大局観を養う
未来を生きるために
時代というのは、いつも混迷を極めている。
この先、自分がどんなことをすればいいか深く吟味しなければならない時には、「大局観を養う」ことが重要である。
大局観を養えれば、未来へのアプローチが伺える。それはどの分野にも有効で、かつ戦略的に計画を立てやすくなる。
孔子も「遠くを考えないでいると、必ず近いうちに嫌なことあるよ」と云っていたように、大局観というのは遠い未来までを見据えることで、現在何を行えばいいかが分かる道しるべとなる。
大局観の視点とは何か
そもそも、どんな視点で大局観を身につけるというのか?
一つは「全体観」である。
私達は時代の中に生きている一市民であり、どんな金持ちでも政治家でも一般大衆でも、この社会的動物である人間として生きている。
私達がその社会の中で生きていくためには、全体を掴むための視点が必要である。全体を掴む事ができれば、自分の立ち位置が分かる。世界がどんな感じかを理解することができる。そして、自分と社会が相対することになり、時代に必要な能力が何なのかを見極め、実行することができる。
しかし、全体観を掴めず、近視眼的に物事を受け止めたり実行ばかりしていると、その力は何のために活用され、どのように社会に影響を与えるかを想像できない。矮小な人生を送りかねないので、全体観はもつべきである。
また、大局観は「急所を押さえ、最適な一手を打つ」ための視点である。
全体観が必要であると同時に、大局観には眼前の問題をクリアするためにどのような手を打てばいいのかという具体的な処理能力を持ち合わせる必要がある。将棋や囲碁で言う大局観とほぼ同義である。諸葛孔明が名軍師と呼ばれるのは、蜀という国のために諸々の国策を細かに投じていった結果であり、折々にベストな選択をしていたからである。
「その一手がすべての局面を変える」ように、急所を押さえて最適手を打つことは大局観の一つといえる。
ということで、大局観とは「マクロ」と「ミクロ」な視点、まるで経済学のようだが、そのような視点をもつことである。
どのように大局観を養うか
では、どのようにして大局観を養えばいいか?
それは「歴史」を学ぶことである。
歴史は人類の全体観である。そして、歴史的事象が起きる背景には、人間がどのように行動したかが必ず潜んでおり、ミクロな視点が含まれる。
特に、私は「世界史」が良いと考える。日本史のように、一国の歴史だけを追ってしまうと、国家間の相互関係を示す事象が小さくなり、全体観の次元が低くなりがちである。より大きな変化を見ることで、大きなダイナミズムを感じ取ることができるので世界史が良い。
ではなぜ、歴史を学ぶと大局観を養えると言えるのか?
歴史は人類の行動→過程→結果である。
歴史には過去、現在、未来の時間軸で物語が存在し、すべて因果関係で成り立っている。
全体として起きた「結果」は次の歴史の「原因」になる。
この連鎖が「全体観」となり、「小さな一手の連続」なのである。
つまり、全体で何が起こったかという事実と、その時にどんな人物がどんなことをしたのかをセットにして理解することが大事である。
私は、人間の行動というのは「カウンターパンチ」に近いものだと思っている。
「お腹が空いたから、ご飯を食べる」
「お金がないから、バイトして稼ぐ」
「国家を繁栄するため、戦争を仕掛けて相手の領分を奪ってくる」
これらは原因があって、その行動が結果になる。
中には「絵を描きたい」「唄を歌いたい」というのもあるが、これも根源的には人間の欲求から生まれるカウンターアクトである。
行動には必ず理由がある。
歴史を動かした人物または集団には、彼らに依る正当な理由があって行動を起こしていたわけである。
その「どんな理由があって」「どんな行動を起こしたのか」がキーポイントである。
そこで歴史が良くも悪くも動くのである。
しかも、原因は一つではないし、結果はすぐ現れたり、しばらく後に実現されることがある。それを知るには様々な角度からの検証が必要である。
大局観は未来予測に役立つ
さらに、大局観を養うと、未来の予測を立てることができる。
そもそも「問題の対処」というのも未来に対する行動ではあるが、さらにいえば、現在の状況から未来を判断することができるはずである。
「そんなことできるなら、お前もうちょっといい線までいってろよ!」と言われそうだが、それは一旦置いといて論理的に考えてみよう。
歴史を学ぶとあるパターンが見えてくる。
以下はあくまでも一例である。
「領土を広げようとすると国が疲弊する」
「権力を手に入れると権力者は堕落する」
「中央権力と地方のバランスが良いと国は栄える」
「国費を何かに使いすぎると国が滅びる」
「貧富の差が激しくなると革命が起きる(リセットされる)」
一見すると当たり前である。当たり前であるが、現代においてこれらを特定のニュースに当てはめられることができるだろうか?
日本の場合、戦後から大企業と政治が結託していった結果、失われた30年を生み出してしまった。これは、自民党という事実上の一党独裁政治に近い状態が続いたため、国家がバランスを崩している結果だといえる。そして、ある種、自民党は堕落し、2024年の参議院選挙で政治資金問題で国民から支持を得られなかったのも歴史のパターンに当てはめられるのではないか。
これが、自分の会社ではどうか?自分の業界ではどうか?自分の国ではどうか?を歴史に沿って当てはめていければ、どんなことが起きるかを予測できるはずである。
ビスマルク曰く「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」。
圧倒的成功と失敗は、歴史の中から学ぶべきである。
あらゆる問題や乗り越えるべき壁が発生したとき、その殆どは過去の人物や国が経験しているはずである。自分自身や側にいる人間だけで安易に判断することなく、ふんだんに歴史から学んでいけば対処できる。
自分の未来を予測せよ
ここが最も大事な点である。
さらにもう一歩踏み込んで考えてみる。
我々は大局観を持つと、自分がこの先どんな手を打てばいいのかをマクロとミクロな視点で考えられるようになる。
もう一度申し上げるが、私たちは社会的動物である。少なからず、社会に影響を与えたり与えられたりしている。
それが何を意味するか?
行動いかんによっては、社会に大きな影響を与えかねない、ということである。つまり、大局観を持った行動が、大きな未来をつくることになる。
手を打つということは、社会に対して影響を与えるということである。
未来の予測というのは、未来を作り上げることにほかならない。
今の時代に、何が大切とされるのか?
そして、自分の持っている能力や今後身につけていく能力で、どのように大切なことを実現していくのか?
そして、その大切なことがどのように影響力を与えるのか?
これらを的確に捉え、最大限に行動に反映することにより、私たちは自分の思い描いた未来を作ることができる。もしくは社会の潤滑油になりうる。
私は、人間の行動による影響度合いは、誰かと意見を一致させることではなく、その趣旨を掴んで大枠を作り出すことだと思っている。スマートフォンが現代に欠かせなくなったのは、スティーブ・ジョブズが特定の使い方を示さず、何にでも応用しうる魔法の機械にしたからではないだろうか。広く社会に普及しているものことは、その要素が多分にある。ただし、善悪は除く。
「何が大切か」というのは、個人の価値観による。
「自分の持っている能力」というのは、圧倒的な自己分析であり、プレゼンテーションの結果である。
「影響力」というのは、最も責任が伴うところである。自分が思い描く未来というのは、果たして人類を豊かにすることなのか、或いは粛清することなのか。幸不幸に大きく関わる重大な思想なのである。悪い人間が絶大な影響力を持ったらどうなるか?無機質な人間が効率的な生活を求めすぎたら非効率な分野は潰されてしまう。
イエーツの「In dreams begin the responsibilities」に記されているように、どのような夢を描き実現させるかには、大いなる責任が発生する。どんな未来を想像するかは、よくよく思慮されなければならない。
人間の持つ力はそんなに大差がない。
しかし、なぜ人々でこんなにも差が開いたように見えるのか?それは、大局観に立ち、さらに、猛烈に行動したかどうかの差ではないか。
結局は行動した数なのだ。
原因と結果を圧倒的に生み出した人物たちが歴史を生み出していったのだ。それは、彼らからしたら未来を作る行為であり、私たちの現在に行き届いていることなのである。
その上で、大局観は未来の道しるべなのである。
個々人の未来のことについて、私は語ることができない。
しかし、個人の集まりが歴史となる。歴史=個人なのである。個人が偉大な力を発揮する時に時代が動くのである。
その最適な一手を打つために、歴史を学んでいくことが大局観を養うに最も重要であることをここに銘記しておきたい。