誤解が炎上を招く今の時代で誤解を恐れない姿勢を持ちたい
僕は高校時代ぐらいまでは、テストで高い点数をとるというある種のゲームに没頭していたところはありました。
いわゆる偏差値の高い学校にいた人達はみんな少なからずそういうところがあるんじゃないかと思います。
ただ、国語という科目がどうも苦手でした。
ちょっと言い訳じみていますが、現代文の問題でありがちな、
「傍線部で筆者が主張したいことを〇文字以内で書け」
みたいなのって意味わからなくないですか?
そんなん本当のところは筆者しかわからんやん。と
時々国語の問題として採用された文章の筆者が、「いや、そんなことまで考えていなかったけどな...」とSNSで漏らしていますが、
人が書いた文の解釈を一意に求めるのは無理があると思っていて。
もちろん、国語は、文章を素直に捉えた時にここでどういう主張がなされていると読むことがベストなのかを答えるゲームなので、つべこべ言わずにルールにしたがってやれよということなのですが、どうも違和感がありました。
コンテンツ全般に言えると思いますが、
自分なりの解釈をすることはクリエイティブなことだし、
そういう色んな解釈を産むものってクリエイティブなものだと思います。
会社のとある先輩が
「誤解はクリエイティブだ」と、哲学者クリプキとウィトゲンシュタインの事例を挙げながら言っていました。
ウィトゲンシュタイン(名前なげえな)の論をクリプキがやや誤解しながらも解釈し俎上にあげたことで、世の中から注目され、論が進んだという例らしいです。(最後にどういう哲学のお話か載せておきます。好きな人は好きかも)
身近な例でいえば、歌詞。
例えば、ミスチルの桜井さんや、椎名林檎さんの歌詞って詩的で、比喩的で。なかなか解釈が難しい。
広告業界では「ざらついている(⇔ツルっとしている」ともいったりしますが、このざらつきが個人的には好きです。
一意に解釈できるのではなく、想像を膨らませる余地がある といった感じ。
悪い例で挙げるの恐縮ですが、西野カナの歌詞はツルっとしている。誰が読んでもまあ同じ解釈をする。それはそれで否定はしませんが、奥行を感じない感覚です。
(群青日和 まあここまで行くとやりすぎな感じはする)
広告の話をしましょう。
今難しいのは、情報過剰の現代に置いて、
①直球で言う広告が売りにつながる
②誤解を招くとすぐ炎上する
ことです。
①の例で言えば、本麒麟のCM。
タレントにひたすら「うまいうまい」と言わせる戦法。
ただ、めちゃくちゃ売れている。これも一つの勝ち。
決して面白い広告ではないが、あくまで広告を作る大事な目的の1つは「売上を上げる」ことであって、「面白い広告を作ることではない」(大事)
そしてメッセージはシンプルであることも現代に置いては大事。
②の例でいえば、ロリエのCM。
「生理は個性」というメッセージが望まぬ受け取られ方をされ、炎上した例。まあ、テーマ自体が火がつきやすいテーマではある。
伝えたかったのは、症状も千差万別であることをみんな理解して、想像力を働かせて女性に接しましょうということだと思うのだけど。
「個性?なめんなよ?」と炎上してしまったわけです。
「個性」という言葉は基本ポジティブな意味で使いますし、言葉として強い。キャッチー。
ただ色んな解釈を産む『ざらつき』があったことで、この件は炎上してしまった。
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現代において、『ざらつき』のある広告を出すのはあまり得策とは言えないのかもしれない。
でもなんだかなあ、と思う自分もいる。
決して自己満足な広告はダメだけど、シンプルでありながら、解釈の広がりを産むようなものは作れるはず。本麒麟みたいに商材や市場の状態として、直球勝負が勝ちな場合もあるけど、社会への問いかけがあって聞き手の中で広がりがあるのは良い広告/良い仕事なんじゃないかな。
誤解が炎上を招く今の時代で誤解を恐れない姿勢は持っていたい。
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【おまけ】クリプキとウィトゲンシュタインの論
簡単に言えば、
あなたが当たり前のように従っている規則は、私がいう一見おかしな規則に従っていると言われてしまえば、それを否定することはできない。
というややこしいお話。