認識されていた可能性がある。

信濃国には、フォッサマグナの構造の上に湖水をたたえる、諏訪湖という特徴的な湖がある。
諏訪湖の周辺は、良質な黒耀石の産地として、縄文文明が栄えた土地でもあるから、湖沼鉄の存在に気付いたのは縄文人ではなかったかと勘繰りたくなってくる。

秋田の伊勢堂岱遺跡のすぐそばで、泥地に油膜のようなものが広がり、そこでヒルが数十匹うねっているのを見かけたことがある。
あれもまた鉄だったのかと思うとともに、その場所が伊勢堂岱という縄文遺跡のすぐわきの水辺であったことが、妙に引っかかる。
伊勢堂岱の縄文人は、湖沼鉄の採れる土地をあえて選んで、集落を設けたのではないかと勘繰りたくなってくる。

注水植物の植物体が腐ったあと、みすず(高師小僧)は、筒状の形に残る。
その出来方によっては、筒の内部に舌のようなものが残り、がらがらと音が鳴った。
これこそが、本来の「鈴」なのだという。
「鈴生り(すずなり)」という言葉があるけれども、この湖沼鉄生成の姿にその由来があるともいう。

葦の群落の根元に「鈴生り」に出来た「みすず(高師小僧)」を、棒の先端につけたもの、それが諏訪の鉄鐸「さなぎ」なのだという説があるそうだ。
鉄鐸「さなぎ」とは、舶来品の銅鐸に先駆けて、日本に、そして信州諏訪に存在していた祭器であったのかもしれない。
諏訪の土着神・洩矢神は、「鉄鎰」をもって、建御名方神と戦ったという。
神話の中に組み込まれるほどに、諏訪の洩矢神と鉄とは、切り離せない象徴だったのだと思われる。

鉄を有する洩矢神と戦うことになる建御名方神は、諏訪入りの前に塩田平(上田)に立ち寄り、生島大神・足島大神のもとを訪れ、協力関係を結んだという。
生島足島神社は、大地そのものを御神体として祭る神社であるというが、そこにもやはり隠された秘密がありそうな気がする。

生島足島神社とは、もともと、塩田平の奥の泥地のほとりにある泥宮神社が始まりの地だったとされている。
大地というよりは、泥を御神体として祭っていた神社であったかのように思える。
以前は、稲作にまつわる水田の泥を祭っていたもののように考えていたけれども、今では、別の考えに取りつかれている。
その泥とは、あるいは湖沼鉄を生み出す葦原の泥地だったのではあるまいか。

建御名方神の出自は、弥生の製鉄民・出雲族であるという。
縄文時代以来の発展した土地柄とはいえ、建御名方神は、なぜ諏訪という土地にこだわってここに到達したのか。
建御名方神の諏訪入りとは、国を譲らぬための戦いを続けるための資源、良質な鉄の産地を求めてのものであったのかもしれないと思う。

泥宮神社の一帯は、中世には手塚氏が治めていたけれども、手塚氏の出自とされるのは、諏訪下社の大祝・金刺氏である。
泥宮神社の付近には、木曽義仲に従った手塚太郎光盛にまつわる史跡も残されている。
いや、もともと金刺氏はこのあたりの支配者で、本来、生島足島の神を祭っていた主体だったのかもしれない。

金刺氏は、建御名方神の勢力と同盟し、塩田平(上田)から下諏訪一帯に勢力を広げ、信濃国に重きを成したのかもしれない。
そして、建御名方神の勢力の血統が、上社の大祝となったように、金刺氏の血統が、下社の大祝となっていったのかもしれない。
信濃の謎は、あまりにも深い…。

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