2019年-らくごはワタシの生きる拠り所だった
去年の2018年12月20日に初めて落語を生で聴いた。初老の男性が話しているだけなのに、涙が出てきた。演技が抜群に上手というわけでもない。座布団の上に座って扇子と手拭いだけで、煙草やお箸の表現をする。身振り手振りもそれほど使わない。江戸らしき時代の物語だし、誰が喋ってるだとか、場面が変わっただとか、わからないこともあるが、丁寧に説明はしてくれない。
なのに、なぜ涙が出てくるのかよくわからなかった。とにかくスゴいと思った。この方がスゴいのか、落語がスゴいのか?
しばらくして、ワタシは体調を崩して何も手がつかなくなった。心身ともにバランス感覚がなくなった。文字を読むことさえ辛くなってきた。ほとんど理解できないし(今までもそうで気づいてなかっただけかもしれない)、体中が痛くて仕方なかった。
めまぐるしい情報を自分の中に入れるのが、億劫になって、ほとんどの情報と選択肢を遮断した。そうするしかなかった。
かなり長い期間ボーっと、ジーっとしていた(その期間のことは長いので割愛)。このままってのもなぁぁっと思って、ランニングを始めた。普通のランニングからは程遠くて、しんどくなったらすぐ歩くし、ベンチにも座るし、タバコだって吸う。ある日、走ったり歩いたりしてると浅草の方まで来た。その時、ふっと落語のことを思い出した(落語好きの友人の影響もある)。
浅草演芸ホールってあったなぁ、そんなに遠くないんだぁ。
もいっかい聴いてみたい気持ちが湧いてきて、落語を聴き始めたのが6月。それから毎日、浅草演芸ホールに入り浸った。お弁当を持って夜までずっと。それからは、どんどんのめり込んでった。
落語を聴いていると、許容されている気がしてくる。ざらっとした心にゆとりを与えてくれる。少数も多数も、常識、非常識も、日常、非日常も所詮相対的なものだと可笑しみに気づかせてくれる。ワタシを支えてくれたんだと思ってる。
立川談志師のコトバで、しっくりきた。
落語とは、人間の愚かさ情けなさ全てをひっくるめて認め、それを抱えてなお生きていく人間の姿を語るものだ。
帰り道では、ほとんど忘れてしまっていて、泣いて笑った心地よい感覚だけがある。そのやさしい温度の世界を味わいたくて、また落語を聴きにいく。
そうして、6月から12月までで、533席を生で聴いていた。色物さんも含めて。落語に手を伸ばせば届く東京じゃなかったら、こんなたくさん聴けなかっただろうし、出逢いすらなかったのではないかな。
落語のなんたるかは、ワタシにはわからないけど、落語がスキでただ笑っていたい。
落語は「何にもないけれど、何でもある。」