なぜ私は落語がスキッ!なのか
この世の中にいろいろエンタメが溢れかえるほどあるのに、どうして落語に今さらハマるのか。自分でも摩訶不思議でした。落語にハマり始めて半年ほどが経って、一度コトバにしてみたいなと思いました。うまく綴れるかは別なんですが。。
私の今現在の状況も、もちろんハマるキッカケだっと思います。人のカッコ悪い部分でさえ肯定する世界は、救われるキモチになる。少なからずワタシの心象風景が投影されるのだろうと。
聴き終わった後の読後感がなんとも幸せなんですね。その感覚、その空間に包まれていたいからスキなんです。それが第一印象でした。それからもっと、なぜ?を思考してみました。
そのために、いろいろな本やいろいろな噺をヒントにしました。
包摂が前提にある至芸
落語って、「聴き手に想像と創造をさせる余白の芸である」と。
確かに、私が想像する芝浜の海と隣で聴いている人の芝浜の海は、たぶん違うんです。それでも同じ海でもあるんです。違うんだけど、同じでもあるんです。
多様さを許容しながら、それでいて共感できるということ。
個々の創造だから違いさえも、もっというと誤読さえも、愉しめるということ。
「ナラティブ」というコトバが一番近しい体感。唯一無二の想像を掻き立てる。もちろん他の人とも違うし、その時の心境その場所その噺家によっても違う世界が広がる。そして、誤読も含めて個々の創造の域へと誘うのが、落語のチカラだと想う。
そうして、ワタシは落語の沼に沈み、「落語の國」にやってきた。
私のざっくり解釈の「ナラティブ」とは、人それぞれで違っていて、
自分が主導して出来上がる物語のことだと理解してます。
例えば、RPGゲームにおいて、自分の意志で、どの方向に進んでいくかを決めていくことで、人それぞれ違う冒険の物語になるといった具合です。
「ナラティブ」をとってもわかりやすく説明してくれている方がいるので、ご参考に↓
次は、具体的な落語の世界に登場する、名バイプレイヤーたちから考える魅力から紐解いて、自分の中に芽生えた落語のスキッ!をコトバにしてみたいです。