じたじた。
週に2回ってどういう意味だっけ。
最低でも週に2回更新したいってどういう意味だっけ。
そして考える。
日常に特になにもネタがない。
いわゆるリアル友達みたいなの、いや、ネットですらも友達レベルの人は今はいないし、Twitterでも滅多にリプのやりとりみたいなのはしない。
ならば過去、と思ったが、昔話もやっぱり記憶に残っているのは「ねがちぶ」なコトばかりで、楽しかった思い出などは色褪せすぎて楽しい記憶だったのかも今ではわからない。
ちょっとおかしかった時期に、全てを「ねがちぶ」に上書きしてしまったようだ。なにかを考えるコトすらしなくなってしまった時に、いろいろなくしてしまった気がする。
なので記憶を頼りに楽しかった頃の思い出話をしようにも、老化と数字に弱いのがあいまって何年頃だったとかいくつの頃だったかとかとても曖昧だ。へたに書いたら「それ違います」とか叩かれそうで怖い。語れるくらい記憶がしっかりしていたら、70年代後半から80年代あたりのオタクという言葉もなかった頃の話を面白可笑しく書けただろうなぁ。
唯一確実なのは、昔に描いていた漫画などのラストページにサインしてある脱稿日。これだけは間違いない。pixivにいくつかサルベージして置いてある。が、結局はこれもネタではなく。
ネタがないなぁというコトをネタにしながら、思う。
感受性が枯れるってこういうコトなんだろうなぁと。
そりゃあ何を書いても面白いモノにはならないだろう。それは百も承知。
活き活きとした感受性で創られたモノは、たとえ稚拙な部分があっても惹かれてしまうものなのだ。下手だからってのは面白くない理由にならない。
ホントはここで『自分はこうして克服したよっ』てな記事にするのがnoteらしいんだろうけど、現在進行形なので。いや、克服できるかなぁ。このまま貫いて「死ぬまで鬱陶しいほどに根暗でねがちぶな人でした」も個性なのかな。そこにせめて技巧なり感性なりがあれば個性として売りになるのだろうな。うわぁ、見事になにもないや。
ネタがない。こういうコトするには足りないモノが多すぎるんだろうが、なんかちょっと、いやかなり悔しいのである。だって、ネタも作れないってコトだし。頭が悪いなりに、じたじたするのだ。
じたじた。
ああそうだ、ここの表紙やトップ用の固定絵描こう(宿題)