宿屋徒然 市内電車と喜代多旅館
喜代多旅館と市内電車1
当館のすぐ傍を、市内電車が走っています。旅館の部屋の窓からでも見えます。
早朝6時前に始発が走りますので、音が気になって朝方起きた、というご意見もたまに頂きます。(周知出来ていなくて申し訳ございません。)
けれどこの地に長くいると、街の音の一部になっていて、聞こえてこないと調子が出ないのです。
今年の富山県の冬は大雪でした。市内電車はバスに比べ割と雪でも定期的に走っているのですが、今年は数日間、完全ストップでした。
市内電車の走らない富山の街はしんと静まり返っていて(雪には吸音効果もあります)、まるで世紀末映画を見ているようでした。だから富山の街に住む者にとっては、雪の日、暴風の日、大雨の日、ガラガラと市内電車が走り出す音を聞くと、「今日も街が動いた」と安心する音なのです。
街が平常運転していることを示す音、です。電車さん、今日もお疲れさま。
喜代多旅館と市内電車2
当館のすぐ傍を、市内電車が走っています。旅館の部屋の窓からでも見えます。
この「電車通り」と呼ばれる道は、富山城の一番外側の大堀があった場所。
お堀跡に沿って道が出来ているそうです。
江戸時代、桜木町一帯はお殿様のお庭だったとか。中でも松川に近い部分は、見事な梅が並んでいたそうです。
現在、当館のある桜木町(当館の住所は総曲輪ですが、「桜木町」と地元民が認識する地域の隅の方にあります)は、昔でいう「花街」。スナックやバーが軒を連ねていて、夜ともなれば赤青様々なネオンが光っています。当館は昭和24年、戦後まもなくの創業です。空襲で95%以上が焼けた富山市では、復興途中で、このあたり一帯はまだ野原だったと祖母から聞きました。
一昨年前、旅館を再開して間もなく、郷土史家の仙石正三先生が面白い情報を教えてくださいました。江戸から明治にかけて、ちょうど当館のあたりに著名な富山藩士の武家屋敷があったそうです。
そのお宅とは、文化勲章を受けた「山田孝雄(やまだよしお)」博士の生家です。当時の学閥主義の中で、地方の一研究家の出した論文は、長い間学会から放っておかれました。しかし、腐らず研究を続け、「山田文法」を確立したと言われる方です。
孝雄博士の御父上は、国学者で富山藩の連歌の師匠。藩では連歌が推奨されていて(実利一辺倒の富山県人イメージからすると、意外!)屋敷では度々、連歌の会(藩士のサロンでもあり、国文学、芸術的感覚の厳しい道場でもあった)が開かれていたそうです。
時に交流を楽しみ、芸事の腕を磨きながら、学問や時代感覚も研鑽しあう。この場所に流れているのは、そのような先人たちのエッセンスかもしれませんね。
女将
休んでかれ。