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【小説】黒焙の掟〜第二章 選択

ひろはた珈琲presents〜スペシャル珈琲ミステリー



第一話 コーヒーと数字の狭間で


月曜の朝。

カップの底の粉末が、黒い水面に浮かんでは消えていく。まるで会社の膨大なデータの中で、意味を失っていく数字たちのように。薄い泡は、生まれた瞬間から消えゆく運命を背負っているかのようだった。

守三はデスクに座り、給湯室で淹れたインスタントコーヒーの表面に映る自分の顔を見つめた。そこには、どこか疲れた影が浮かんでいた。始業前の総務課は、まだ静かだ。パソコンの起動音だけが、近づく一日の喧騒けんそうを予告している。

いつものようにカップを手に取る。だが、今日に限って、なぜか飲む気になれなかった。

(なんでだろうな…)

別に、今まで不満を感じたことはなかった。会社のコーヒーなんて、ただのルーチンだ。数字の入力とカフェインの摂取——今までの俺は、どっちも無意識だった。

だが、一度「本物のコーヒー」を知ってしまえば、もう後戻りはできない。それは、アナログの時計からデジタルに移り変わったような、決定的な変化だった。

先日、ひろはた珈琲で飲んだ数種類のコーヒー。鼻を抜ける甘い香りや、口の中で変化する風味は、まるで交響曲のように展開し、飲み終えた後も余韻が続いた。あれと比べると、今目の前にあるコーヒーは、コピー用紙に印刷された楽譜のように、生気を失っていた。

スプーンで静かにかき混ぜる。薄い泡が一瞬だけ広がり、すぐに消えた。 コーヒーの泡は、鮮度と焙煎度合いを映す鏡だと、塩ヶ洞は言っていた。

「泡の持続時間で、豆の新鮮さが分かる。油分が多く残った新しい豆なら、泡はゆっくりと消える。だが、劣化した豆は油分が揮発していて、泡もすぐに消える」

新鮮な豆から淹れたコーヒーは、クリーミーな泡を纏い、その消え際さえも優雅だ。 だが、このインスタントコーヒーは違う。泡立ちは弱く、すぐに崩れる。それは、工場のベルトコンベアから産み落とされてから、どれほどの時間が経ったのかを物語っていた。

(これが、俺が今まで飲んでいたものか…)

「数字は嘘をつかねぇが、嘘みてぇな数字に騙されるやつは多い」

塩ヶ洞の声が脳裏に響く。だが、それはひろはた珈琲のカウンターで聞いたときよりも、むしろ、今この瞬間、デスクに座る自分の思考の中にじわりと滲み出していた。

「データは賢いヤツの杖だが、盲信すりゃ転ぶ。五感は己を支える足だ。どっちで歩くかはテメェさん次第だ。舌が覚えてる味、鼻が感じた香り、それが本物だ」

その言葉は、デジタル化された世界への小さな反逆のようだった。数字を信じるな、とは言わない。だが、それだけを頼りに生きていると、指の間からこぼれ落ちる何かがある。

守三は自分の仕事を思い返した。会社では、すべてが数字で管理される。売上、利益率、コスト削減。人々の労力も、時間も、すべては数字に変換され、パソコンの画面の中で踊る。まるで、この世界そのものがエクセルシートになったかのように。

だが最近、その「合理的な判断」に、微かな亀裂が入り始めていた。

営業が「新規案件が増えている」と言っていたのに、実際の受注率は下がっている。グラフは右肩上がりなのに、現場からは活気が感じられない。発注データ上では在庫は適正値を示しているのに、倉庫の担当者は「モノが余っている」とため息をつく。

数字は真実を映すはずだ。それなのに、なぜ人々の声とズレが生じるのか?

「オハヨゴザマス。オオハマサン」

考え込んでいたところへ、陽気な声が割り込んだ。振り向くと、後輩の末吉(シュエ・チー)がにこやかに立っていた。末吉はミャンマー出身。その表情は、まだデータに汚されていない、人間らしい温かみがあった。

「おはよう、末吉」

「オオハマサン、ソノ コヒ、ウマイ?」

「…そんなに美味しくないかな」

自分でも驚いた。こんな答え方をしたのは初めてだった。いつもなら「まあまあかな」と濁していたはずだ。

「ナンデ? マエハ、ナンモ キニシテナカッタデショ?」

守三は言葉を選んだ。どう説明すれば、この変化を伝えられるだろう。

「いや、最近ちょっといいコーヒーを飲んでな…」

「イイ コヒ? ヘェ、オオハマサン、コヒ スキナッタ?」

「コーヒーだよ……いや、なんでもない」

誤魔化したつもりだったが、末吉はじっとこちらを見ている。

守三はカップの中の黒い液体を見つめる。いつもなら無意識に飲んでいたコーヒーが、今は違って見えた。それは、ただの飲み物ではなく、選択を迫る鏡のようだった。

(この一杯のコーヒーにさえ、選択がある。なのに俺は...)

「エッ?ナニ?コヒヤメル?」

「いや、朝のコーヒーも自分で選ぼうかなと」

(データは直感で疑え。直感はデータで自信に変え、行動で確信に変えろ)

その言葉は、小さな決断の始まりだった。この選択が、彼の人生をどこまで変えていくことになるのか、守三はまだ知らなかった。


第二話 データの向こうにある真実


朝のオフィスに、キーボードの打鍵音が規則正しく響きだした。 守三は総務課の自席で、エクセルのシートを眺めていた。

(データは正しい。でも、それだけが真実なのか?)

そのとき、オフィスの入口が開く音がした。

「おつかれっ!」

低くよく通る声が響き、課内の数人が反射的に応じた。

「したっっっ!」

清宮部長が颯爽と歩いてくる。グレーのスーツに、わずかに開けたシャツの襟。 50代半ばの貫禄を持ちながらも、目にはまだギラついた熱が宿っている。部下からは「オヤジ」という愛称で呼ばれている。そして、朝の挨拶なのに「おつかれっ!」というクセも健在だ。

「大浜ぁ、ちょっと来い」

守三の肩を軽く叩き、会議室へ向かう。

「この資料、何か足りねえと思わねえか?」

会議室で渡されたのは、守三がまとめた月次報告書だった。蛍光灯の光の下、数字の行列が冷たく光っている。

「…は? いえ、必要なデータはすべて入っているはずですが」

「数字だけだろ」

清宮の声には、どこか諦めたような響きがあった。

「え?」

「おい、大浜」

清宮は窓の外を見つめた。

「お前は現場を歩いたことがあるのか?工場の、倉庫の、営業の。そこで働く連中の顔を見たことが」

「あ、あります…」

「ダメだ、足りねぇ。数字の裏には、人がいる。俺たちは、それを忘れすぎた」

その言葉に、守三は一瞬耳を疑った。

(清宮部長が……?)

清宮は、ずっと数字を追い求めていたはずだ。とにかく資料としての数字を細かくチェックし、現場の声や肌感覚のような曖昧なものには関心を示さなかった。 「数字を見ればすべて分かる」が口癖だったし、実際、彼はそれで多くの成果を上げてきた。

なのに、今、目の前で「数字の裏にある人を忘れてはいけない」と言っている。

(なぜだ…?)

守三の胸の奥に、言いようのない違和感が広がった。清宮はコーヒーでも飲むような気軽さで、当然のことのように続ける。

「数字は道しるべだが、それだけ見て歩いてりゃ、いずれ穴に落ちる」

この言葉もまた、以前の清宮なら決して言わなかったはずのものだ。

(部長、何かあったのか……?)

「大浜ぁ」

清宮の声が低くなる。

「日の当たらないところを歩くような人間になるんじゃなくて、堂々と真ん中を歩ける人間になれ」

守三の胸に、その言葉が深く刺さった。

清宮はずっと数字を追っていた男だ。だが、今の彼の言葉には、かつての数字至上主義とは違う何かがあった。

「オヤジィ…」

「ま、昼飯でも食いながら考えろ。悩む時間も仕事のうちだ。おつかれっ!」

そう言って、清宮は会議室を後にした。

昼休み、守三は食堂の隅でコーヒーを飲んでいた。

「オオハマサン、ナンカナヤンデル?」

向かいに座った末吉が、カレーライスを豪快に口へ運びながら言った。

「いや…」

「ワタシ、ナヤムコトガ ナイ。ヤルカ、ヤラナイカ、ソレダケ」

「…そうだな」

守三はカップを見つめた。行くべき場所は決まっている。

「ちょっと、いいコーヒーを飲みに行こうと思ってな」

ひろはた珈琲の扉をくぐると、濃厚なコーヒーの香りが迎えてくれた。カウンターの奥で、塩ヶ洞がサングラス越しにこちらを見ている。

「お、テメェさんか」

守三はカウンターに腰を下ろした。

「何を飲む?」

「…おすすめを」

塩ヶ洞はニヤリと笑うと、黒く艶のある豆を手に取った。

「こいつは『エスメラルダ・ゲイシャ』。パナマの名門農園で作られる、世界でもトップクラスの豆だ」

やがてカップが目の前に置かれた。守三は静かにそれを口に運ぶ。

(!?)

華やかすぎる香り。口の中で弾けるフルーツのような甘さ。そして、驚くほど透明感のある後味。

「どうだ?」

塩ヶ洞がニヤリと笑う。

「これが、世界最高のコーヒーの一つだ」

守三はカップを見つめた。(…まだ、知らないことだらけだ)

この世界には、まだ自分の知らない「コーヒーの真実」がある。そして、それを知ることが、なぜか怖くもあり、魅力的でもあった。

「もっと、知りたくなったか?」

塩ヶ洞の言葉に、守三は小さく頷いた。

「テメェさんが『まだ何も知らない』ってことに気づいたなら、やっと学び始められる」


第三話 多美の選択


守三の頭には清宮と塩ヶ洞の言葉が入り混じっていて、思考の整理が追いつかないまま家に帰ると、思いがけない香りが玄関で彼を迎えた。それは懐かしさを感じる芳ばしい香りだった。それは、今朝までこの家にはなかったものだった。

「おかえり」

多美が振り返る。カウンターには、ひろはた珈琲の袋が置かれていた。

「…それ、飲んだの?」

「ええ。『約束の豆』ね」

守三は驚いた。多美は普段、コーヒーにはこだわらないと思っていた。だが、彼女はすでにカップを手にし、目を閉じて香りを味わっている。その仕草は、どこか見覚えがあった。

「どうだった?」

多美はカップを傾け、少し考えるような仕草をした。

「すごく不思議な感じ」

「不思議?」

「そう。なんかミステリアスというか……まるで、誰かの思い出が詰まってるみたい」

守三は眉をひそめた。
(『約束の豆』は、オリジナルブレンドひろはたじゃないのか?)

「多美がコーヒーにこだわりがあるなんて...」

「あなたが気づいてなかっただけよ」

多美は穏やかに微笑んだ。

「私の机の引き出し、いつもコーヒー豆が入ってたでしょ?毎週違う豆を買って、自分で淹れたりしてたのよ」

守三は息を呑んだ。確かに、多美の机からはいつも微かに香ばしい香りがしていた。だが、それがインスタントではないコーヒーだとは、考えもしなかった。

「コーヒーって気分で選ぶものじゃない? 毎日同じものじゃ人生の味がしないでしょ」

多美はそう言いながら、別のコーヒー豆の袋を取り出した。そこには『びたはた』と書かれている。

「これは?」

「ひろはた珈琲の『深煎りブレンドびたはた』よ。香ばしさの中に、ほんのりビターな余韻が残るの」

守三の動きが止まる。

(なんだよ、ビターだから『びたはた』って...)

その疑問が頭をよぎるが、多美は意味ありげな笑みを浮かべながら、ミルに豆を入れ始めた。

「あれっ?そんな器具を持ってたっけ?」

「うん。コマンダンテのミルよ。小さい頃に祖父からもらったの」

「駒田……打てんの……見る?」

「え?」

「いや、なんでもない」

守三は黙って見つめた。この「コマンダンテ」というものが、ただのミルではないことは伝わってくる。多美の手つきには、まるで誰かから教わったかのような確かさがあった。

「ほら、香りを嗅いでみて。でも、近づきすぎないで。コーヒーは、適度な距離感が大切なの」

差し出された豆からは、チョコレートのような濃厚な香りが漂う。守三がいつも飲んでいたインスタントコーヒーとはまるで別物だった。

「多美はこんなにビターなのが好きだったの?」

「そうよ。あなたが気づかなかっただけよ」

守三は、なんとなく悔しい気持ちになった。

(俺は、多美のことを何も知らなかったのか?)

多美は優しく言う。

「あなたが飲んでたのは、ただの習慣のコーヒー。私は、そのときの気分で、飲みたいコーヒーを選ぶの。それは、人との付き合い方にも似てるかもしれない」

「気分で?」

「うん。朝は軽めのコーヒー、午後はちょっと濃いめ。夜はカフェインレスとか。人生だって、そういうものじゃない? いつも同じ顔をしている必要はないの」

守三は、言葉を失った。

「選ぶ」——その発想は、今までの自分にはなかった。

コーヒーとは、ただ飲むもの。味の違いなんて考えたこともなかった。
だが、多美は違う。
彼女は「選ぶ」。気分に合わせ、香りやコク、後味の余韻まで楽しんでいる。それが、彼女にとってのコーヒーであり、そして人生だった。

「はい、できたわ」

多美が差し出したカップから、深く芳ばしい香りが立ち上る。守三は一口、ゆっくりと味わった。
濃厚な苦味。深いコク。そして、かすかに漂うスモーキーな余韻——今までのどのコーヒーとも違う。

「どう?」

「…す、すごい」

「でしょ?」

多美は、どこか懐かしそうな表情で微笑んだ。

「好きなことくらい、自分で決めなきゃね。でも時には、誰かの選んだものを受け入れることも大切なの」

「選ぶって、そういうことなのか?」

「ううん」

多美は首を振った。

「選ぶ前に、まず『選ばないもの』を決めることね」

「選ばないもの?」

「そう。私がインスタントを選ばないように」

多美は自分のカップを見つめた。

「人生だって同じ。『これだけはしない』って決めることが、その先の選択を楽にするの」

その言葉が、胸の奥でじわりと広がる。

「選ぶ」——それは、ただの行為ではない。 自分の好みを知り、何を大切にしたいのかを決めること。 そして、その前に「選ばないもの」「しないこと」を決める勇気を持つこと。

(俺は、今まで何を「選んで」生きてきたんだ?)
(いや、その前に——何を「選ばない」と決めていただろう?)
(そして、多美は何を「選ばない」と決めているのだろう?)

カップの中の黒い液体が、今までと違って見えた。


第四話 数字にできない価値


またしても数字の行列が、守三の頭の中でぐるぐると回っていた。
会社での清宮の言葉。妻・多美が見せた意外な一面。そして、ひろはた珈琲で飲んだいくつものコーヒー。すべてが混ざり合い、どこかで繋がっているような気がしてならない。

「おい、テメェさん」

ふと我に返ると、塩ヶ洞がこちらを見ていた。

「何か言いてぇことでもあるのか?」

「え?」

「ずっとボンヤリしてるじゃねぇか」

守三は言葉を選びながら、おそるおそる切り出した。

「あの、店主は……どうしてコーヒーを?」

 塩ヶ洞の手が止まる。
 緑色のサングラスの奥で、何かが揺れ動いたような気がした。

「俺も、昔は数字の世界で生きてたんだ」

「数字の世界?」

「ああ。大手の製造業でな。毎晩深夜まで残業して、コスト削減の数字を追いかけてた。休日も携帯が鳴れば会社に戻る。家族の顔も忘れそうな日々だった。効率化だの、最適化だの。人間をデータで測ろうとしてた」

塩ヶ洞は豆を計量しながら、遠い目をしながら豆を計量していく。その仕草は、数値を扱うようで、でも違う。まるで生き物に触れるような、そんな優しさがあった。

「毎日、データと睨めっこしてた。売上も、製造コストも、すべて数字で語られる。それが、当たり前だと思ってた」

守三の胸に何かが響く。

(今の自分とまるで同じだ)

「転機があったんですか?」

「…ああ」

塩ヶ洞は、ゆっくりとお湯を注ぎ始めた。

「ある喫茶店で、一杯のコーヒーに出会ってな」

湯気が立ち上る。その向こうで、塩ヶ洞の表情が柔らかくなった。

「理屈じゃねぇんだ。ただ、心が震えた」

「心が、震えた……」

「それまでは『データに基づいた味』しか信じてなかった。でもな、その一杯は、数字じゃ説明できねぇ何かを持ってた」

塩ヶ洞は、丁寧にドリッパーを外す。

「マーケティングもデータ分析も、確かに大事だ。でもな、それだけじゃ見えてこねぇものがある。人の心は、数字じゃ測れねぇ」

カウンターに、一杯のコーヒーが置かれた。

「これが、その時の豆だ」

「え?」

(その豆…腐ってるんじゃないのか)

「もう同じものは作れねぇ。でも、この豆は、あのコーヒーに一番近い」

守三は、おそるおそるカップを手に取った。
香りが鼻をくすぐる。

(これが、塩ヶ洞さんを変えたコーヒー……)

一口含むと、温かな苦味が広がった。
そして、その奥に、言葉では表現できない何かが隠れている。

「どうだ?」

「……なんでしょう、この感じは」

「ああ、そうだな」

塩ヶ洞は、珍しく柔らかな表情を見せた。

「説明できねぇ味こそが、本物なんだよ」

守三は、もう一度カップを見つめた。
波紋を描く黒い水面に、自分の姿が映っている。

「店主は……後悔してないんですか?」

「何をだ?」

「安定した会社を辞めて、こんな小さな店を」

塩ヶ洞は一瞬、サングラスを外した。その目には、かつて数字の世界で生きた男の鋭さが残っていた。

「テメェさん、『大きい』『小さい』って、何で決めてる?」

「え?」

「売上か?利益か?店舗数か?」

塩ヶ洞は苦笑した。

「俺は昔、そういう数字を追いかけて、大事なものを見失った。だが今は違う」

カウンターに一杯のコーヒーが置かれる。

「この一杯に、どれだけの物語があるか。それこそが、本当の『大きさ』だ」

「え?」

「この店は確かに狭ぇ。でもな、ここには『測れねぇもの』がある。それは、会社のデータなんかじゃ絶対に見つけられねぇんだ」

守三は黙ってうなずいた。
確かに、この店には数字では表せない何かがある。
妻が感じた「気分で選ぶ」という感覚も、きっとそれに近いのかもしれない。

「テメェさんはどうする?」

「え?」

「コーヒーを、仕事にするつもりか?」

その問いに、守三は答えられなかった。
でも、以前のように「そんなわけない」とは言えなくなっていた。

カップの中で、まだ温かいコーヒーが静かに揺れている。
その波紋が、守三の心もそっと揺らしていた。

第五話 決断の一杯


会議室の空気は、冬の朝のように張り詰めていた。

「大浜ぁ。お前に特別タスクフォースのリーダーを任せることになった」

清宮の声が、無機質な壁に反響する。

「…はい」

守三は目の前の資料に目を落とした。そして、その瞬間、息が止まる。

・事業構造改革
・業務効率化
・デジタルトランスフォーメーション

どれも聞こえのいい言葉だった。だが、その本質は明白だった。

(これは…リストラ計画だ)

「データを見ろ」

清宮がページをめくる。整然と並んだ数値が、これが「正しい選択」なのだと無言で語っている。

「この施策で、利益率は1.5倍になる」

「…」

「お前なら、冷静に判断できるはずだ。数字が示す未来を、実現してくれ」

守三は、資料に目を落としたまま、唇を引き結んだ。

そこには、切り捨てられるメンバーのリストが並んでいた。ミャンマー出身の後輩で守三を慕っている末吉の名前も。まるで、不要になった機械の型番のように。

「数字の裏にある人を見ることが大切」

それは、つい先日、清宮自身が口にした言葉だった。

だが今、彼は何事もなかったかのように、数字だけを信じろと言っている。清宮は決して無能ではない。いや、むしろ優秀すぎるがゆえに、この会社の論理から逃れられなかったのだ。

「考えさせてください」

守三はそう言って、会議室を後にした。
そして、気づいたときには、ひろはた珈琲の古びた扉を押していた。

「お、またテメェさんか」

塩ヶ洞がカウンターの奥からニヤリと笑う。

「今日は、何を飲む?」

「おすすめを…」

塩ヶ洞は黙って、艶やかな豆を手に取った。

「ブラジル・ダテーラ。標高1,200メートルの農園で、たった3ヘクタールの畑でしか作られねぇ豆だ」

「そんな貴重な豆を?」

「テメェさんの顔を見りゃ分かる。迷ってるだろ?」

守三は、黙ってカップを受け取った。

香りを感じる。深い。でも、どこか切ない。

「この豆はな、一度、全滅したことがある」

「全滅?」

「ああ。病気でな。農園主は『もうコーヒーはやめる』って言ったそうだ」

塩ヶ洞は、ゆっくりとグラインダーを回しながら続けた。

「でも、そいつは諦めなかった。なんでか分かるか?」

守三は首を振る。

「『この土地でしか作れない味』があったからだ。数字じゃねぇ。ただ、自分の心に正直だった」

「…」

「テメェさん...なんか決断を迫られてるんだろ?」

「はい。会社の…重要な仕事です」

「ほう」

「でも、それは…人の人生を、数字で切り捨てる仕事なんです」

塩ヶ洞は、珍しく長い間黙っていた。そして、静かに言った。

「これを飲め」

別のドリッパーから、新しいコーヒーが注がれる。

「これは?」

「さっきのと同じ豆だ。でも、焙煎が違う」

守三は、そっとカップを手に取った。確かに、さっきとは違う香りがする。より力強く、でも優しい。

「同じ豆でも、焙煎によって全然違う味になる。でもな、どっちが正しいってわけじゃねぇ」

塩ヶ洞は、カウンター越しに守三を見つめた。

「大切なのは、自分が信じる味を探すことだ」

翌朝。

会議室で、守三は静かに口を開いた。

「このプロジェクト、辞退させていただきます」

会議室の空気が、一瞬で凍りついた。
清宮の指が、資料の端でわずかに震える。まるでドリップの最後の一滴のように、緊張が滴り落ちていく。

「…何を言っている?」

「私には…できません」

「なぜだ? データは明確だぞ?」

「…そうですね。数字は確かに、正しいのかもしれません」

守三は、真っ直ぐに清宮を見た。

「でも、私は数字以外の価値も、大切にしたいんです」

清宮の目がわずかに揺れた。そして、ゆっくりと腕を組む。

「…お前、本気か?」

「はい…」

「お前は、俺と同じ道を歩むと思っていた」

「私もそう思っていました」

短い沈黙。

清宮は、ふっと鼻を鳴らした。

「…バカ野郎」

「…」

「お前はいつも、最後の最後で意外なことをする」

「そうですかね…」

「…まあ、いい」

清宮は椅子にもたれ、天井を見上げた。

「日の当たらないところを歩くな、って言ったのは俺だ」

「ええ…」

「なら、お前は堂々と真ん中を歩け」

「はい…」

清宮はゆっくりと立ち上がった。その背中には、まだ迷いが見えた。

「俺は...選べなかった」

静かな声が漏れる。

「だからお前には、選んでほしい」

「オヤジ...」

「大浜ぁぁぁっっっ!」

突然の声に、守三は背筋を伸ばした。

「本当の勇気ってのは、データじゃねぇんだよ!おつかれぇぇぇっっっ!!!」

守三の目に、涙が浮かんだ。

「したぁぁぁっっっ!!!」

会議室のドアが閉まる音が、静かに響いた。
会社を出ると、心地よい風が頬を撫でた。

(不思議だな)

恐れはある。不安もある。でも、後悔はない。守三は歩き出した。行き先は決まっていた。あの、コーヒーの香りがする場所へ。人生で初めて、自分で選んだ道を歩いていく。その先に何があるのかは分からない。でも、きっとそこには、数字では測れない何かがある。

その夜、塩ヶ洞の携帯に「塩ヶ洞さん!大浜をよろしくお願いします!彼は間違いなくこれからの日本に必要な人材です!!!」とのメッセージが。

清宮からだった。

(第二章 了)


※この物語はフィクションです


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