自給2000円の一人親方
45歳から55歳まで、NTTで電話の故障修理の仕事をしました。
本当は、友達が誘われた仕事だったのですが、本人が行きたくなくて私に回してくれたものです。
私は、それまでニッパとか使ったことが無く、まして電話関係の機械もいじったことがありませんでした。それでも、時給2000円の魅力に負けて、「津久井君なら大丈夫だよ」の言葉を信じて勤めることにしました。
入ったその日に、あまりに畑違いで無理だと思いました。でも、その夜、私の歓迎会が開かれてしまい、仕方無く1週間いることにしました。それが10日になり、1か月になり、3ヵ月になり、10年勤めることになりました。
身分としては、飯島通信という会社からの派遣社員で、NTTの社員の方と一緒に仕事をする形でした。同じ飯島通信から2人の派遣社員がいて、彼らは電話工事のベテランでした。飯島通信の社長さんからは、2人に聞いて仕事を覚えて下さいとのことでしたが、後で2人に聞いたら私みたいな素人は、自分達の評価を落とすものだから、辞めさせるつもりだったそうです。
NTTはその時期、色々な意味で過渡期でした。民間委託ができなかった故障部門を民間に移行。地域ごとの拠点の閉鎖。通信手段の革新。(アナログ→ISDN→ADSL→光回線)です。
入って1か月程、誰かと一緒にバケット車に乗って、顧客の故障修理に行きました。その後は、できる仕事を選んでもらいながら、一人で修理に行きました。
この仕事では、スキルが命で、治せる治せないは、その人の着眼点と技術でした。現場に行って、故障の原因が、家の外か家の中かから始まり、原因が特定できたら、それを修理か交換するだけです。経験値があれば、それなりに対処ができ、やればやる程、向上していきます。ただ、こちらが見たことの無い機械やケースも多々あって、行く前から諦めてしまうと、それで終わってしまいます。
時代の流れとしては、安全運行業務的な作業が増えてきて、修理をする前に準備の時間を割かなければならなくなっていきました。
誤接についても、100万円という罰金制度ができました。例えば、局内の端子盤で線を隣に繋いでしまったりすると、番号が合っていたとしても、かけた電話が違う家にかかってしまう訳です。
55歳になって、老眼が酷くなってきて、ある時、お客様の家でルーターの設定をする際に、文字が小さくて見えなくて、老眼鏡を借りてしまいました。この時、もうこの仕事は無理だなと思いました。老眼鏡の力を借りることにためらいを感じて、仕事を変えることにしました。