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朝井リョウ『正欲』

⌇朝井リョウ『正欲』2021年 新潮社⌇


朝井さんのラジオ(ニッポン放送「高橋みなみと朝井リョウ ヨブンのこと」2017年1月1日から2021年3月28日まで放送)でたまに話される性欲に関係するような話がとても好きだった。

だから、正しい欲と書いて正欲という本が出るとわかったときからとても楽しみにしていた。



「多様性」という言葉を使うとき、何かいいことを言っているような気がしてしまう。
なんとなくで「多様性」と言っておけば、自分をアップデート済の人間に見せることができている気がする。「理解できる側の人間」であるかのように。


しかし人は本当に「多様性」を「認める」ことができるのだろうか。いや、「認める」……?「理解できる」……?

上から目線に一体どういうつもりなんだろうか。



「多数派」である人間が「多様性」を主張するときどうしても「自分たち多数派とは違う人たちのことも受け入れてあげよう」というような傲慢さが出てきてしまう。
そして、その「違う人たち」というのは自分が想像しうる範囲にいる人たちであり、決して自分に危害を与えることのないであろう存在のことを指している。

「同性同士の恋愛だって尊重しなくちゃ」

「性欲がない人だっているよね」

とは言う人は増えてきた。


でも、

「嘔吐する様子に欲情する人だっているよね、気持ち悪がるなんてひどいよ」

「ミイラみたいにぐるぐるまきにされてる様子を思い浮かべると興奮しちゃう人だっているよね」

と言う人はまずいない。

目に見える「多様性」を尊重するだけで境界線をなくすことができたと錯覚してしまう。
理解できるとする範囲の輪っかが少し広がっただけなのに。その外側にも人がいるのに。


想像の輪郭の外にあるもののことは無意識に拒絶の対象にしてしまう。



中途半端になんとなく認めた気になる前に、「多様性」をまるで流行り言葉であるかのように浅く消費する前に、
「自分とはどのような存在なのか」
「多数派っぽいから何も考えずに安心している部分があるかもしれない」
などと考えてみたい。


……まあ自分が「多数派」であると思い込める人は想像しうるところにだけ言及して自分が中途半端であるということに気がつけないままでいたほうが幸せだろうな。



⚠️物語内容に直接触れます。

構造が見事だった。
最初の謎の文章。何が何だかわからず、誰が話しているのかもつかめないが、語り手の主張に漂う強さのようなもの、切実さ、煮詰まり具合に惹かれて一気に引き込まれる。

次に事件の記事。ここで出てくる人物たちがその後すぐに登場するため、いずれこのような記事になるのだということを知りながら読み進めることになる。


それらも見事だったが、1番私が衝撃を受けたのは最後の方の田吉の証言パートだ。
そこまで読み進めた読者は、田吉の意見に否定的な気持ちになるだろう。切なさや憤りを感じると思う。
しかし、ふと気がつく。
田吉の主張を、この本を手に取るよりも前に読んでいたらどう感じただろうか。今と同じように否定的な気持ちになっただろうか。いや、ならなかったのではないかと。

それまで少数側の気持ちの吐露を読んできたために否定的な気持ちになったが、一般的な世の中の意見はこちらなのだと気がつくのだ。厳しい現実を突きつけられる。

多数派側でいることの辛さ、難しさ、葛藤の方も数人にわたりきちんと描かれていて、以前の作品で主張されていた集団内のグラデーションも意識されていたのではないかと思う。


恋愛ドラマが苦手な理由は

「“恋愛感情によって結ばれた男女二人組”を最小単位としてこの世界が構築されていることへの巨大な不安がそっと足のつま先に触れる」p.46

から。

中学生の両思いらしき男女のちょっとしたやりとりは

「人間の異性に性的欲求を抱ける者同士のコミュニケーション」p.151


こうした表現により、恋愛というものは一体なんなのだろうか、この世界にとってどのような意味を持つものなのか、というように考えられたのも面白かった。



ラブホテルも避妊具も堂々と存在している。みんなの欲は存在をきちんと認めてもらえている。世の中から肯定されている。というようなところで、いま普通とされている性行為が少数派な世界だったら本当に気持ち悪がられるだろうなあ、異性の性器に興奮するのが少数派だとしたら、、と想像してゾッとしつつ笑えた。ある現象への意味づけって本当に不安定で曖昧だ。



私は自分の特徴が所謂「HSP」と呼ばれるものによく当てはまるけれど、なんだかそれを認めたくない気持ちが強い。
いろいろと理由はあるが、「HSP」という名付けにより簡単に社会から理解されてしまうような気がして気に食わないからというのも一つの理由だろう。
これだけ生きていてもまだ住み慣れない自分の身体を勝手に受け入れないでほしい。私は自分のことを「繊細さん」だなんて思いたくないのに名付けないでほしい。

このような感覚は、大地の主張と似ている部分があるのではないか感じた。もちろん名前があることで楽になることもたくさんあるし、救われる部分もいっぱいあるんですがどうしてもモヤモヤしてしまうんですよね。

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