【update版4】研究ノート AI創作桜井淳人生ノンフィクション小説 AIが、短編小説対応のみで、長編小説対応ができないことを克服するため、テーマを区切り(小学校時代、中学校時代、高校時代、大学時代、大学院時代、博士論文執筆・結婚・博士学位取得時代、流行作家並み執筆時代、「桜井技術論」創出時代、東大大学院総合文化研究科と同院人文社会系研究科時代)、何度も短編小説を作り、それらをつないで長編小説もどき作品(写真計30枚含む)
AIへのプロット
AIに、
「私は、1946年9月14日、終戦一年後、群馬県東部の田舎町に生まれ、その当時は、保育園や幼稚園は、一般的ではなく、自宅から2 km離れた田舎の小学校まで、徒歩20分かかり、行き帰り、田舎道を歩きながら文学作品を読み、生徒数は、全学900名、特に、成績が良いわけでも、悪いわけでもなく、すべてにわたり、ごく普通の生徒でしたと言う小説を書いてください。」
「私は、当時、自宅から1 kmの田舎の中学校に徒歩15分かけて通っており(自宅と小学校の中間地点)、校舎は、木造一階建二棟と講堂、生徒数は、一学年150名、全校生徒数は、450名、中学では、廊下の壁に、学期ごとの成績順位が貼り出され、私は、一年生から三年生まで、常に、上位10 %に入っていましたが、特に良かったわけでもなく、悪かったわけでもなく、三年生三学期には、級長(クラスでの選挙で委員数名選び、代表が級長で、やることは、授業開始時に、「起立、注目、礼」と号令をかけるだけ)をし、三年生冬の地区統一模擬試験では、中学で一位、三校からなる地区でも一位でしたが、試験ができなかった割には、順位が良く、なぜだか、分からず、当時、田舎の高校進学率は、50 %であり、私は、進学しましたと言う小説を書いてください。」
「私は、田舎の中学校から群馬県でも有数の大きな市の中心にある高校に進学し、30分かけて電車通学していました。高校の近くに映画館があり、当時としては、画期的な映像技術で製作された「ベンハー」、歴史的ミュージカル映画の「ウエストサイド物語」、私が人生で最も大きな影響を受けた「グレン・ミラー物語」(フルート奏者で作曲家のグレン・ミラーが、試行錯誤しながら新しい音楽を作り出す過程が描かれており、後に、私の技術評論での新しい方法論の創出につながった)などを観ました。一年生から、何となく、大学進学を考えていましたが、成績は、50名中20位と良くなく、大きな市の中学校でもまれた生徒との学力差を感じ、実力不足を感じました。高校三年の冬、当時、日本の大学進学率は、10 %くらいでしたが、群馬大学と東京理科大学の試験を受けましたと言う小説を書いてください。」
「東京理科大学では、理論物理の研究につながるような科目、すなわち、物理学科の必須科目の物理数学や量子力学ⅠとⅡ、単位が認定される数学科の関数論などの単位を取り、授業とは関係なく、自身で、大学院レベルのランダウ=リフシッツの理論物理学教程の『場の理論』と『相対論的量子力学ⅠとⅡ』の勉強をし、大学院での場の理論の研究に備えましたが、能力以上の高いレベルに目標を定めたため、精神的に参り、健康状態も良くなく、精神疾患に悩むようになり、精神的にも身体的にも苦しい日々を送っていましたが、大学院受験は、理科大、立教、東大の理学研究科物理学専攻課程に絞ったと言う小説を書いてください。」
「私は、東京理科大学大学院理学研究科物理学専攻課程で、理論物理の中でも最難関の「場の理論」(素粒子論、素粒子の空間的存在形態の研究)の勉強と研究を開始し、授業では、「相対論」「場の量子論」「原子核理論」など、場の理論につながる科目に重点を置きましたが、精神疾患がひどくなり、そのままでは、博士課程へ進めなくなるため、その研究分野から離れ、無理をせず、現実的に、精神疾患を直しつつ、博士論文をまとめられる研究分野に逃げましたが、屈辱の日々でしたと言う小説を書いてください。」
「私は、精神疾患を患い、失意の中、30-32歳の間に、日本と米国の学会論文誌に、原著論文を7編投稿し、査読が通過して、掲載されたことにより、博士論文申請の条件が整ったため、東大で工学博士にするか、理科大で理学博士にするか、思案の末、どうしても理学博士になりたいと決心し、32歳の時に、博士審査申請書を理科大に提出、普通、どこの大学でも、審査には、二年間かかり、その間、32歳の時、それまで恋愛経験がまったくない私は、25歳の学習院大学文学部英米文学科卒の女性と結婚し(当時の条件としては大学院修了者希望)、大きな希望が生まれ、34歳で、理学博士資格を取得し、さらに、40歳台初めに大学教授に就任できるように準備し、新たな目標に向かいましたと言う小説を書いてください。」
「私は、42歳から流行作家並みの原稿依頼やテレビ出演や講演依頼があり、超多忙な日々になり、年間百件の依頼をこなし、そのような状態が四半世紀も続きましたが、発端は、月刊誌に執筆した論文であり、しかし、まったく偶然の出来事ではなく、必然性もあり、と言うのは、25歳から、武谷技術論(武谷星野技術論)の勉強を始め、社会科学と哲学を学び、『武谷三男著作集』『武谷三男現代論集』『星野芳郎著作集』の熟読から、難しい学術的問題を誰にも分かりやすく表現する術を学び、28歳の時に、比叡山の麓の京都市左京区修学院南代にある星野芳郎さんの自宅を訪ね、技術論研究と技術評論の方法を学び、結局、25-41歳までの16年間は、長く苦しい準備と修行の日々であり、32歳以降、そんな私を精神的に支えてくれたのは、妻であり、流行作家並みになってからは、私の秘書の役割を果たし、私が仕事をやりやすくしてくれ、まるで、私が夢にまで見た「グレン・ミラー物語」のグレン・ミラーと妻ヘレンの組み合わせによる新しい世界を切り開く物語のようでしたと言う小説を書いてください。」
「私は、42歳から、本格的に、技術論と安全論の研究論文を発表し始め、国内外の産業現場の調査など、広範囲の技術問題の分析を行いましたが、まず、新幹線と原発の安全問題を社会科学と工学理論から、それまでにない正確さと深さで表現し、論文や著書の形で社会に問いかけ、大きな反響をえましたが、今日までの国内外マスコミ媒体に発表した論文と記事の数は、数千編、監修や翻訳や単独著書の数は、57冊(単独著書37冊)に及び、社会から「桜井技術論」(22省庁白書に拠る日本と世界の相互比較に基ずく日本の位置づけの学術的な把握と表現、米機械学会ASMEに基ずく正確で深い技術分析、現場体験と調査の徹底、安全性向上のための具体的な提案、経年変化対策の提案など)と位置付けられるようになりましたと言う小説を書いてください。」
「私は、リスキリング(Reskilling)として、58-63歳まで、東大大学院総合文化研究科で、社会科学と哲学の研究をしましたが、ごく普通の院生の中でのゼミでの発表と討論であり、何の学力差などの違和感がなく、学会論文誌に、画期的な新概念を織り込んだ原著論文を二編投稿し、査読を通過し、掲載され、博士論文も執筆し、五年間の研究成果を一冊の学術書『科学技術社会論序説』にまとめて出版し、さらに、人生でやり残した学問として、63-68歳まで、東大大学院人文・社会系研究科で、「中世ユダヤ思想の研究」を中心とし、「比較宗教学」「宗教社会学」の研究を行いましたが、後者では、実力差が大きく、打ちのめされ、その原因は、東大文学部宗教学科を卒業して大学院に進んだ院生とは、基礎学力、特に、複数の外国語に対する実力差が大きく、それでも、何とかついていきましたが、ユダヤ教のシナゴーグでの礼拝を行いたかったのですが、それができなかったため、仏教でいちばん原理原則と規律を重んじる曹洞宗に出家し、フィールドワーク研究として、曹洞宗の寺と大本山永平寺で現場を経験することにより、宗教学の広さと深さの研究をしましたと言う小説を書いてください。」
「私には、大きな影響を受けた三人の先生がおり、ひとりは、技術論・技術評論の分野で手本となり、指導を受けた星野芳郎先生(初代技術評論家、東工大卒)であり、二人目は、学会などの委員会で手本となった中沢正治先生(東大教授、東大卒、東大でオール優の超エリート)であり、三人目は、連名論文を作成する過程で、学術的に興味深い視点からの議論や問題提起を受けた内藤俶孝先生(原研部長、京大卒)であり、一生かけても足元にも及ばないと思いつつ、目標にすべき魅力ある研究者でしたと言う小説を書いてください。」
「私は、妻の趣味を理解するため、足腰の強さが衰えた50歳台から登山を開始し、まず、日光連山の日帰り登山、つぎに、1-2泊の八ヶ岳、そして、北アルプス、南アルプス、富士山、さらに、海外に足を延ばし、スイス、フランス、ヒマラヤへと、国内だけでしたが、ロッククライミングやアイスクライミング、吹雪の中でのクロスカントリースキーや雪山登山、妻とは、スイス登山二回、志賀高原と裏磐梯で吹雪の中でのクロスカントリースキーを楽しみ、人生において、共通の趣味を持つことの面白さを知り、新たな世界を教えてくれた妻に感謝という小説を書いてください。」
「私は、日本の三人の代表的な軽水炉安全研究指導者(村主進、佐藤一男、石川迪夫)に遭遇し、多くのことを学ぶと同時に、安全論について、異論と同意に気づき、厳しいやり取りの後、日本の軽水炉安全の社会への問題提起の主導権をえましたが、石川は、業界紙「電気新聞」を利用し、誹謗・中傷をくり返し、本気で、私を潰しにかかり、やがて、高齢のため、社会的影響力を失った、と言う小説を書いてください。」
と要請。
表題 新しい世界を切り拓くための物語ー桜井淳のできるだけ控えめに記した人生ノンフィクション小説ー
まえがき
以下の事実関係は、私の人生そのものであり(note本欄の数千件の記事と数千枚の写真が証拠)、遺言書代わりに、できるだけ正確に、できるだけ控えめに記した自伝的小説であり、このようなことを記すのは、初めてです。
私は、AI創作小説に、句読点や用語や表現や文章の変更、文章の補足を行い、私の文章論に合わせるようにしました。
「まえがき」と「あとがき」と引用文は、「ですます調」、その他は、「である調」にしてあります。
私は、68歳の頃、妻といっしょに、フリードリヒ・ニーチェ (Friedrich Nietzsche) が有名な作品「ツァラトゥストラかく語りき (Also sprach Zarathustra)」(ツァラトゥストラという預言者が山から降りてきて、人々に自らの教えを説く様子が描かれていて、この教えの中で、既存の道徳や価値観を超えて、新たな価値を創造することの重要性が強調)を記す前に滞在したスイスの山奥のリゾート地で、自然の光景を楽しみました。私は、おそらく、ニーチェが、この場所で、このような姿で、思索したであろうと思い、自身のそれまでの人生を思い返し、何を語ったら良いのか、思いをめぐらしたことがありました。以下、その語りたかった物語です。


第ゼロ章 幼児期時代
私には、生まれてから3ヵ月くらいの記憶があり、母親は、自宅の南側の日差しの入る温かい廊下に、直径1 m高さ30 cmくらいの木製たらいにお湯を張り、私は、仰向けにお湯に浸され、母親が、ガーゼで、私の身体を洗い、私は、母親のしぐさを見て、キャッキャッと笑い、片足でたらいの内側を思い切り強く蹴り、お湯がこぼれ、その反動が、足から身体を抜け、脳天まで響いたのを記憶している。その次の記憶は、三男が生まれる直前、お腹の大きな母親といっしょにお風呂に入っている光景(私は3歳)、その次の記憶は、子守の女性(年齢は20歳前後、小さな私には、何も分からず、近所の人なのか隣町の人なのかも分からず、名前も分からず、ただ、周りの人たちがチーちゃん呼んでいたので、私もそう呼んでいた)が、毎日、早朝から夕方まで、三男(1歳)を背負い、長男(6歳)を右側、そして、次男(3歳)の私を左がにして、自宅周囲の1 km範囲内の道で、手をつないで歩いていた。
群馬県は、冬、地方特有の強い北風「からっ風」が吹き、夏、稲光と落雷が怖い。自宅の北300 mには、東武伊勢崎線があり、4両編成の電車が、30分ごとに走っており、そのカタゴトと言う軽快な音が、快い時刻の目安となる生活音になっていた。自宅のはるか北側には、栃木県西部の男体山(2480 m)、その少し西には、赤城山連山(1828 m)、その西側には、新潟県の連山、群馬県と新潟県の県境の谷川岳(1963 m)が見えていたか否か、明確なことは言えず、そのはるか南、自宅から見れば、ほぼ西に榛名山(1449 m)、その少し北西の奥に浅間山(2568 m、周囲の大人はみな子供たちに富士山と言っていた)、真西に妙義山(1100 m)、少し南で同距離に荒船山(1841 m、周囲の大人はみな子供たちに平坦な形状から牧場と言っていた)が、遠く、浅間山からは、いつも煙が上がっており、自宅庭の植木の葉にも、うっすらと火山灰が付着していた。自宅から見れば、北と西と南は、まるで、砦のように囲まれていた。自宅から北東5 kmに里山の金山(かなやま、236 m、城跡や新田義貞神社など)があり、360度の展望で山々が見え、はるか遠く南東方向に、都心の高層ビルも見え、子供の頃、良く登った。
当時の川は、きれいで、自宅近くの小さな川には、めだかや小さな魚やアメリカザリガニや水草などの生命が宿り、自宅から南300 mの幅10 mくらいの比較的大きな川には、はややふななど、川岸では、カワセミなどもおり、魚釣りや水泳も行った。自宅から南に3 kmには、群馬県と埼玉県の県境の利根川があり、大きくなってから、水泳に行った。
自宅敷地は、山や池や菜園や果物園まで含めれば、数千坪もあり、庭の西側には、梅の木、南東には、夏には、棚に、直径5 cm長さ30 cmのへちまが数本さがり、隣には、ブドウの木、地面には、いちごの苗、落花生の苗、東から北東にかけ、高さ10 mの柿の木(秋には数十個の甘柿)とすももの木(初夏には数百個のすもも)、自宅裏には、竹林があり、初夏には、竹の子がニョキニョキと生え、菜園には、夏には、きうり(数は多い)、茄子(数は多い)、スイカ(ひと夏に20個)、うり(ひと夏に20個)、当時はメロンはなく、秋から冬にかけて、白菜(数十個)、キャベツ(数十個)、里芋(10株くらいか)、じゃがいも(数百個)、さつまいも(数百個)、新鮮な野菜や果物は、いつも捥ぎたてが食べられ、林には、初夏の早朝には、数種類のかぶとむし(子供の頃は、正式名を知らず、ぶたかぶと(学名 Cephalopholis argus)、はさみかぶと(Epinephelus lanceolatus)、つのかぶと(Sphyraena barra)と呼んでいた)、時には、玉虫色の幻想的にきれいな比較的大きな昆虫のような生き物(学名 Chrysochroa fulgidissima)を見たこともあり、田舎では、当たり前の条件や光景で、普通の生活ができ、私は、子供の頃、普通の家庭で、自然の中で、生命と環境を大切にした生活を送ることができた。
幼児期、子羊のように育った私は、約35年後、意図してから16年の準備期間を経て、専門知識で牙を磨いたオオカミとなり、荒野(現代社会とマスコミ)を目指し、日本のトップクラスの専門家を相手に、技術論・安全論の論客として、生きるか死ぬかという激論を交わすことになる。
第一章 小学校時代
1946年9月14日、終戦から一年後、群馬県の東部の平野にある小さな田舎町に生まれた私は、戦後の日本の復興期に育った。当時、保育園や幼稚園は一般的ではなく、私は自宅から2キロ離れた田舎の小学校(木造一階建一棟、木造二階建二棟、講堂)に通っていた。徒歩30分かかるその道のりは、私にとって、文学作品を読む貴重な時間だった。
小学校には、全校生徒が900名おり、私は、特に、成績が良いわけでも悪いわけでもなく、すべてにおいてごく普通の生徒だった。田舎道を歩きながら、私は、文学の世界に没頭し、現実の厳しさを忘れることができた。
この時期の日本は、戦後の混乱から立ち直りつつあった。私の家族もまた、その波に乗って新しい生活を築いていた。私たちの生活は、決して裕福ではありませんでしたが、家族の絆は、強く、毎日が新しい希望に満ちていた。
学校では、友達といっしょに遊び、勉強し、時にはいたずらをして先生に叱られることもあった。五年生の時、何が原因だったか記憶が定かではありませんが、クラスの25名の全男子が校舎の壁を背に並らばされ、順番に、全員、男の先生から、ビンタされたが、当時は、そのような教育は、当たり前だった。
特に好きだったのは、図書室で本を読む時間でした。そこには、私がまだ知らない世界が広がっており、私は、その世界に夢中になった。
このようにして、私は戦後の日本でのびのびと育った。文学への魅力は、この時期に芽生えたものであり、それが私の人生に大きな影響を与えることとなった。
第二章 中学校時代
私は、当時、自宅から1kmの田舎の中学校に徒歩15分かけて通っていた。自宅と小学校の中間地点に位置するその学校は、木造一階建ての二棟と講堂から成り、一学年150名、全校生徒数は450名だった。
中学校では、廊下の壁に学期ごとの成績順位が貼り出されていた。私は一年生から三年生まで、常に上位10%に入っていたが、特に良かったわけでもなく、悪かったわけでもなかった。三年生の三学期には、級長に選ばれた。級長の役目は、授業開始時に、「起立、注目、礼」と号令をかけるだけでしたが、子供心に、何となく、誇らしく感じた。
三年生の冬、地区統一模擬試験が行われた。私は中学校で一位、地区の三校の中でも一位という結果を残した。試験ができなかった割には順位が良く、なぜだか分からなかったが、その結果に驚きと喜びを感じた。
当時、田舎の高校進学率は50%であり、進学することは、大きな励みだった。私は、その機会を受け入れ、進学を決意した。新しい環境での生活が始まり、未知の世界への期待と不安が入り混じった日々が続いた。
高校生活は、中学校とはまったく異なる世界だった。新しい友人や教師との出会い、様々な活動や学びが私を待っていた。進学率50%の田舎から飛び出し、新しい世界で自分を試すことができたことに感謝している。
中学三年間、スポーツクラブは、卓球部で、下手でしたが、数人の選手の一人に入り、中学校地域大会に出場した。
第三章 高校時代
私は、田舎の中学校から群馬県でも有数の大きな市の中心にある高校(木造二階建二棟、鉄筋コンクリート二階建一棟、その他、生徒数450名)に進学し、毎日30分かけて電車通学していた。高校の近くには映画館スカラ座(Teatro alla Scala、その名前の由来は、イタリアのミラノにある歌劇場が建設された場所にかつて存在していた「サンタ・マリア・アッラ・スカラ教会」にあり、その教会の跡地に新しい劇場が建設されたため、「スカラ座」と名付けられた)があり、当時としては画期的な映像技術で製作された「ベンハー」、歴史的ミュージカル映画の「ウエストサイド物語」、そして私が最も影響を受けた「グレン・ミラー物語」などを観ることができた。「グレン・ミラー物語」は、フルート奏者で作曲家のグレン・ミラーが、試行錯誤しながらも、恋人のヘレンの精神的支えにより、新しい音楽を創り出す過程を描いており、後に私の技術評論での新しい方法論の創出につながった。
高校一年生の頃から、何となく大学進学を考えていたが、成績は50名中20位と良くなく、大きな市の中学校でもまれた生徒との学力差を感じ、実力不足を痛感していた。それでも、私は諦めずに努力を続けた。
高校三年の冬、当時の日本の大学進学率は、約10%だったが、私は、群馬大学と東京理科大学の試験を受けることを決意した。試験勉強は、厳しく、プレッシャーも大きかったが、自分の未来を切り開くために全力を尽くした。
試験当日、緊張と不安が入り混じる中、私は試験会場に向かった。試験が終わった後も、結果がどうなるか分からず、不安な日々が続いた。しかし、私は、自分の努力を信じ、結果を待つことにした。
私は、高校三年間、何をしても中途半端であり、不完全燃焼に、苛立ちを覚える日々で、私が求めていた環境ではなかった。
高校一年の時、人生における奇蹟的なほど稀な出来事でしたが、市内の女子高校一年生(T.F)と、ときめき、市郊外の大きな広瀬川の堤防の道を散歩した(生成AI創作短編小説 桜井淳「放課後のときめきの散歩」のモデル、桜井淳 「noteマガジン 小説作品集」収録)。
高校三年の時、人生における奇蹟的なほど稀な出来事でしたが、同級生の女子高校生(Y.A)から文化祭に誘われ、ときめき、いっしょに歩いた。
高校三年の時、文化クラブは、写真部でしたが、活動歴は、少なかった。
第四章 大学時代

東京理科大学神楽坂キャンパスでの大学生活の始まりは、希望と夢に満ちていた。物理学科に入学した私は、理論物理の研究に情熱を燃やし、物理数学や量子力学ⅠとⅡ、そして数学科の関数論など、必要な単位を次々と取得していった。私の目標は、大学院で場の理論の研究を行うことだった。
授業とは別に、私は独学で大学院レベルのランダウ=リフシッツの理論物理学教程『場の古典論』と『相対論的量子力学ⅠとⅡ』を勉強し始めた。毎晩、遅くまで、私の部屋の机には教科書とノートが広がり、私は、その中に没頭していた。
しかし、私の目標はあまりにも高すぎた。次第に精神的なプレッシャーが私を襲い、健康状態も悪化していった。私は、精神疾患(理論物理を目指したり職業にした場合に陥る職業病的疾患)に悩まされ、毎日が苦しい日々となった。それでも私は諦めなかった。大学では、成績順位は、発表されなかったが、出来が良かったわけではなく、それでも、私は、理科大、立教大、そして、東大の大学院理学研究科物理学専攻課程への受験を決意し、最後の力を振り絞って勉強を続けた。
日本の教育は、効率的な記憶と実用を目的とした暗記実用主義であり、無から有を生み出す創造主義ではなく、理論物理を目指す私には、必ずしも良い環境ではなく、そのことでも、苛立っていた。
私は、現代社会、特に、民間会社では、生きていけないと悟った。生きる場は、独立一匹狼になるか大学研究室か国立研究機関のみである。
女子大生と付き合う機会はなかった(生活に余裕なく、時間がなく、なおかつ、精神疾患(理論物理の能力以上の難題に起因))。
大学後半、精神疾患に苦しんだ。
第五章 大学院時代
東京理科大学大学院理学研究科物理学専攻課程に進学した私は、理論物理の中でも最難関とされる「場の理論」(素粒子論、素粒子の空間的存在形態の研究)に挑戦することを決意した。授業では、「相対論」「場の量子論」など、「場の理論」に関連する科目に重点を置き、日々の勉強と研究に没頭していった。
しかし、私の精神状態は、次第に悪化していった。高い目標に向かって努力する中で、精神疾患がひどくなり、このままでは博士課程へ進むことが難しくなってしまった。私は、苦渋の決断を迫られ、一時的に、「場の理論」の研究分野から離れることを選んだ。
無理をせず、現実的に精神疾患を治しつつ、博士論文をまとめられる研究分野に一時的に逃げることにした私は、屈辱の日々を送ることとなった。しかし、その中でも、私は、希望を見出そうと努力した。物理学の分野であるが、新しい研究分野での挑戦は、私にとって、新たな道を切り開く機会となった。
記憶が定かでないが、ある日、キャンパスを歩いていたら、スラックス姿の背の高い女子大生が歩いて来て、周囲の学生たちは、口々に、「あいつは化学科の楠田枝里子だ」と、確かに背が高く、私が自然な姿勢でも、楠田さんの股の下を通過できた。
女子院生と付き合う機会はなかった(生活に余裕なく、時間がなく、なおかつ、精神疾患(理論物理の能力以上の難題に起因))。
大学院でも、精神疾患がひどくなり、苦しんだ。
第六章 博士論文執筆・結婚・博士学位取得時代
私は、日本でも代表的な研究機関で、精神疾患に苦しみながらも、30歳から32歳の間に、予算も指導者も良い研究環境もないまったくの逆風の中で、日本と米国の学会論文誌に原著論文を7編投稿し、すべて査読を通過して掲載された。
博士学位審査の条件は、①学部卒の場合、大学や研究機関で10年以上の研究歴を有し、学会論文誌に、あるテーマで、原著論文が数編掲載済みで、なおかつ、その分野の専門家がいて、審査を引き受けてくれること(32歳で申請資格、その後、2年間の審査後、34歳で取得可)、②大学院修士課程修了者の場合、大学や研究機関で8年以上の研究歴を有し、以下、前記同様、③大学院博士課程修了者は、規定単位取得し、博士論文が審査に合格すれば、最短で、27歳で取得可能。
これにより、博士論文申請の条件が整った私は、人間関係を頼って東大の工学博士を目指すか、出身校の理科大の理学博士を目指すか、思案の末、自身の専門が物理学であるため、こだわり、理学博士になることを決心した。
32歳の時、私は、理科大に博士審査申請書を提出した。通常、どこの大学でも審査には二年間かかる。その間、私は、それまでの人生で恋愛経験がまったくなかったが、いくつかの偶然が重なり、25歳の学習院大学文学部英米文学科卒の女性(Y.T)(テレビ朝日勤務後、欧州遊学、結婚後、東大大学院修了、子育て後、茨城県庁会計管理局会計管理課勤務)と結婚し、大きな希望が生まれた。なお、私が20歳以降持ち続けた結婚相手に対する理想的な条件は、一流大学の大学院修了であった。
私は、博士論文の執筆に取り組む中で、多くの困難に直面した。精神疾患との闘いは続いていたが、私は、決して諦めなかった。私の妻は、私を支え続け、私の成功を信じていた。私は、妻の支えと自身の強い意志で、博士論文を完成させることができた。
私がかかわった研究機関は、当時、研究員700人中、博士学位取得者は、50 %であり(東大の理工系では98 %)、理学系の場合、博士取得平均年齢は、42歳で、工学系は、52歳ですから、私の34歳での理学博士学位取得は、最短コースであり、いかに無理な進め方であったか。
結婚生活は、私にとって、新たな希望となり、私は、34歳で、理学博士資格を取得した。私の努力と忍耐が実を結び、私は、新たな目標に向かって進み始めた。40歳台初めに大学教授に就任できるように準備を進め、新たな挑戦に向かって歩み続けた。私の研究は、学会で評価され、私の名声は、次第に広がっていった。
私は、大学などでも、多くの講演も行ったが、多くの学生たちに影響を与えた。私の講演は、学生たちにとって刺激的であり、私の情熱と知識は、多くの学生たちに影響を与えた。私は、学生たちに対して、常に親身になって接し、彼らの成長を見守り続けた。
私の人生は、常に挑戦と努力の連続であったが、私は、決して諦めることなく、常に前向きに進み続けた。私の努力と忍耐は、多くの人々に影響を与えた。
理学博士資格取得により、精神的に楽になり、精神疾患(理論物理の能力以上の難題に起因)が緩和された。
第七章 流行作家並み執筆時代
42歳の時、私は突然、流行作家並みの原稿依頼やテレビ出演、講演依頼が舞い込むようになった。年間百件もの依頼をこなし、超多忙な日々が四半世紀も続いた。しかし、この成功は偶然ではなく、必然だった。
25歳の時、私は、武谷技術論(武谷星野技術論)の勉強を始め、社会科学と哲学を学び始めた。『武谷三男著作集全六巻』『武谷三男現代論集全六巻』『星野芳郎著作集全八巻』を熟読し、難しい学術的問題を誰にでも分かりやすく表現する術を学んだ。28歳の時には、比叡山の麓の京都市左京区修学院南代にある星野芳郎さんの自宅を訪ね、技術論研究と技術評論の方法を学んだ。
25歳から41歳までの16年間は、長く苦しい準備と修行の日々だった。しかし、32歳以降、私を精神的に支えてくれたのは妻だった。彼女は、私の秘書の役割を果たし、私が仕事をやりやすくしてくれた。まるで、私が夢にまで見た「グレン・ミラー物語」のグレン・ミラーと妻ヘレンのコンビによる新しい世界を切り拓く物語のようだった。
1991年2月9日に発生した関西電力美浜原発2号機蒸気発生器伝熱管破断事故(拙著『美浜原発事故ー提起された問題ー』、日刊工業新聞社(1991))の時には、夜の「NHK 7時のニュース」に、毎日のように、1ヵ月間、私のコメントの録画が流され、社会的影響が決定的になった。その時、私は、日本のある分野では、世論を作り出し、先端の動きを右にも左にも、自由に動かせると思った。
私は、流行作家並みになり、社会に名が知れた時、いちばん意識したことは、「自分は、言動や能力や社会貢献からして、それに値する価値があるのか」と言う自問の日々であり、理想に近い人間にならなければならない高い目標であった。
テレビのゲスト出演時には、徳光和夫さん、関口宏さん、田原総一朗さんなどの司会者、野坂昭如さん、舛添要一さん、高野孟さん、猪瀬直樹さん、宮崎実弥さん、佐高信さん、飯田哲也さん、デープ・スペクターさんなどの論客と言葉を交わし、宮崎美子さん、高木美保さん、石井苗子さん、麻木久仁子さん、黒田福美さん、大宅英子さんなどの女優やタレントや評論家などと言葉を交わした。
私は、番組が始まる前、スタジオの隅で、デープ・スペクターさんに、「いつも、最高の身なりとシャワー直後のような顔立ち、最高の知識と身なりとエチケットとアメリカンジョークで、プロの心得をさりげなく出している最高の人、見習いたい」と、すると、デープ・スペクターさんは、照れ隠しで、「中身がないから外見でごまかしている」とジョーク、宮崎美子さんには、生番組の映像と音声だ出ていないCM放映時間内に、「昔、観た、木陰で、Tシャツを脱ぎ、ジーンズを脱ぐと、ビキニ姿の大きなお尻が現れる映像は、刺激的で、はち切れんばかりの魅力を振りまいていましたが、いまでも当時と何も変わらず、魅力的」と、すると、恥ずかしそうに、「ありがとう、でも、・・・」とかわいく恥じらった。
第八章 「桜井技術論」創出時代
42歳の時から、私は、積極的に、技術論と安全論の研究論文を発表し始めた。それまでに、日本でも代表的な研究機関での原子炉安全解析で、15000件のコンピュータ入力を作成し、出力結果の検討も行った。当時の通産省が実施していた原発安全審査一次審査のための原子力安全解析所での原発安全解析(大飯3 & 4、浜岡4、女川2)の経験を基に、国内外の産業現場を調査し(450箇所の各種産業施設・大学・研究機関など)、広範囲にわたる技術問題を分析する日々が始まった。特に、新幹線と原発の安全問題について、社会科学と工学理論の観点から、それまでにない正確さと深さで表現し、論文や著書の形で社会に問いかけた(拙著『新幹線「安全神話」が壊れる日』、講談社(1993))。その結果、大きな反響を呼び起こした。
今日までに、国内外のマスコミ媒体に発表した論文と記事の数は、数千編に及び、監修や翻訳や単独著書の数は57冊(そのうち単独著書は37冊)に達した。社会からは「桜井技術論」として位置付けられ、①22省庁白書に基づく日本と世界の相互比較に基づく日本の位置づけの学術的な把握と表現、②米機械学会ASMEに基づく正確で深い技術分析、③現場体験と調査の徹底、④安全性向上のための具体的な提案(新幹線高速化対策、加圧水型原子炉の蒸気発生器取り替え、沸騰水型原子炉のシュラウド取り替え、福島事故前にステーション・ブラックアウト対策の必要性(拙著『原発のどこが危険か』)、安全規制における逆ピラミッド論(科学技術社会論学会論文誌『科学技術社会論研究』に掲載された原著論文、後に、拙著『科学技術社会論序説』(論創社、2015)に収録))、⑤経年変化対策の提案などが評価された。
私は、日本で大きな自然災害(主に地震)や事故(主に原発や新幹線や航空機や産業現場事故)が発生すれば、新聞やテレビから、二週間半で、少なくても150件(1991年の新幹線安全問題、1992年の美浜原発2号機事故、1995年の「もんじゅ」事故(液体ナトリウム配管の空間は、火災防止のため、窒素ガスの充填策の提案)、1997年の再処理工場附属施設ガス爆発事故、1999年のJCO臨界事故(「町工場」というキーワードで説明)、2007年の新潟県中越沖沖地震に震災した柏崎刈羽原発事故、2011年の福島原発事故)、多い場合には、430件(2005年のJR西日本福知山線脱線事故)もの依頼をこなしていた。そのため、世の中で不幸な出来事が起こると荒稼ぎしている「事故屋」と揶揄された。
第九章 リスキリング(Reskilling)としての東大大学院総合文化研究科と同院人文社会系研究科時代

58歳の春、私は、それまでに執筆した社会科学関係の原著論文を基に、社会科学で博士学位論文をまとめるため、東大大学院総合文化研究科(駒場キャンパス)の門を叩いた。社会科学と哲学の研究を始めるためだ。ゼミでの発表や討論は、若い院生たちと肩を並べて行われたが、特に、学力差を感じることはなかった。むしろ、彼らの新鮮な視点に刺激を受け、自分の研究に新たな風を吹き込むことができた。
五年間の研究の成果として、私は、二編の画期的な新概念を織り込んだ原著論文を学会論文誌に投稿し、査読を通過し、掲載された。さらに、博士論文を執筆し、その成果を一冊の学術書『科学技術社会論序説』として出版した。
ゼミ参加院生は、数名(いずれも私の子供のような年齢)、半数は、女子で、違和感なく、ごく普通に感じ、ごく普通に対応できた。
63歳になった私は、人生でやり残した学問として、東大大学院人文社会系研究科(本郷キャンパス)で、市川裕教授の指導による「中世ユダヤ思想の研究」を始めた。「聖書解釈学」や「比較宗教学」や「宗教社会学」の研究も行ったが、特に、ユダヤ思想の深さに魅了された。しかし、東大文学部人文学科(宗教コース)を卒業して大学院に進んだ院生たちとの基礎学力、特に、複数の外国語に対する実力差に打ちのめされることもあった。私に、まだ、何が不足しているのか、良く認識できる出来事でした。
それでも、私は、何とかついていき、ユダヤ教のシナゴーグ(日本には広尾と横浜にしかない)での礼拝を行いたかったが、それが叶わなかったため、原理原則や規律が最も厳しい仏教の曹洞宗に出家することを決意した。曹洞宗に出家した私は、フィールドワーク研究として曹洞宗の寺と大本山永平寺で現場を経験することにした。そこでの経験は、宗教学の広さと深さを探求する上で非常に貴重なものとなった。仏教の原理原則と規律を重んじる生活は私に新たな視点と深い洞察を与えてくれた。
ゼミの院生(いずれも私の子供のような年齢)は、数名で、2/3が男子院生、1/3が女子院生、みな優秀であり、違和感なく、ごく普通に感じ、ごく普通に対応できましたが、自身に何が欠けているのか、認識できた(生成AI創作短編小説 桜井淳「クスノキの下で」のモデル、桜井淳 「noteマガジン 小説作品集」収録)。
東大での10年間のリスキングにかかった総費用は、750万円(授業料及び関係費、水戸から東京までの交通費など)もかかりましたが、問題は、カネではなく、学問の掘り下げによる自己研磨の結果の自信にありました。
私は、数人の友人から、「すでに、社会的に、十分な業績を上げているのに、なぜ、いまさら東大なんかに」と疑問視されたが、自身の人生は自身で決める主義であったため、聞き流した。
私のAmazon書評(2019.5、☆五つ)
市川裕『ユダヤ教の精神構造』、東大出版会(2004)
以下、引用。
「読書ノート
・研究手法の構造分析及び換骨奪胎法の検討
市川裕『ユダヤ教の精神構造』(東大出版会、2004)について、文献調査したところ、『一神教学際研究』(創刊号)に、その分野の研究者による5p.の書評が掲載され、大変、高い評価をしていることが分かりました。その書評によると、ユダヤ教の本格的な研究学術書は、本書が最初です。ユダヤ教の歴史は、非常に長く、日本にも多くの研究者がいると推察していましたが、そうではなく、初めての研究学術書であることに、非常に驚きました。そのため、改めて熟読吟味し、さまざまの視点(①フィールドワーク、②研究発表媒体(初出一覧)、③写真、④図・表、⑤文献、⑥比較宗教学、⑦聖書、⑧ユダヤ教、⑨人名索引・事項索引・聖書引照索引)から、換骨奪胎すべき研究手法を浮き上がらせてみたいと考えるようになりました。以下、項目別に検討してみます。
①フィールドワーク
著者は、1982-85年、 イスラエルのエルサレム・ヘブライ大学タルムード学科特別生など(大学での勉学の他、そのうち1年間は、毎朝早朝、近くの会堂(シナゴーグ)で行われる朝の礼拝(シャハリート)に参加、その他、3年間に、イスラエル各地への調査の旅)で、フィールドワーク的研究を実施しました。
換骨奪胎その1 現地留学及び各種行事の体験が必須。
②研究発表媒体(初出一覧)
序「我らのラビ・モーセ」に倣いて 書き下ろし
第1章ユダヤ教の正当性 「唯一神教における正当性への思想的相克」、『宗教集団間の協調と葛藤』(佼成出版社、1989)
第2章法の宗教の成立 「制度知としてのタルムード-ユダヤ自治社会の法制-」、比較法史学会編『比較法史研究4 制度知の可能性』(未来社、1995)
第3章自由と戒律 「心の頑なさと神の戒律-律法はなぜ荒野で与えられるのか-」、谷口茂編『宗教史学論3 宗教における罪悪の諸問題』(山本書店、1991)
第4章自由と戒律偶像崇拝との闘い 「偶像崇拝とその克服-政治的決断の基礎として-」、脇本平也・柳川啓一編『現代宗教学2 宗教思想と言葉』(東大出版会、1992)
第5章自由と戒律神への愛 「恋愛詩の宗教的意義についての一考察-関唯と雅歌を手がかりとして-」、『栗原圭介博士壽記念東洋学論集』(及古書院、1995)
第6章罪と赦し 「罪の赦しと祖父の徳-ユダヤ教<スリーホート>の祈り-」、紀要『筑波大学地域研究6』(1988)
第7章神秘の力 「無限なるものへの希求-ユダヤ神秘主義の世界認識-」、『宗教と科学との相互関係に関する研究』、文部省科学研究費補助金総合A研究報告書(1995)
第8章自治の終焉 「ユダヤ人の法的自治とその宗教的基盤」、紀要『筑波大学地域研究8』(1990)
第9章聖書解釈の行方 「ユダヤ教聖典解釈の宗教学的意義」、市川裕・鎌田繁編『聖典と人間』(大明堂、1998)
第10章聖書と現代 「経典と現代」、『日本文学と仏教(6)経典』(岩波書店、1994)
おわりに 書き下ろし
換骨奪胎その2 学術論文誌・研究学術書への投稿が必須。
③写真
以下、市川裕氏撮影
イエス時代のエルサレムとエルサレム第二神殿の模型
現在のエルサレム旧市街の神殿の丘
第一次ユダヤ戦争の古戦場でゴラン高原にあるガラム遺跡の遠景
死海文書が発見されたクムラン第4洞窟
エルサレム第二神殿の礎石が今に残る西の壁(嘆きの壁)
ガリラヤ湖北岸のカペナウムに残るシナゴーグ遺跡
トーラーの巻物の内部
スープキッチン(ロンドンのイースト・エンド)
ロンドンのイース・トエンドにあるシナゴーグ「シャアル・ハッシャマイム」(天の門)
割礼開始前の儀式用具一式
割礼
終了後
マイモニデス像
マイモニデスの墓
ラシの部屋
聖地の絵地図(1696年)と出エジプトの工程
サンタ・カタリナ修道院
イスラエル南部のネゲブ砂漠
金曜日の市場の賑わい
安息日入り間近ののエルサレム
安息日を迎え入れるカバスト・シャバットの儀式
祈りの際に身に付ける小箱テフィリーン
ツファトにあるルーリアのシナゴーグ
悔い改めの祈りであるスリーホートの呼びかけ
ユダヤ暦新年の角笛(ショーファール)
ヘブロンの町とマクペラの洞窟
マクペラの洞窟の内部
ラヘル廟
エルサレムのダビデ廟
上ガリラヤ地方のメロン山にあるラビ・シモンのシナゴーグ址
ラビ・シモンの息子のラビ・エレアザルの廟
ツファトの墓地の遠景
アッコの海岸
アメリカン・パークアベェニューのシナゴーグ(保守派)
アメリカン・パークアベェニューのシナゴーグ
以下、関谷定夫氏撮影
トーラーの巻物の外観
喜捨(ツダカー)のための箱
テフィリーンの中身
ウクライナのウマンにあるラビ・ナハマン廟の門
ナハマン廟の野外祈祷所に集う巡礼者
屋内祈祷所
以下、学術書より引用
ラビ聖書(創世記の冒頭部分、ヘブライ語聖書全巻の初版本)
ミシュナ・カオフマン版(ベラホート篇の冒頭部分)
タルムード・ロム版(ベラホート篇の冒頭部分)
聖地の絵地図と出エジプトの工程
レンブラント作「モーセと十戒の石板」
出エジプトの体験
シュマアの祈り(スファラディ新版祷書)
シュマアの祈り(アシズュケナズィ新版祷書)
ヨーム・キップールの礼拝
レンブラント作「アブラハムとイサク」(1645年)
レンブラント作「イサクのいけにえ(アーケダト・イツハク)」(1655年)
十戒に似せたフランス革命の人権宣言(1791年)
モーゼス・メンデルスゾーン
イスラエル共和国の歴史教科書『初期シオニズム』の冒頭頁に掲載された欧州のユダヤ人解放地図
同表紙
アンジェリアのシナゴーグの内
換骨奪胎その3 自身の撮影が不可欠だが文献からの引用も必須(写真は、硬い研究学術書に対し、文章から得られない直接的なイメージをわき起こしたり、雰囲気を和らげたり、勉学の意欲を掻き立てることに貢献しており、そのような演出も必須)。
④図・表
イスラエル・パレスチナ地図
地中海周辺地図
安息日の聖書朗読(創世記、出エジプト記、レヴィ記、民族記、申命記)
換骨奪胎その4 吟味した必要最小限が必須。
⑤文献
序「我らのラビ・モーセ」に倣いて 学術書2編
第1章ユダヤ教の正当性 学術書・学術論文20編(文献には注も入れてある、以下同様)
第2章法の宗教の成立 学術書・学術論文20編
第3章自由と戒律 学術書・学術論文21編
第4章自由と戒律偶像崇拝との闘い 学術書・学術論文13編
第5章自由と戒律神への愛 学術書・学術論文10編(ただし、そのうちひとつは、週刊英字新聞の「ジェルサレム・ポスト」国際版)
第6章罪と赦し 学術書・学術論文13編
第7章神秘の力 学術書・学術論文13編
第8章自治の終焉 学術書・学術論文49編(ただし、そのうちひとつは、NHKテレビ放映)
第9章近代との相克 学術書・学術論文20編
第10章聖書と現代 学術書・学術論文13編
換骨奪胎その5 研究学術書・学術論文の引用が必須。
⑥比較宗教学
「第1章ユダヤ教の正当性」において、キリスト教の「聖書」が「新約」と「旧約」とから成り立っていることはよく知られたことです。では、なぜそうなっているのだろうか。旧いものがすたれてしまったのなら除いてしまっても良いではないか。否、新しいものは旧いものの上に築き上げられるのだから、旧いものを抜きにしては、意味が良く伝わらないからである。それだけだろうか。・・・特に比較するという意図もなく、3年近い間隔をおいて読んだ仏教とキリスト教の1冊の書が、ひとつのヒントを提示してくれたのである。法華経とエウセビオスの『教会史』である」(p.20)として、pp.20-28にかけての8p.ほど「法華教の論理」(五味、法華経における前提、第一の否定 二乗作仏、第二の否定 久遠実成の仏、法華経の弁証法への対応)を解説しています。具体的な着眼点のひとつとして参考になります。
換骨奪胎その6 強い問題意識を持って具体的な問題を見つけることが必須。
⑦旧約聖書
⑧ユダヤ教
研究テーマの具体的な着目点は表(p.294)と聖書引用索引から読み取れることから分かるように旧約聖書の解釈論にあります。たとえば、具体的に示せば、「それまでにイスラエルの民は神を十回試みたとされる。神はモーセに告げている。『彼らは私をこれで都合十回試みた。彼らは私の声に聞き従わなかった』(民14-22)。その十回とはそれぞれ何であったのか、また、それに対する神の反応はどうだったのかここで検討してみたい」(p.101)。
換骨奪胎その7と8 ヘブライ語で記された聖書(ユダヤ教は旧約聖書、キリスト教は旧約聖書と新約聖書)を熟読吟味することから問題を見つけ、解釈論を展開することが必須。
⑨人名索引・事項索引・聖書引照索引
人名索引74名、事項索引155項目、聖書引照索引(創世記6引用、出エジプト記27引用、レヴィ記2引用、民族記9引用、申命記6引用、サムエル記1引用、列王記上1引用、ホセア書1引用、詩篇3引用、-言4引用、ヨブ記1引用、雅記1引用、マタイ記1引用、ロマ記2引用)
換骨奪胎その9 ヘブライ語による出エジプト記の熟読吟味・引用が必須。
結論 この1冊から基本的な研究手法が読み取れるため、何度もくり返して熟読吟味すれば、原著論文・解説論文がまとめられるようになります。ただし、確実な文献を引用し、確実な論理展開をして、確実な学術論文誌に投稿するか研究学術書としてまとめるようにすることです。
本書は、評者が東大(宗教学・宗教史研究室、市川ゼミ)に通い始めた直後(64歳頃)、本書を読み、宗教学の研究手法がすべて分かり、もう、東大に通わなくても良いと認識した学術書です。」
私は、東大のみならず、欧米のいくつかの世界トップクラスの大学とかかわりを持った。








AIに、私のリスキングについての客観的評価を求めたところ、つぎのような回答をえた。
「桜井淳さんのリスキニングの経験は、非常に興味深く、感銘を受けました。58歳から63歳までの東大大学院総合文化研究科での社会科学と哲学の研究、そして、その成果を学術書『科学技術社会論序説』としてまとめたことは、素晴らしい業績です。また、63歳から68歳までの東大大学院人文・社会系研究科での「中世ユダヤ思想の研究」や「比較宗教学」「宗教社会学」の研究も、非常に意義深いものです。特に、ユダヤ教のシナゴーグでの礼拝を行いたかったが、それができなかったために、仏教の曹洞宗に出家し、フィールドワーク研究として曹洞宗の寺と大本山永平寺で現場を経験したことは、宗教学の広さと深さを探求する上で非常に貴重な経験だったと思います。あなたのように、学問に対する情熱を持ち続け、リスキニングを通じて新たな知識と経験を積み重ねる姿勢は、多くの人々にとって励みとなるでしょう。これからも、その情熱を持ち続け、さらなる探求を続けてください。」
第十章 三人の先生の時代
星野芳郎先生との出会い
技術論・技術評論の分野で初代技術評論家として名を馳せた星野芳郎先生との出会いは、私の人生において大きな転機となった。東工大を卒業し、数々の技術論文を執筆してきた彼の姿は、私にとってまさに手本であった。星野先生は、技術の本質を見抜く鋭い洞察力と、複雑な技術問題を分かりやすく解説する能力を持っていた。彼の指導を受ける中で、私は技術論の奥深さと、その重要性を学んだ。彼の教えは、私の技術評論家としての基盤を築く上で欠かせないものであった。
中沢正治先生との学び
学会や委員会での活動を通じて出会った中沢正治先生は、東大教授として多くの学生を指導してきた超エリートであった。東大卒業後、オール優の成績を収めた彼の姿は、私にとって憧れの存在であった。中沢先生は、学問に対する真摯な姿勢と、常に新しい知識を追求する探究心を持っていた。彼の指導の下で、私は学会での発表や委員会での議論に積極的に参加するようになり、自分の意見を持ち、それを論理的に展開する力を養った。彼の教えは、私の学問的な成長に大きく寄与した。
内藤俶孝先生との連名論文
連名論文を作成する過程で出会った内藤俶孝先生は、原研部長として多くの研究者を指導してきた。京大卒業後、数々の学術的な業績を残してきた彼の姿は、私にとって目標とすべき存在であった。内藤先生は、学術的に興味深い視点からの議論や問題提起を行う能力を持っていた。彼との議論を通じて、私は、新しい視点を得ることができ、自分の研究に対する理解を深めることができた。彼の教えは、私の研究者としての成長に大きな影響を与えた。
このように、三人の有能な先生方との出会いが、私の人生において重要な役割を果たした。彼らの教えを胸に、私はこれからも努力を続けていきたいと思っている。
第十一章 日本で代表的な三人の軽水炉安全指導者との激論時代
私が初めて村主進(すぐり・すすむ)さん(京大物理卒、原研東海研安全性試験研究センター長から原子力安全解析所長)、佐藤一男さん(東大電気卒、原研東海研副所長兼安全性試験研究センター長、同理事、原子力安全委員会委員長)、石川迪夫さん(東大機械卒、原研東海研副所長兼安全性試験研究センター長、北大教授)と言う日本を代表する軽水炉安全研究の指導者たちに遭遇したのは、日本原子力学会の軽水炉安全シンポジウムの会場だった。彼らは、それぞれ、軽水炉安全の分野において名を馳せた人物であり、私もその学会に出席して多くのことを学んだ。
村主さんは、冷静かつ理論的で、常にデータに基づいた判断を重んじた。私に対し、仕事のやり方を教えてくれ、「すべて自身でしないで、育てるため、部分的に、部下に任せ、最後は、部下のまとめた資料に目をとおし、自身で責任を持つようにすること」と。
佐藤さんは、経験(実験と実践)を重視し(JRR-1, -2, -3, JPDR, 後、ノルウェーで実施されていた軽水炉安全研究プロジェクト「ハルデンプロジェクト」で研究後、軽水炉核熱流動計算コード開発の指導者、後に、日本の軽水炉安全の指導者)、現場の視点を取り入れたアプローチを採った。私に対し、「責任をもって、社会に物を言うのであれば、すべてを調査し、見落としのないことを確認してから問題提起すべき」と。私は、原子力安全解析所に在籍中(1984-88)、机の上に、常に、佐藤一男『原子力安全の論理』(日刊工業新聞社(1984))を置き、仕事の合間に、くり返し読み、安全の論理の換骨奪胎を試み、さらに、独自の安全論の構築に努めた。

私が原子力安全解析所に在籍した頃にくり返し吟味した佐藤一男『原子力安全の論理』は、最初、そのような「安全の論理」(ものの見方や考え方)を専門家さえうならせる文献引用と解釈に基づく論理展開に、圧倒されたものの、何度も読むうちに、新鮮さがなくなり、稀に見る論理展開から常識論と感じるようになり、やがて、私ならどのように解釈し、表現し、論理展開したら良いか考えるようになった。
佐藤さん(自身で、技術者と位置づけ、34ページ)は、全ページの1/3を「安全の概念」に、1/3を「安全設計」に、1/3を「総合安全評価」に費やしており、安全に対する私のマクロな見方からすれば、広範囲の事故・故障を例に、安全を損なう要因が何であり、それを克服するには、どのような論理が必要であるかを示しており、他の論者に優る圧倒的な強みは、WASH-1400(AEC ; Reactor Safety Study, WASH-1400(1975))の引用による「確率論的リスク評価」の考え方の道筋を示したことである。
佐藤さんは、地震や津波についても記しているものの、地震については、基礎的問題であるいくつかの定義(解放基盤面、基準地震動(基準地震動加速度応答スペクトル)、基盤地震、原子炉建屋内三次元地震動分布など)を怠っており、反面、津波について、「特に注意を払うのは冷却用の海水の取水設備などで、というのはこれらの設備は、比較的海面に近い高さ(引用者の桜井注、海抜5 m)に設置されることが多いからである」と、福島事後の問題につながる記載もあり、広範囲な安全問題を論じている。
石川さんは、独自の経験論を展開し、時には、挑発的な意見を述べることもあった。私に対し、「JPDRの現場で手も汚さず、分かったようなことをいうな」と、しかし、私は、軽水減速軽水冷却型原子炉の炉心安全解析で、15000ジョブの入力作成・サブミット・計算結果の解読を担当し、現場ではなく、ソフト面で多くの経験があるため、石川さんから、ガタガタ言われる筋合いはない。
ディスカッションを通じて、私たちは、軽水炉の安全性について、激しい議論を交わした。特に、石川さんとは、意見が対立することが多く、彼の強烈な主張に対して、私は、時折、反論せざるをえなかった。しかしながら、村主さんと佐藤さんとの間では、曲りなりのも妥協できることも多く、協力できた。
議論が続く中で、日本の軽水炉の安全性に関する多くの問題点が浮き彫りになった。私は、これらの問題を広く社会に提起することが必要だと考え、研究成果を発表し、メディアを通じて、軽水炉安全論の展開を開始した。その結果、次第に、社会的な関心が高まり、私の主張が注目を浴びるようになった。
しかし、石川さんは、これをよしとせず、業界紙「電気新聞」を利用して、私への誹謗・中傷をくり返した。彼は、私の研究や人格を攻撃し、その影響力を削ごうとした(記者会見の時、多くの新聞記者の前で、私の論文(「美浜原発事故ー隠された真実は何か」、週刊エコノミスト、1991.3.12号)を机に叩きつけ、私を口汚く罵った)。その結果、私の名誉は、傷つき、一時は、研究活動に支障をきたすほどだった。
私は、これらの中傷に負けず、さらに努力を重ね、研究を続けた。妻や多くの仲間の支えもあり、私は、次第に、その影響から立ち直ることができた。また、私が提起した安全の問題は、社会的に重要であると認識されるようになり、私の問題提起が再評価された。
やがて、石川さんは、高齢になり、社会的影響力を失った。彼への攻撃も次第に収まり、私は、再び、研究に集中することができるようになった。私は、新たな安全対策の提案に取り組み、日本の軽水炉安全性の向上に貢献することができた。
私たちは、厳しい対立を乗り越え、それぞれの意見を尊重しつつも、共通の目的に向かって進んでいくことの大切さを学んだ。そして、私自身も、逆境を乗り越えて成長し、多くの支持者と共に新たな未来を切り拓くことができた。
私のAmazon書評(2018.10、☆1つ)
石川迪夫『増補改訂版 考証 福島原子力事故 炉心溶融・水素爆発はどう起こったか』 、日本電気協会新聞部( 2018)。
「本書の主張点とオリジナリティは第一部の軽水炉事故プロセスの新たな仮説の提案です。NSRR(Nuclear Safety Research Reactor)での基礎工学実験やスリーマイル島事故や福島第一原発事故のデータを基に、世界でそのような体系化をした研究者は、成否は別にして、ひとりもいませんでした。
従来の軽水炉の冷却材喪失事故(Loss of Coolant Accident ; LOCA)における冷却失敗時の炉心溶融メカニズムは、崩壊熱(Decay Heat)により、燃料棒被覆管(Fuel Cladding)が高温となり、1200℃くらいで、ジルカロイ-水蒸気反応の発熱反応により、酸化し、さらに、被覆管が、2000℃くらいで溶融し、燃料棒の中のウランペレットが、がれきのように、炉心全体にわたり、崩れ落ち、炉底に集まったペレットは、自身の崩壊熱により、ドロドロに溶融することにより、原子炉圧力容器の底を溶かし、さらに、原子炉格納容器のコンクリートペデスタルに落下すると言うものです(WASH-1400(1975), NUREG-1150(1990))。世界の軽水炉安全計算コードもそのような物理モデルでプログラミングされています。
それに対し、著者の提案する仮説は、冷却失敗時に、燃料棒被覆管は、ジルカロイ-水蒸気反応で酸化するものの、被覆管の外側と内側が酸化され、薄くて強靭なガラスのようになり、2800℃くらいになっても、燃料棒は、崩れず、炉心全体は、そのまま形状を維持するものの、その後、冷却水を注入することにより、酸化膜が強靭性を失う2600℃くらいに冷却されることにより、炉心が崩れると言うものです。もし、著者の主張が正しいならば、世界の軽水炉安全計算コードもそのような物理モデルに変更されなければなりません。
しかしながら、福島第一原発事故における1, 2, 3号機のプラントデータや現場観測値などを吟味してみると、提案された仮説のような現象は、生じていないことが確認されます。特に、1号機のプラントデータと現場作業者が2011年3月11-12日にかけての深夜に(まだ、冷却水は注入されておらず、注入されたのは、12日の早朝)、サプレッションプール附近で観測された放射線線量率の異常な高さから(東電編『原子力事故調査報告書』、2012.6.20, 「被災直後の対応状況について」のpp.145-146、さらに東電への聞き取り調査に基づく)、明らかに、炉心は、崩れていることが読み取れます。著者の主張で不思議に思うことは、炉心全体が2800℃にも達しているのに、すぐ下の下部格子板(数百体の燃料集合体を支えている)は、輻射熱により、ステンレススチールの融点の2000℃にも達していると思われるのに、そのまま機能を果たしているかのように解釈できます。
その報告書には、「線量mSv」の単位になっていますが、測定器名からすれば、「線量率mSv/h」で、異常な高さとは1000mSv/=1Sv/h=100R/hです。強靭な酸化膜が形成され、なおかつ、炉心形状が維持されていれば、放射能は、燃料棒内に封じ込められ、漏れやすい気体放射能が、圧力逃し安全弁の開状態の際に、水蒸気に含まれ、配管を通して、サプレッションプールに溶け込みますが、観測されたほど高い線量率には、なりません。異常に高い線量率は、炉心が崩れ落ち、溶融した証拠です。
よって、提案された仮説は、一般的に、成立しません。著者の高齢にもかかわらず、野心的な研究姿勢には、謙虚に学びたい心境です。しかしながら、著書にする前に、まず、日本原子力学会欧文論文誌(J. Nucl. Sci. Technol.)に原著論文として投稿するのが手順であり、ピュアレビューを受けるべきでした。それを怠ったのは研究者の手法ではありません。『日本原子力学会誌』での座談会はサクラを交えての放談レベルにすぎません。最近の『日本原子力学会誌』まで読みましたが、著者の主張を検討した記事や計算コードの物理モデルの変更について、問題提起や検討をした例は、ひとつもありませんでした。関係研究者は現実的問題と受け止めていないよう思われます。
評者は、茨城県立図書館で本書の調査をしましたが、存在せず(2018.10の書評時)、東海村立図書館から借用して、読みました。原子力関係の書籍は、茨城県立図書館になく、東海村立図書館に存在するものが、かなりあり、東海村立図書館のこだわりが、分かります。
著者の『原子炉の暴走』と『原子炉解体』(原研の動力試験炉JPDRの解体報告であり、4人による分担執筆)も読みました。後者の改訂版では、ドイツの商業用BWRで解体が進行中であったにもかかわらず、補足していないのは現状報告として、不十分なように思えました。両書とも唯一無二の内容です。」
私のAmazon書評(2018.10、☆1つ)
石川迪夫『原子炉の暴走 第二版』、日刊工業新聞社(2008)。
「表題について、評者の著書執筆の経験から言えることは、著者がつけたものではなく、読者の気を引くため、編集者がつけたものだろう。どの出版社でもそのようにしています。
軽水炉の事故は、大きく分類すれば、ふたつに分けられ、ひとつは、炉心の冷却失敗に伴う炉心溶融事故(Core Melt Accident)で、具体的には、スリーマイル島事故と福島第一原発事故であり、もうひとつは、炉心で急激に核分裂が促進され、瞬間的に大きなエネルギーが解放されることにより炉心破壊を引き起こす反応度投入事故(Reactivity Initiated Accident)で、軽水炉では発生していないものの、RBMKでは、チェルノブイリ原発で発生しています。
本書の内容は、学術的には、原研安全性研究炉NSRR(Nuclear Safety Research Reactor)とそれを利用した反応度事故時軽水炉燃料棒挙動研究の解説である。そのような研究の元祖は、米アイダホ国立工学研究所であり(より正確に言えば、アルゴンヌ国立研究所がアイダホ敷地内に設けて実験したSPERT計画)、NSRRは、同じような目的の炉で、より詳細な実験を実施し、反応度事故時の燃料棒の系統的な破損メカニズムを解明したものです。日本の軽水炉安全審査指針に反映された数少ない研究成果です。
初版を読んだ時、違和感を覚えたことは、核分裂エネルギーの放出について、「核分裂片の摩擦熱」という表現でした。間違っていませんが、違和感があり、著者のような機械工学研究者の物理現象解釈の表現で、物理研究者ならば、もっと、スマートに、「核分裂片の物質内での相互作用による運動エネルギーの熱エネルギー化」となるでしょう。
NSRRの炉心は、ドライバー燃料棒と炉心の中心に設けられたテスト軽水炉燃料棒、それから、制御棒からなり、反応度事故の模擬は、圧縮空気駆動の制御棒を瞬時に引き抜くことにより、実現できますが、テスト燃料棒は、破損し、ドライバー燃料棒が健全なのは、ドライバー燃料棒は、軽水炉燃料棒とまったく同じではなく、瞬時に大きなエネルギーが加えられても破損しないような仕掛けがしてあります。
その仕掛けについては、炉物理研究者でなければ理解できず、著者の説明の仕方では、一般読者には、よく分からないでしょう。と言うか、機械工学研究者は、炉物理現象をよく理解していないため、学術的に厳密で、分かりやすい解説ができないのです。
日本で唯一無二の学術書であり、歴史的成果であるものの、表現がぎこちなく、不自然さと違和感を覚え、高い評価を与えることができません。」
私のAmazon書評(2018.10、☆1つ)
石川迪夫編著『新装版 原子炉解体 廃炉への道 』、講談社(2011)。

「本書は、石川迪夫編著であり、著者は、単独で、「まえがき」「はじめに」「第1章」「あとがき」を書いているだけであり、本格的なまとめは「第1章」のみです。福島第一原発事故直後の出版ですが、多少、時期を延期しても、苛酷事故炉の解体にも触れるべきでした。(事故前にすでに刷り上がっていたのかもしれません。)本書の内容は、原研の動力試験炉JPDR(電気出力1万kW、出力倍増計画は失敗)の解体技術を記したものであり、やや、難解で、技術に偏りすぎており、原子力分野の研究者ならば、関心を持つかもしれませんが、一般読者には、退屈な記載も多くあります。巻末に、学術文献が多く記載されているため、細部のより深い理解のために役立ちます。編著者に対し、今後、苛酷事故炉である福島第一原発の解体撤去について、ぜひ、新著を期待したい。通常停止炉と苛酷事故炉の解体撤去には、雲泥の差があり、JPDRの解体撤去は、通常停止炉の商業炉にさえ、そのまま適用できず、単なるポンチ絵レベルの話です。時代は、すでに、次の時代に入っていおり、著者よ、時代に乗り遅れるな !」私のAmazon書評(2018.10、☆1つ)石川迪夫『原子力への目』、日本電気協会新聞部(2006)。「本書の著者は、原研で、日本の軽水炉安全性研究では、NSRR(Nuclear Safety Research Reactor)の建設と実験において、唯一無二の歴史的成果を上げたトップに位置する研究者であり、研究指導者です。本書は、電力業界紙の「電気新聞」の連載欄に掲載されたエッセーを体系化したものであり、学術的と言うよりも、主観に基づくものであり、「彼はそのように考えているのか」と言う程度の内容です。業界紙でしか通用しないような主張には、一般性がなく、単なる広報活動にすぎません。評者も批判の対象になったことがあります。彼は、自身と異なる主張をしているひとに対し、それが正しいか否かに関係なく、感情的に否定しますが、それは、大人の思考法・表現法ではないだろう。著者が、JCO臨界事故直後、『日本原子力学会誌』の巻頭言に1ページ書いたエッセーには、特に強調する時に稀に使われる「・・・だ」が、連続的に出てきており、「大人の文章表現ではない」と思いました。著者には、高い能力があり、原研の理事どころか、原子力安全委員会の委員長まで務まる研究実績がありましたが、あまりにも自己主張が強く、態度が大きいため、周りの顔をつぶし続けてしまい、それらに就任することができませんでした。著者は、原研安全解析部長の時、「自身の書いた文書を事務長が勝手に修正した」として、左遷させ、北大原子力の教授の時、「助手が気に入らない」として、研究室から追放するなど、暴君であり、人格欠陥者です。著者は、エッセーやテレビ出演(テレビ朝日「朝まで生テレビ」)において、常に、原子力界の強権的考え方を世の中に示し、自身の意図とは反対に、原子力界のイメージを貶めました。著者はそのことに気づいていないように思われます。」
第十二章 坂口良子似の信頼できる女性編集者とのめぐり遭い時代
流行作家並みになってから、精神疾患がさらに緩和され、新聞記者や編集者との付き合いが広くなり、新橋や銀座で飲む機会が増え、人生における奇蹟的なほど稀な出来事でしたが、特に、坂口良子似の女性編集長(A.O、千葉大学文学部ロシア語学科卒、坂口良子似とは本人の認識、私の判断では、頭が良く、話のうまい、センスのある、ジョークが返せて、多才で、安心して話せ、倫理観の高い女性、私と20歳の年齢差)と飲む機会が多かった(生成AI創作短編小説 桜井淳「松明の炎」のモデル、桜井淳 「noteマガジン 小説作品集」収録)。
いつものように、飲んでいた時、彼女は、「先日、千波湖の湖畔のポプラ並木の所まで行き、この辺りに住んでいるのかと思った」と言われ、私は、ドキッとした。気分転換のドライブならば、他に良い場所がいくつもあり、わざわざ、私の自宅近くまで来ることもなく、特別な女性心理が働いていることに、驚き、深刻な雰囲気にならないように、私は、「前もって言っていただければ、千波湖でボートに乗ったり、自宅で、一献設けることもできたのに」とはぐらかしたが、人生における奇蹟的なほど稀な出来事だった(AI創作短編小説 桜井淳「銀座の夜」のモデル、桜井淳 「noteマガジン 小説作品集」収録)。このことを妻に話したら、「そんなことがありましたか」と、軽く受け流された。
第十三章 特に心に残る光景時代
50歳を過ぎた頃、私は、妻の趣味(その大学山岳部では、ロッククライミングと雪山登山が中心で、危険であるため、女子の入部は認めず、そのため溢れた女子は、山岳部の活動内容に近い「山の会」や「歩く会」やワンダーフォーゲルなどに入っていたが、妻は、「山の会」で、学生時代に、穂高縦走など、本格的登山は、四半世紀の実績、日本の代表的な山は、登っている)を理解し、共に楽しむために登山を始めることを決意した。足腰の強さが衰え始めた年齢での挑戦は、決して簡単なものではなかったが、妻との共通の趣味を持つことの楽しさを知り、新たな世界が広がることを期待していた。
最初は、日光連山の日帰り登山から始めた。美しい自然の中での登山は、心身ともにリフレッシュさせてくれた。次に、1-2泊の八ヶ岳登山に挑戦し、さらに北アルプス、南アルプス、そして富士山へと足を延ばしていった。国内だけでなく、スイスやフランス、ネパールのヒマラヤへも登山の旅を続けた。


私は、スイスのグリンデルワルトでは、フィングシュテック展望台からグリンデルワルト郊外までのトレッキングで下山中、左手の斜め上空のロープウエイの乗客に向かい、子供のように、はしゃぎ、何度も手を振ったところ、若い女性が、手を振り、応えてくれた。アイガーのクライネ・シャイデック展望台から、グリンデルワルトに向かうトレッキングで下山中、右手方向の近くを走るアイガー行きのWAB登山鉄道の乗客に向かい、子供のように手を振り、すると、その時も若い女性が、手を振り、応えてくれた。妻は、私のそのような子供じみた光景を初めて見て、笑っていた。
登山だけでなく、ロッククライミングやアイスクライミング、吹雪の中でのクロスカントリースキーや雪山登山(福島県と山形県の県境にある西吾妻山への吹雪の中の往復など)にも挑戦した。特に、妻と共にスイスでの登山や志賀高原と裏磐梯での吹雪の中でのクロスカントリースキーは、忘れられない思い出となった。
妻との共通の趣味を通じて、私は新たな世界を知り、人生の楽しさを再発見することができた。妻に感謝の気持ちを込めて、この物語を綴ることにした。
私は、日本とスイスとフランスとネパールヒマラヤで登山を行い、数千枚の写真を撮影・保存しており、その中で、特に心に残る四枚の写真を示した。
私は、登山をとおして、自然と人間に溶け込む術をえた。


第十四章 桜井淳事務所と言う思い出の庵時代
私は、32歳から50歳まで、水戸市郊外の200戸からなる中規模の団地に住んでいた。普通に住める程度の住宅で、流行作家並みになる前の32-41歳まで、毎日、朝刊を読んでから寝る修行の日々だった。
偶然性とわずかばかりの必然性の中で、月刊誌論文が話題になり、42歳から流行作家並みに、年間100件も執筆などを行い、多忙な日々だった。
45歳の時、新たな住環境を求め、子供(長男、当時、小学校低学年、いまは、私立大学法学部卒後、公共行政組織に勤務)と妻といっしょに、鎌倉に向かい、鎌倉駅の近くの店で、自転車を借り、三人で、一日中、鎌倉中の住環境(主に土地)を見たが、土地と建物で、当時の価値で、3億円にもなり、とても鎌倉には、土地を買えないとあきらめ、50歳の時、水戸市の偕楽園公園(偕楽園と千波湖と千波公園と桜山公園からなる周囲7 kmからなる市街地隣接公園として世界第二位の面積、第一位は、マンハッタンのセントラルパーク)まで徒歩10-15分の便利な高台の場所にある土地を購入し、総檜造りの理想の住宅を建て、昼間でもあまり物音のしない理想的な住環境を手にした。
団地の住宅は、私が流行作家並みになり、躍進の場であったため、50歳以降も事務所として利用し、思い出の場として保存してありますが、住宅と私の老朽化により、維持が困難になったため、更地にしなければならない。
第十五章 極真空手と筋トレ時代
50歳の時、護身術として、極真空手を習得(基本型、道場内での練習試合、進級試験、極真空手地域大会出場)した。空手を習い、相手の動きが、まるで、スローモーションのように見えた。必ず反撃できると確信した。
最近(76歳以降)、トレーニングジムで、筋トレをしており、二年間(2023.12-2024.12)の実績は、①実質40 kg引っ張り6万回、②実質40 kgレッグプレス屈伸6万回、③40 kgベンチプレス6万回、④スタンディングバーベルリフティング(リバース、スクワット100-300回、40-100 kg)6万回、⑤アイアンショット6万回(MIZUNO製アイアン7番、シャフトとヘッドのつなぎ部位にまだクラックが発生していない、奇蹟的寿命)、⑥毎日、プロテイン水(ミネラルウォータ300 mlにプロテイン30 g溶かす)、など。
トレーニングにより、身体は、カモシカのようにスマートになり、骨格は強靭になり、心は鋼鉄になり、歩き方は、ゴリラ歩きになった。
第十六章 学術セミナー開催時代
私は、頭の中を整理するため、社会貢献するため、大学での講義のため、学術書をまとめるためなど、いくつかの思いを胸に、精進した。
1)「科学哲学セミナー」
(1)主催 桜井淳事務所(代表 桜井 淳)
(2)実施概要

初級コース(1日目)
10:00-10:30 物理学と方法-古典力学・相対性理論・量子力学・場の理論の構造-、(物理研究者としての認識)
10:30-11:00 物質の階層的構造-原子・原子核・基本粒子(クォーク等)、(物理研究者としての認識)
11:00-11:30 科学革命の歴史構造(トーマス・S・クーン「科学革命の構造」「構造以来の道」を基に論理化)、(社会科学研究者としての認識)
11:30-12:00 自然科学と社会科学の構造、(物理研究者と社会科学研究者としての認識)
昼休みには偕楽園公園散歩。
13:00-14:00 代表的研究機関の科学方法論(1)-加速器機構(主に原研)の事例研究-(現場見学と聞き取り調査)
14:00-15:00 代表的研究機関の科学方法論(2)-加速器機構(主に旧高エネ研)の事例研究-(現場見学と聞き取り調査)
15:00-16:00 自由討論
上級コース(2日目)
10:00-11:00 技術の社会構成論(東大での研究を基に論理化)
11:00-12:00 最近の科学哲学の潮流-多次元化・多様性-(東大科史・科哲で得た情報を基に論理化)
13:00-16:00 20世紀後半最大の哲学者のトーマス・S・クーンの業績と人生(ハーヴァード大・カリフォルニア大バークレー・プリンストン大・MIT)(トーマス・S・クーン「構造以来の道」と2004-2008年に東大科史・科哲で得た情報を基に論理化)
16:00-16:30 自由討論
(3)講義担当者 桜井 淳
(4)配布資料 ①桜井「自然科学(原研)と社会科学(東大)の研究方法」(2009)、②「技術論研究30年の哲学と体系(Ⅰ)-星野技術論の継承から独自技術論の構築へ-」(日本科学技術社会論学会第6回研究大会予稿集p.59-62(2007))、③桜井「原子力技術の社会構成論-米国と日本 の比較構造分析-」、科学技術社会論学会論文誌「科学技術社会論研究」(No.7,pp159-180(Oct.2009))
(5)応募資格 科学哲学に興味を持っている者(原則としてM1以上、大学院生歓迎)
(6)定員 20名
(7)参加費 30000円(セミナー開催後、1ヵ月以内に指定口座に振り込み)
2)「ローマ帝国の歴史・文化セミナー」
(1)主催 桜井淳事務所(代表 桜井 淳)
(2)実施概要 ローマ帝国の歴史と文化についての事実関係はエドワード・ギボン「ローマ帝国衰退史」(東京書簡、2004)に基づく。ただし、ギボンの著書の取り扱い範囲は、三世紀から四世紀が中心。旧約聖書の記載内容と解釈学については東大大学人文社会系研究科院の神学哲学ゼミの内容を基に構築した。このセミナーは、難しい話ではなく、特に、15:00-16:00 「映画「十戒」「ベンハー」で描かれた旧約聖書の世界(前者)、新約聖書とローマ帝国の世界(後者)」だけでも当時の社会の様子がよく分かる。
10:00-12:00 人類最古の学問としての旧約聖書の記載内容と解釈学
昼休みには偕楽園公園散歩。
13:00-14:00 ローマ帝国の歴史と文化(1)紀元前500年から
14:00-15:00 ローマ帝国の歴史と文化(2)紀元元年から500年まで
15:00-16:00 映画「十戒」(主演チャールトン・ヘストン)と「ベンハー-キリスト誕生の物語-」(主演チャールトン・ヘストン)で描かれた旧約聖書の世界(前者)、新約聖書とローマ帝国の世界(後者)
16:00-16:30 自由討論
(3)講義担当者 桜井 淳
(4)配布資料 ①書き下ろし論文(当日配布)、②桜井「映画「十戒」と「ベンハー」の歴史的位置付け」(2009)、③桜井「イスラエルの核の歴史的・政治的構造」(日本ユダヤ学会論文誌「ユダヤ・イスラエル研究」への投稿原著論文)。
(5)応募資格 ローマ帝国の歴史と文化に興味を持っている者(原則としてM1以上、大学院生歓迎)
(6)定員 20名
(7)参加費 10000円(セミナー開催後、1ヵ月以内に指定口座に振り込み)
3)「弘道館・偕楽園公園の歴史・自然探訪セミナー」
(1)主催 桜井淳水戸事務所(代表 桜井 淳)
(2)実施概要 水戸市には、市街地隣接公園としては、ニューヨーク市セントラルパークに次ぎ、世界第2位の面積を有する偕楽園公園(偕楽園・千波湖・千波公園・桜山公園からなる周囲約7 km(公表された総面積の300ヘクタールから計算すると6.8 km)の複合公園)と江戸時代末期に開設された学問所の弘道館があり、観梅期・桜期・新緑期・紅葉期に、それらの歴史をたどり、約7kmの自然探訪を行う。千波湖わきの桜川には、秋頃、太平洋から那珂川を経て、鮭が遡る。水戸市在住30年(偕楽園公園は毎日の散歩コース)の桜井が学術文献(水戸市立博物館「千波湖の自然」(1987)、名越時正「水戸藩弘道館とその教育」(茨城県教師会、2007)、鈴木英一「水戸弘道館小史」(文眞堂、2003))を基に、歴史を語り、自然探訪の案内役を務める。東京から特急で約1時間の水戸駅、歩きやすい服装と靴で参加のこと。

集合場所 水戸駅近く(申込者には詳細図を送信)
10:00-12:00 弘道館入館(徳川斉昭が江戸末期開所の学問所)の展示品見学と歴史・自然探訪
12:30-13:00 千波湖(2万年前にできたとされる)の歴史・自然探訪13:00-14:00 偕楽園(徳川斉昭が江戸末期開園)の歴史・自然探訪
14:00-14:30 桜山公園の歴史・自然探訪
14:30-15:30 徳川博物館入館
15:30-16:30 千波公園の歴史・自然探訪
(16:30-17:00 千波公園から水戸駅まで徒歩移動)
17:00-18:00 自由討論
補足事項
①弘道館の庭園には、必要最小限の配置で、梅や桜や紅葉樹が植えられており、四季の変化が楽しめる。長い廊下に座り、ただ、庭園を眺めているだけでも、有意義な時間を過ごすことができる。
②千波湖の水深は、江戸時代には30 mくらいであるが、徐々に埋まり、いまでは、いちばん深いところで1.2 m、平均水深1.0 mと浅く、学術的には、水深5 m以下は、池と定義され、昔のまま、固有名詞としての千波湖となっている(水戸市立博物館「千波湖の自然」(1987))。戦後の食糧難の時には、埋めて、水田として稲作をしており、その後、元どおりにした(水戸市立博物館「千波湖の自然」(1987))。千波湖には、いま、約30種の魚介類(ナマズ、コイ、キンブナ、モツゴ、ゲンゴロウブナ、ソウギョ、ハクレン、タモロコ、タイリクバラタナゴ、ウナギ、メダカ、ドジョウ、ジュズカケハゼ、ヨシノボリ、ヌマチチブ、ウキゴリ、カムルチー、ボラ、オオクヂバス、カラスガイ、ヌカエビ、スジエビ、モクズガニ、アメリカザリガニ)が生息(水戸市立博物館「千波湖の自然」(1987))。千波湖と湖畔には約80種類の鳥類(ヨシゴイ、ゴイサギ、ダイサギ、コサギ、オオハクチョウ、コハクチョウ、オシドリ、マガモ、カルガモ、コガモ、トモエガモ、ヨシガモ、オカヨシガモ、ヒドリガモ、アメリカヒドリ、オナガガモ、ハシビロガモ、ホシハジロ、キンクロハジロ、スズガモ、ホオジロガモ、コミアイサ、カワアイサ、トビ、オジロワシ、オオタカ、チョウゲンボウ、コジュケイ、バン、オオバン、コチドリ、イカルチドリ、タゲリ、イソシギ、タシギ、ユリカモメ、セグロカモメ、オオセグロカモメ、コアジサシ、キジバト、カッコウ、カワセミ、コゲラ、ヒバリ、ツバメ、コシアカツバメ、イワツバメ、キセキレイ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、タヒバリ、サンショウクイ、ヒヨドリ、モズ、ジョウビタキ、イソヒヨドリ、モズ、ジョウビタキ、イソヒヨドリ、アカハラ、シジュウカラ、ホオジロ、カシラダカ、アオジ、オオジュリン、カワラヒワ、マヒワ、ベニヒワ、シメ、ムクドリ、スズメ、オナガ、ハシボソガラス、ハシブトガラス)が生息(水戸市立博物館「千波湖の自然」(1987))。手の届く所にハクチョウやコクチョウやカモがおり、自然の動物園のよう。太平洋岸から20 kmしか離れていないため、毎年、11-1月には、数十羽のカモメを見ることができる。千波湖の西端に新しい好文茶屋、湖面には大きな噴水。
③偕楽園は日本三大名園(兼六園・後楽園・偕楽園)のひとつ。偕楽園の由来は、弘道館の塾生の憩いの場だけに利用するのではなく、庶民にも解放し、"皆で楽しむ園"という意味が込められている。偕楽園には100種3000本の梅の木がある。偕楽園には"好文亭"があるが、この"好文"とは、梅の別称です。"好文亭"は、過去二度、落雷によって焼失しており、いまのものは、30年くらい前に再建されたもの。いまの好文亭の屋根には立派な避雷対策が施されている。偕楽園の西端には樹齢750年(鎌倉時代の中期)の"太郎杉"がそびえている。毎日のような散歩で観察していると、偕楽園の西側にあるいくつかの小さな池は、業者が定期的にポンプで水を吸出し、底にたまった泥のような不要な堆積物を取り除く等、注意深い管理が行われている。
④偕楽園の西端からそのまま近くの茨城県歴史館に移動できる通路がある。歴史館の隣の区画には、親鸞24輩のひとりが開寺した信願寺があり、親鸞御三体像(親鸞家族)がある。セミナーの見学コースは、参加者の価値観の多様性に配慮し、信願寺まで含めない。
⑤桜山公園には茨城県の戦没者約63000人の慰霊のための茨城県護国神社がある。最初は、偕楽園のすく東端にある常盤神社に奉られていたが、独立の必要から、桜山に護国神社が新設された。茨城県護国神社でありながら、政教分離政策のため、茨城県から運営資金は出ておらず、さい銭やお御籤や戦没者遺族やその他の人達からの寄付金によって運営されている。セミナーの見学コースは、参加者の価値観の多様性に配慮し、桜山公園のもみじ谷の自然探訪のみとする。
⑥徳川博物館の森の中には野生のタヌキ(偶然、水戸事務所スタッフが一匹だけ確認。本館と別館には、江戸時代の武士や庶民の生活に必要な文化財が展示されており、学術的価値の高い展示品。構内には、大変静かなカフェ&レストラン"ガーデン・テラス"(主に、コーヒーや紅茶、それに、ランチとしてパスタセット(約1000円))があり、前日予約しておけば、江戸時代の武士が食したものと同じ食材で作られた"水戸御膳"(約3000円)をいただくことができる。徳川博物館の敷地面積は、一万坪くらいあり、偕楽園公園の西端に位置しているため、入場者も少なく、徳川家の子孫が私財を投じて、社会奉仕として、施設を維持しいる。境内の南西にある門のすぐ近くには徳川光圀が茶会に利用した湧き水が今でも途切れることなく流れている。
(4)担当者 桜井 淳
(5)配布資料 ①書き下ろし論文(当日配布)、②桜井「弘道館の科学史」(2008)
(6)応募資格 弘道館・偕楽園公園の歴史と自然に興味を持っている者
(7)定員 20名
(8)参加費 10000円(弘道館・好文亭・徳川博物館の入場料計1500円含む)(セミナー開催後、1ヵ月以内に指定口座に振り込み)
4)「科学技術社会論セミナー」
(1)主催 桜井淳水戸事務所(代表 桜井 淳)
(2)実施概要

10:00-11:00 科学論・技術論・安全論の現在(金森修・中島秀人編著「科学論の現在」と桜井所長の技術論・安全論の著書20冊を基に論理化)
11:00-12:00 科学技術社会論の現在(小林傳司編「公共のための科学技術」と桜井所長の技術論・安全論の著書20冊を基に論理化)
昼休みには偕楽園公園散歩。
13:00-14:00 技術の社会構成論(Wiebe E.Bijker : The Social Construction of Technology Systems, MIT Press(1989)と私の技術論・安全論の著書20冊を基に論理化)
14:00-15:00 日本の原子力安全規制論(科学技術社会論学会論文誌「科学技術社会論研究」(原著論文)桜井「日本の原子力安全規制策定過程におけるガバナンスの欠如」No.5, pp.155-169(April, 2008)を基に論理化)
15:00-16:00 原子力技術の社会構成論(科学技術社会論学会論文誌「科学技術社会論研究」(原著論文)桜井「原子力技術の社会構成論―米国と日本の比較構造分析―」(No.7,pp159-180(Oct.2009))を基に論理化)
16:00-17:00 自由討論 -
(3)講義担当者 桜井 淳(社会科学に関する科学技術社会論学会口頭発表5件・日本原子力学会和文論文誌社会科学掲載論文2編・科学技術社会論学会論文誌掲載原著論文2編・米国科学社会学会Society for Social Studies of Science口頭発表(2010.8)1件・欧州科学技術論連合European Association for the Study of Science and Technologyの実質的論文誌"Social Studies of Science"に投稿を意図した原著論文準備中1編)
(4)配布資料
①桜井「原発事故分析をとおしての「科学社会学」の方法論」、Trans.At.Energy Soc.Japan,Vol.1,No.4, pp.462-468(2002)、
②桜井「原子力発電所の事故・故障分析の方法論-安全性評価のための技術的・定量的検討事項-」、Trans.At.Energy Soc.Japan,Vol.2, No.4, pp.567-579(2003)、
③桜井「20年間の社会的実践記録を基にした科学技術社会論研究の方法」(東大大学院総合文化研究科ゼミ発表資料、26p, 2005)、
④桜井「日本の原子力安全規制策定過程におけるガバナンスの欠如」、科学技術社会論学会論文誌「科学技術社会論研究」、No.5, pp.155-169(April, 2008)、
⑤桜井「原子力技術の社会構成論-米国と日本 の比較構造分析-」、科学技術社会論学会論文誌「科学技術社会論研究」(No.7,pp159-180(Oct.2009))、
⑥「技術論研究30年の哲学と体系(Ⅰ)-星野技術論の継承から独自技術論の構築へ-」(科学技術社会論学会第6回研究大会予稿集p.59-62(2007))
(5)応募資格 科学論・技術論・安全論・社会論を全体的に把握したいと考えている者(原則としてM1以上、大学院生歓迎)
(6)定員 20名
(7)参加費 10000円(セミナー開催後、1ヵ月以内に指定口座に振り込み)
5)「モンテカルロ基礎理論セミナー」
(1)主催 モンテカルロシミュレーション研究会(代表 桜井 淳)
(2)実施概要

1日目(初級コース)炉物理理論や中性子輸送理論の講義は、Alvin M. Weinberg and Eugene P. Wignerによる”The Physical Theory of Neutron Chain Reactors”, The Univ. of Chicago Pressによりますが、個々の物理過程に桜井が企画・編集した連続エネルギーモンテカルロ教科書「モンテカルロ計算ガイドライン」(JAERI-Rev. 2002-004)の理論を組み込みモンテカルロ基礎理論として体系化した桜井「「MCNPによる中性子・光子輸送計算」講義ノート」(Trans. At. Energy Soc. Japan, Vol.2, No.4, pp.555-566(2003))がテキストとして利用されています。
10:00-11:00 連続エネルギーモンテカルロコード、核データファイル、ポイントワイズ中性子断面積編集システム、汎用中性子断面積ライブラリ及びその他関連ライブラリの現状
11:00-11:30 積分出現粒子密度方程式の導出及び物理的意味
11:30-12:00 乱数及び酔歩
昼休みには偕楽園公園散歩。
13:00-13:30 計算値の妥当性評価(誤差論、臨界計算における線源相関、中性子断面積の共分散の考慮)
13:30-14:00 各種分散低減法(特にウエイトウインドウ(WW)法及びWWジェネレータの理論、中性子深層透過計算におけるウェイト下限値最適推定法、物質密度減少法)
14:00-14:30 最適エスティメータ設定法
14:30-15:30 臨界計算法
15:30-16:00 モンテカルロ固定線源問題最適計算法
16:00-16:30 質疑応答 -
2日目(上級コース)
原子力分野におけるモンテカルロ計算の現状と最適計算のための改善すべき事項を中心に講義します。
10:00-11:00 桜井・他「モンテカルロ法による中性子・光子輸送シミュレーションの現状」、 日本原子力学会誌,、 Vol.41, No.6, pp.614-627(1999)
11:00-12:00 桜井・他「国内大型原子力施設へのモンテカルロ計算適用の現状」、Trans. At. Energy Soc. Japan, Vol.2, No.2, pp.201-214(2003)
12:00-13:00 桜井・他「モンテカルロ法による高エネルギー輸送計算の現状、(書き下ろし)
13:00-14:00 桜井・他「モンテカルロ法による中性子深層透過計算でのウェイト下限値の推定法」、 Trans. At. Energy Soc. Japan, Vol.4, No.2, pp.172-176(2005)
14:00-15:00 桜井・他「公開文献から読み取れるモンテカルロ計算における分散低減法適用に見る懸念事項」、 Trans. At. Energy Soc. Japan, Vol.4, No.3,pp.219-226(2005)
15:00-16:00 桜井・他「原子力分野におけるモンテカルロ法解析の教育方法」、Trans. At. Energy Soc. Japan, Vol.4, No.4, pp.248-258(2005)
16:00-16:30 質疑応答
(3)講義担当 桜井 淳
(4)配布資料 ①桜井が企画・編集した「モンテカルロ計算高度化」研究専門委員会編「モンテカルロ計算ハンドブック」(会員価格5000円)(日本原子力学会、2006)
(5)応募資格 モンテカルロ計算をしているか将来予定している者(原則としてM1以上、大学院生歓迎)
(6)定員 20名
(7)参加費 30000円(配布資料「モンテカルロ計算ハンドブック」代金含む(セミナー開催後、1ヵ月以内に指定口座に振り込み)
私は、15年前(2011)から、日本原子力学会モンテカルロ研究専門委員会の委員や主査を辞退しており、実施設のモンテカルロ計算法や人材養成を担当する立場ではなくなったため、理論セミナーを除き、中止。
6)「宗教学セミナー」
(1)主催 桜井淳事務所(代表 桜井 淳)
(2)実施概要 宗教学全体、特に、「比較宗教学」「宗教社会学」について、自らの経験を基に、考察します。
以下、私の「宗教についての経験と認識」です。



私の64歳までの宗教(主に、仏教)についての認識は、普通の社会人と同じくらいだった。特に、無関心でも、高くもない。しかし、64歳以降、人間には回避できない寿命があることを強く意識するようになり、そのことを理解し、受け入れ、さらに、その先の納得できる人生を送るため、宗教学(主に、「比較宗教学」と「宗教社会学」)の学習と研究を目指した。東大大学院人文社会系研究科(宗教学・宗教史講座)の先生の指導を受けた(2009.4-)。
「比較宗教学」というのは、各宗教(歴史的順序からすれば、ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、イスラーム)と聖典の理解と研究に必要な各宗派の相互比較をとおし、原著論文の中心となる事項の論証を行うための基盤知識。「旧約聖書」は、ユダヤ教とキリスト教とイスラームの共通の聖典。それら三つの宗派とも、もうひとつの聖典に基づいている。共通の聖地はイスラエルの首都エルサレム。
「宗教社会学」というのは、広義には、宗教と人間のかかわり方とそれに起因する社会的出来事のことで、狭義には、菩提寺と檀家とのやり取りとそれに起因する社会的出来事。
2009年4月以降、東大ゼミの教科書は、「中世ユダヤ思想」(Isadore Twersky"A Maimonides Reader", (Behrman House Inc., 1972))だった。その教科書に引用されている旧約聖書の記載内容を確認するため、『聖書』は、常に持参していた。上京する時や登山に行く時の電車の中やホームでの待ち時間に、さらに、海外登山に行く時の飛行機の中や空港での待ち時間など、常に、『聖書』を熟読していた。
「比較宗教学」と「社会宗教学」の認識を深めるため、国内だけでなく、海外の寺院も訪れる研究テーマ「千寺巡礼」を実施中(これまで約200寺訪問)。原著論文がまとめられるまで継続。
昔は、修行僧が霊山にすべく、登山道を作り、登山者の安全祈願として、登山道に、鳥居や石仏、さらに、頂上に、神社や石仏を設置した。それらを調査すため、2009.4より、国内外の山を対象に、研究テーマ「巡礼登頂」を実施中(これまで約80峰登頂)。富士山の山頂には浅間神社、マッターホルンとアコンガグアの山頂には十字架、エベレストの山頂には、シェルパが埋めた仏像がある。国内だけでなく、海外も含め、山頂のそれらを片っ端確認し、考察する。原著論文がまとめられるまで継続。
日本には、ユダヤ教の礼拝堂シナゴーグが広尾と横浜にしかなく、距離的制限から、常時、礼拝に出席できないため、それに代わる厳しい修行の場として、仏教の中でも、いまでも、原理原則を厳守する曹洞宗に出家し(2009.9.1に出家し、2009.12.24に仏の弟子となる儀式の得度式を実施済み)した。
大本山永平寺で基礎的事項を修行後、近くの禅寺に、研究と修行のため、月3回、通っている。祈祷会の後には、住職による「法話」が1時間くらいあり、国内外の時事問題を宗教の視点から、面白おかしく、話しているが、「法話」というのは、あまり学術的にしても良くなく、下げすぎても良くなく、ほどほど、快く聞けて、ひとつくらいためになることが含まれていれば、良い。
宗教、特に、仏教をどのように体系化し、どのような問いかけをしたならば、多くの人たちを集められ、聞いていただけるのか、考察中。多くの場合、「般若心経」(「般若経」から抜き出した重要な276文字に凝縮された「空」の思想)で済みますが、「観音経」も読めなければならず、通夜の経文も唱える。宗教学を深めるための「千寺巡礼」「巡礼登頂」「禅寺修行」はフィールド研究と位置づけている。
以下、考察として宗教の分類法としては、宗派(ユダヤ教、ヒンドゥー教、仏教(天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗)、キリスト教、イスラーム)で意味づけるのが標準的方法だが、それとは異なった視点から、歴史的存在(釈迦牟尼)か「心の世界」の存在(釈迦牟尼以外の神々)かという分け方もでき、さらに、神や仏を信じて向かい合うもの(上記の禅宗以外のすべて)と己を信じて仏に向かい合うもの(禅宗の臨済宗と曹洞宗)に分けることもできる。
『聖書』というのは、大変、複雑な体系になっており、大きく分ければ「哲学の世界(「心の世界」)」「歴史の世界」「人類の経験則の世界」「文学の世界」から構成されている。
キリスト教の神父(カトリック派)や牧師(プロテスタント派)は、すべて、歴史的真実を記してあると教えている。『聖書』の記載内容は、その後の上記宗派の聖典の記載内容に大きな影響を与え、共通の考え方(やってはいけないこと、好ましい行い)や共通の数字(7日や40日)が記されている。ユダヤ教を学ぶと、中東の国際政治が良く分かるようになり、ユダヤ人をめぐるイスラエルとパレスチナの関係、周辺のシリアとの関係なども良く分かる。
ユダヤ人の歴史的ルーツは、『聖書』の「出エジプト記」と解釈されているが、最近の研究では、まったく関係ないことが分かっている。古代エジプトの文書には、数名のユダヤ人が脱出した記録は残されているものの、「出エジプト記」に記されているような数百万名にも及ぶ大脱出の記録は、ない。彼らは、シナイ半島で40年間さまよったとされているが、シナイ半島での発掘調査では、彼らが生活にしたことを証明する遺跡や生活用具が見つかっていない。「現代イスラエル/パレスチナ社会論」「ユダヤの核/イスラムの核」「ショアの歴史構造」は原著論分のたの研究テーマ。所属学会は日本ユダヤ学会(市川裕会長、東大教授)です。
宗教とは「心の世界」の出来事を実社会と結びつける「哲学の世界」。通夜や告別式や墓は死者と死者の関係者を永久に結びつける「心の世界」の会話。私のこれまでの見聞に拠れば、菩提寺は、檀家数が500戸以上なければ、独立事業として、経営できず、300戸では兼業しなければ成立しない。残念なことに、日本の菩提寺の80%は、独立事業として、経営的に成立しない。檀家が菩提寺の定期的な祈祷会などへの出席率は、1-2%と、極めて低く、檀家の大部分は、無関心。世界の宗教信者の33 %は、キリスト教信者だが、世界的に見ても、日本ほどキリスト教信者(日本の宗教信者の1.5 %)の少ない国はなく、異常な社会現象。歴史的にくり返された弾圧の後遺症がトラウマとして残っているためである。
釈迦牟尼(世の中では、釈迦とか仏と呼ばれ、仏門に入っている関係者は、釈尊と呼ぶ)は、生存中、死後の世界のことについては、一切、触れておらず、「無記」とされている。釈迦牟尼の死後、弟子たちにより、拡大解釈され、仏教聖典が体系化され、輪廻転生や霊などの「心の世界」が補足されたが、それらは、「無記」それらは、宗教の「心の世界」として、受け止めれば良いこと。肯定したい人は肯定し、否定したい人は否定すれば良く、絶対的な判断基準は、ない。
日本では、昔から、成功した人たちが立派な墓を設け、歴史的にその存在を誇示してきたが、欧米では、特に、米国では、広い芝生の中に、小さな区画を設け、縦横幅50 cm×50 cm×10 cmくらいの石碑を設けているだけ。歴代大統領でもそのくらい。菩提寺では、定期的に管理されていない墓は、無縁仏として、問答無用で、墓は撤去され、跡地は、転売される。少子化と人口減の中で、無縁仏が増加し、いま、社会問題になっており、そのような社会背景と多様な価値観の中で、墓の設け方も多様化している。自然葬(海への散骨や記念樹木の根本に納骨する樹木葬など)も、法的な整備がなされ、社会に、徐々に、社会に、受け入れられている。
私は、上記のような経緯で、曹洞宗を選択した。曹洞宗ではすべてのことが修行。私は、一日中、修行服の作務衣で過ごしている。禅宗の基本は座禅。禅宗でも臨済宗と曹洞宗では作法が異なる。壁に背を向けるのが臨済宗で、壁に向き合うのが曹洞宗。座禅する時には、目を開いて、斜め下を向き、何も考えず、悟りの「空」の世界に入る。座禅時間は、連続1時間、数時間、1日、数日、10日と、いろいろで、自身の修行の目的で異なり、自由に設定できる。私は、最長、連続10日間、過ごした。座禅の時には、食事は自由だが、私は、修行のため、水以外は、口にしない。10日間、水だけで過ごす。ですから、山で遭難しても、木の葉の上の雨露だけで、10日間、生き延びることができます。3日すぎると空腹を感じ、4日目には、それが普通と考え、楽に過ごせる。
以上の事実関係を基にした具体的な実施内容
1日目
(初級コース、世界宗教と民族宗教)10:00-11:00
「比較宗教学」(フィールドワーク含む)11:00-12:00
「宗教社会学」(フィールドワーク含む)12:00-13:00
偕楽園散歩13:00-14:00
ユダヤ教(フィールドワーク含む)14:00-15:00
ヒンドゥー教15:00-16:00
仏教(フィールドワーク含む)16:00-17:00
キリスト教(フィールドワーク含む)17:00-18:00
質疑応答
2日目
(中級コース、仏教各宗派)10:00-11:00
天台宗 11:00-12:00 真言宗12:00-13:00
偕楽園散歩13:00-14:00
浄土宗14:00-15:00
浄土真宗 15:00-16:00
曹洞宗(フィールドワークや臨済宗との相違点も含む)16:00-17:00
日蓮宗17:00-18:00
質疑応答
3日目
(上級コース、研究分野)10:00-12:00
宗教学に基づく「千寺巡礼」(国内外200施設訪問、継続中)の心の世界12:00-13:00
偕楽園散歩13:00-15:00
宗教学に基づく「巡礼登頂」(国内外80峰達成、継続中)の心の世界15:00-16:00
研究テーマへの視点(ショアの歴史構造、イスラエル/パレスチナ問題、ユダヤの核/イスラームの核)16:00-16:30
質疑応答
(3)担当者 桜井 淳(曹洞宗僧侶)(4)配布資料 桜井論文配布。(5)応募資格 宗教学全体に関心を持っている者(原則としてM1以上、大学院生歓迎)。(6)定員 20名(7)参加費 30000円(1日10000円で特定の日を選択可。セミナー開催後、1ヵ月以内に指定口座に振り込み)。
7)「研究レベルの哲学セミナー」
(1)主催 桜井淳水戸事務所(代表 桜井 淳)
(2)実施概要 このセミナーは、大学の一般教養の哲学の教科書や啓蒙書の哲学の内容ではなく、各時代の一次資料に遡った研究レベルの内容。そのため、一次資料の厳密な解釈が中心。
初級コース
10:00-12:00 テーマ1
昼休みには偕楽園公園を散歩
13:00-16:00 テーマ2
16:00-16:30 自由討論
中級コース
10:00-12:00 テーマ3
昼休みには偕楽園公園を散歩
13:00-16:00 テーマ4
16:00-16:30 自由討論
上級コース
10:00-12:00 全体的な自由討論1
昼休みには偕楽園公園を散歩
13:00-16:30 全体的な自由討論2
(3)担当者 桜井 淳
(4)配布資料
(5)応募資格 哲学に興味を持っている者(原則としてD1以上、大学院生歓迎)。
(6)定員 5名
(7)参加費 30000円(初級や中級や上級だけ選択することもできる。セミナー開催後、1ヵ月以内に指定口座に振り込み)。
8)「偕楽園公園四季自然探索セミナー」
(1)主催 桜井淳事務所(代表 桜井 淳)
(2)実施概要 四季の偕楽園公園(市街地隣接公園として世界第2位の面積。偕楽園公園とは、楽園・千波湖、・千波公園・桜山公園からなる周囲7 kmの複合公園)の自然を楽しむ。

(3)担当者 桜井 淳
(4)配布資料 弘道館と偕楽園と千波湖の歴史的経緯
(5)応募資格 特になし
(6)定員 20名
(7)参加費 10000円(セミナー開催後、1ヵ月以内に指定口座に振り込み)
(8)注意点 広さを実感していただくための企画で、約7 km歩くため、大部分の人たちが、「きつい」と言う。
9)「登山・トレッキングセミナー」
(1)主催 桜井淳水戸事務所(代表 桜井 淳)
(2)実施概要 経験を基に数百枚の写真を示して登山・ロック&アイスクライミング・トレッキング・ハイキングの楽しさを語る。
1)協力いただいている個人・組織
①日本アルプスなど登山歴40年の出版社役員1名(A)・身内1名(B)、
②日本アルプスなど登山歴20年の大学教員(C)、
③日本アルプスなど登山歴10年(オーストリアに2年間生活し、フランスのシャモニー・モンブランでスキーなど経験)の会社役員(D)、
④南米(アコンカグア6970 m、オホスデルサラド6800 m)、スイスアルプス(モンブランなど)、ヒマラヤ(8000 m級世界14峰のひとつのダウラギリ1峰)など世界の最高峰の登山歴22年の会社員(E)、
⑤カトマンドゥ在住の山岳ガイド(2013.5、エベレスト登頂者。私の2013.11-12のエベレスト街道とカラパタール登山、 2014.4-5のメラピーク登山の山岳ガイド。)
⑥登山装具の機能と選択については好日(こうじつ)山荘銀座店(JR有楽町駅近くのマリオンと道路挟んで斜め合い向かいにある阪急ビルの4F。ただし、ビル改装にともない、2012年10月から、すぐ近くのビルに移転)。
⑦一般的な登山情報については、スイス山岳ガイド事務所、カトマンドゥ山岳ガイド事務所、日本山岳会(非会員)などから得ている。

2)基本的装備
以下の装備はザックの標準的な中身。これは、誰も同じで、教科書どおりである。いまのところ、一部の登攀写真は、ごく親しい人たち(大学やマスコミ)とのやり取り、それに、講演やセミナーを除き、一般的には公開しておらず、すべて、著書で示している。著書で体系化して示すのがいちばん良いと考えている。
①夏山(2泊3日)
夏山登山服装一式、その他、以下のとおり。
(a)ザックとザック雨具カバー
(b)雨具上下
(c)雨傘
(d)ツェルト、テント
(e)エアマットか断熱材、シュラフ、シュラフカバー
(f)ヘッドランプ
(g)サングラス
(h)防寒服上下(ネックウォーマー含む)
(i)スパッツ
(j)下着上下数着
(k)厚手靴下数足
(l)タオル
(m)手袋
(n)ミネラルウォーター2ℓ2本
(o)ストック、ピッケル
(p)地図
(q)筆記用具
(r)携帯電話
(s)登山用時計(時計・気温・天候・気圧・方位・標高など表示)
(t)アーミーナイフ
(u)デジカメ
(v)リップクリーム&日焼け止めクリーム&緊急医薬品
(w)身分証明書
(x)健康保険証
(y)コッヘル
(z)バーナー
(aa)Jack Daniel'sとballntine's(登山前後のみだけで、登山中禁止)
(bb)つまみ数種(登山前後のみだけで、登山中禁止)
(cc)サーモス
(dd)ロールペーパー
(ee)ごみ袋
(ff)ハーネス(カラビナ、ヌンチャク、ナチュラルプロテクションなどガチャガチャ一式付)、ユマール
(gg)ナイフブレード型ハーケン15個
(hh)ハーケン打ち込み用ハンマー
(ii)ザイル 25m1本
(jj)スリング数本
(kk)非常食数日分(カロリーメイトやドライフルーツなど)
(ll)通常の三度の食事数日分(日本茶、紅茶、野菜ジュース2ℓ1本、味噌汁、コンソメ、梅干、ライス、決まりきった温めるだけのレトルトパック製品が数種類)
(mm)紙コップ・皿・はし・スプン・楊枝(はし代わり)(nn)世界8000m級14座の場合にはこの他に特別なテントなど特殊装備(ベースキャンプに1ヵ月分の生活物資)、血中酸素濃度を測定できる小型パルスオキシメータ(普通90%、60%以上が目安値、30%以下だと死亡)(oo)予備品(靴ひも、バーナー用燃料、登山時計用電池、ヘッドランプ用電池)(pp)新聞紙数部
②冬山(夏山装備の他、2泊3日)
冬登山服装一式、その他、以下のとおり。
(a)防寒用帽子
(b)12本刃アイゼン
(c)ゴーグル
(d)目出し帽
(e)厚手防寒手袋&インナー手袋
(f)アックス1組
(g)アイススクリュー15個
(h)ピッケル
(i)雪用スパッツ
(j)世界8000 m級14座の場合にはこの他に特殊装備(ベースキャンプに1ヵ月分の生活物資)
これまでの経験(国内外80峰登頂)を基に、以下のように、実施内容を体系化。
初級コース
10:00-11:00 基本的装備・登山知識(夏山、雪山)
11:00-12:00 里山登山(300-600 m級)
昼休みには近くの偕楽園を散歩
13:00-14:00 奥日光登山2000-2500 m級)
14:00-15:00 八ヶ岳登山(2500 m級)
15:00-16:00 北・南アルプス・富士山雪山登山(3000 m級)
16:00-16:30 質疑応答
中級コース
10:00-11:00 スイス登山
11:00-12:00 フランス登山
昼休みには近くの偕楽園を散歩
13:00-14:00 ヒマラヤ登山1(カラパタール5545 m)
14:00-15:00 ヒマラヤ登山2(メラピーク6645 m)15:00-16:00 ヒマラヤ登山3(8000 m級、2014.12現在、まだ、未完)
16:00-16:30 質疑応答
上級コース
10:00-11:00 ロック&アイスクライミング基本的装備と知識
11:00-12:00 ハーケンやアイススクリュウの打ち方
昼休みには近くの偕楽園を散歩
13:00-14:00 ゲレンデ(ロッククライミングは三ツ峠山、アイスクライミングは雲竜渓谷)
14:00-15:00 北岳バットレス・谷川岳
15:00-16:00 欧州三大北壁(マッターホルン、アイガー、グランドジョラス、2014.12現在、調査登山中)
16:00-16:30 質疑応答
高山植物・野生動物コース
10:00-11:00 奥日光での発見
11:00-12:00 八ヶ岳・北アルプス・南アルプスでの発見
昼休みには近くの偕楽園を散歩
13:00-14:00 スイス・フランスでの発見
14:00-15:00 エベレスト国立公園での発見
15:00-16:00 マカル国立公園での発見
16:00-16:30 質疑応答
(3)担当者 桜井 淳
(4)配布資料 コピーは許可しないが、パソコン画面で、国内外の登山や高山植物・野生動物の数百枚の写真を表示。
(5)応募資格 登山やトレッキングや高山植物・野生動物に興味があり、将来、国内外での登山を計画している人(国内登山経験者歓迎)。
(6)定員 20名
(7)参加費 40000円(いずれかのコースのみ選択可能。セミナー開催後、1ヵ月以内に指定口座に振り込み)
10)「千寺巡礼セミナー」
(1)主催 桜井淳事務所(代表 桜井 淳)
(2)実施概要
まだ、目標とする1000寺院には及ばず、200寺院に留まるが、これまでの調査を体系化。
10:00-11:00 京都・奈良寺院など
11:00-12:00 欧州カテドラルなど
昼休みには近くの偕楽園を散歩
13:00-14:00 米国教会など
14:00-15:00 カトマンドゥ、エベレスト街道・マカル街道沿いの寺院など
15:00-16:00 シンガポール、バンコク、ドバイ、ホンコンなど
16:00-16:30 質疑応答
(3)担当者 桜井 淳
(4)配布資料 コピーは許可しないが、パソコン画面で、国内外寺院などの数百枚の写真を表示。
(5)応募資 宗教学の研究をしている院生(原則として院生)。(6)定員 5名
(7)参加費 10000円(セミナー開催後、1ヵ月以内に指定口座に振り込み)
11)「哲学セミナー」
(1)主催 桜井淳水戸事務所(代表 桜井 淳)
(2)実施概要 哲学の教科書の体系は、素人でも理解でき、誰でもそのような内容を掲げる。しかし、そのようなものには、オリジナリティがない。私の考えていいる哲学の体系は、単純な教科書の体系の解説ではなくて、研究分野のキーワード「ユダヤ人」「ユダヤ教」に焦点を当てた哲学の体系化。
10:00-11:00 「旧約聖書」(「脱エジプト記」)
11:00-12:00 ユダヤ教(トーラーと規律)
昼休みには近くの偕楽園散歩
13:00-14:00 マルクス「資本論」(社会制度と経済メカニズムの体系化)
14:00-15:00 スピノザ「宗教論」(神の定義)
15:00-16:00 アインシュタイン「相対論」(時空概念)
16:00-16:30 質疑応答
(3)担当者 桜井 淳
(4)配布資料 桜井論文配布
(5)応募資格 宗教学の研究をしている院生(原則として院生)
(6)定員 5名
(7)参加費 10000円(セミナー開催後、1ヵ月以内に指定口座に振り込み)
12)「高層ビル論セミナー」
(1)主催 桜井淳水戸事務所(代表 桜井 淳)
(2)実施概要

これまで、世界の高層ビルに行き、設計と出来栄えの調査をしてきた。そして、いつも、そこのレストランで、一杯飲み、食事をしてきた。
完成したビルだけでなく、建設中のもの最上階にも入った。
日米の高層ビルについては、飽きるほど見ており、上海のそれらの代表的なものについても見た。
世界の現状を把握するため、改めて、2016年1月から、シンガポール、バンコク、ドバイ、ホンコンも調査。ドバイでは、砂漠の中に、超高層ビルからなる大きな現代都市を建設しており、まだまだ、建設中だが、すべて、たとえば、「カリファ」のように、世界最大級であり、すべて新しく、気持ちよいほどの世界。
世界の建設中の高層ビルの約60%は、中国国内で建設されており、米国は、比較的少なく、欧州では、まれなほど。
世界で建設中の高層ビルの種類を分析してみると、日本のような地震国から見て、意外と思えるのは、鉄骨方式と鉄筋コンクリート方式が半々であること。ドバイでは鉄筋コンクリート方式の現場をいくつも見た。
日本のような大きな地震の頻発する国では、鉄筋コンクリート方式の高層ビルは、建設できない。地震によって、コンクリート壁や構造材に、亀裂が入ったり、壊れてしまうため。
日本の高層ビルの耐震設計では、五重塔の耐震設計の考え方、すなわち、地震に逆らわずに、揺れに任せ、柳に風方式で、地震エネルギーを減衰させる方法が、採用されている。しかも、最上階が最大揺れ振幅になるのではなく、竹の節のように、一定間隔で、特定の階が支点になるようになり、揺れ振幅が小さくしてあり、全体としての振幅が、小さくなるように設計されている。
地震の頻発する国で建設される鉄骨方式の高層ビルでは、構造材をボルト締めしないで、要所を溶接しているのは、エンジニアリング的に言えば、減衰定数を大きくするため。ボルト締めでは、ボルトと構造材が滑って、なかなか、揺れが収まらない。
高層ビルでは、照明や動力源として、信号ケーブルや電力ケーブルをものすごく多く利用しており、施工時に、手抜きをしなくても、ごく普通レベルの従事者が施工したとしても、偶発的に、配線に傷がついたり、不適切な施工がされることがあり、そこが発端となり、過熱して、火災の原因となることもあり、そのようなことは、完全に回避することは、できない。
世界に存在する高さ100 m以上の区域別の高層ビルの数は、2012.9.30現在、シンガポール86、ドバイ246、ホンコン289(ホンコン島とクーロン南部)、マンハッタン392です。
以上のような約30年間にわたる調査を基に、次のようなレクチャーを実施。
10:00-11:00 ニューヨーク(マンハッタン)、アトランタ、サンフランシスコ11:00-12:00 シンガポール
昼休みには近くの偕楽園散歩
13:00-14:00 バンコク
14:00-15:00 ドバイ
15:00-16:00 シャンハイ、特別行政区ホンコン、特別経済区シンセン
16:00-17:00 東京
17:00-17:30 質疑応答
(3)担当者 桜井 淳
(4)配布資料 桜井論文配布
(5)応募資格 建築学や高層ビルの研究をしている院生(原則として院生)
(6)定員 5名
(7)参加費 10000円(セミナー開催後、1ヵ月以内に指定口座に振り込み)
第十七章 世界千寺巡礼・巡礼登山時代
小中高校生は、修学旅行で、京都府や奈良県の多くの寺院などを見学するが、私は、それらの昔の写真を保存していない。それどころか、32歳の時の欧州一周旅行で、各国の寺院、特に、中世に建てられた歴史的カテドラルの写真さえ、失くしてしまった。42歳以降、仕事で、世界各国へ行く機会があり、多くの歴史的建造物や寺院の写真を撮影したにもかかわらず、代表的な物しか残っていない。63歳から、東大大学院で、宗教学の研究を始めた時、失われた写真や情報の貴重さに気づき、涙し、当時、週一回の割合で、京都府や奈良県の寺院巡りをし、日帰り、そのようなことを何度もくり返し、写真を増やした。
私は、世界の宗教施設(寺院など)を対象に、見学・調査の「世界千寺巡礼」を実施中である(note本欄バックナンバー記事・写真参照)。これまで、17ヵ国数百箇所、順に、日本、デンマーク、フランス、スペイン、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、イタリア、ロシア、米国、中国、韓国、台湾、ネパール、タイ、シンガポール、ドバイなど。特に、印象に残るのは、スペインのバルセロナ郊外にあるサグラダ・ファミリア(聖家族教会)とカテドラル(大聖堂、ラテン語のEcclesia cathedralisに由来、一般論としての建築様式は、中世のロマネスクかゴシック、その地域の文化や歴史を象徴する重要な建築物、収容人員約3000人)、その他、各国のカテドラル。
スイスのチューリヒ湖から流れ出るリマト川の市街地の両岸には、中世に建造されたカテドラルが、三つあり、川の下流に向かって、左手に、フラウミュンスター(Frau-munster、聖母教会、収容人員約1000人)と聖ぺータ教会(St.Peter-kirche、収容人員約1000人、聖ぺータ教会の対岸に、グロスミュンスター(Gross-munster、大聖堂、収容人員約3000人)があり、観光客が少ない時には、法座の隣に立ち、目をつむり、約30分間、もし、説教の機会を頂けたならば、心で想定した1000人の信者の前で、話すことを口ずさむ。
私は、63歳以降、「世界千寺巡礼」のみならず、「巡礼登山」(拙著『世界百峰巡礼登頂ー巡礼登山家の視点ー』、論創社(2018))も実施してきた。



第十八章 社会的業績時代
私は、45年間、物理学者(34歳で理博)・技術評論家。単著・共著・編著・翻訳・監修57冊(単著37冊)。欧米日学会論文誌原著論文・国際会議論文計50編。テレビニュース出演約350回(録画済み)。講演約200回。42歳から流行作家並みの執筆。63歳で曹洞宗在家雲水。趣味は登山(著書1冊)や写真など。
国内外のマスコミ媒体(主に、新聞や月刊誌や週刊誌など)への記事やインタビューで貢献した回数は、約3000回、日本の全国紙の記事に氏名と顔写真が掲載された回数は、約500回、全国紙の一面に、氏名が掲載された回数は、約20回(掲載記事切り抜き保存済み)。
欧米渡航回数は、約50回、そのうちの約10回は、自費であり、他は、所属組織からの業務出張、テレビ局取材班ゲスト出張、米大学からの依頼出張など。
日本原子力学会原子炉照射線量評価研究専門委員会委員、同遮蔽研究専門委員会委員、同原子炉熱流動研究特別委員会委員、同モンテカルロ研究専門委員会主査(2006.9-2010.8)、同未臨界研究専門委員会主査(2007.10-09.8)。
在野で独自の論理に基づき仕事をするに当たり、不都合が生じないようにするため、意識的に、行政側と一定の距離を保ってきました。これまで例外が5件ありました。1件目は、1995年に、政府の内閣安全保障室に協力したこと、2件目は、1996年に、科学技術庁主催の原子力政策円卓会議に協力したこと、3件目は、1998年に、島根県原子力発電安全性評価委員会に協力したこと、4件目は、2000年に、自治省、5件目は、2001年に、参議院経済産業委員会に協力したことです。
いまは、本業の他、兼職として、2015年以降、静岡県知事から任命された静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会委員(静岡県HPの同分科会会合議事録参照)、2009年8月以降、茨城新聞社社長から任命された茨城新聞社客員論説委員(担当社説「時論」欄)。
日本の代表的な大学や研究機関の図書館には、私の著書が、10-20冊採用され、閲覧できるようになっており、具体的には、茨城県立図書館には、25冊も閲覧でき、茨城県在住の学者の中では、実力はともかく、著書の数だけならば、トップである。
東京理科大学の全学部と全大学院の卒業生約10万人の中で、70人の有名人のひとりに入っており、物理部門では、20人のひとりに入っている。同大広報課長から、「論文や記事の経歴で、東京理科大学のイメージアップに貢献したことに感謝」なる手紙を受けたことがある。
AI検索での私の社会的評価は次のようになっている。
「桜井淳さんは、日本の物理学者であり、技術評論家として広く知られています。彼の社会的評価は、非常に高く、特に、原子力発電所の事故や故障の分析において、多くの貢献をしています。また、鉄道や航空機の事故についても言及しており、幅広い分野での評論活動が、評価されています。桜井さんは、テレビ出演や雑誌・新聞記事での評論活動を通じて、技術の安全性や社会的影響についての意見を発信してきました。桜井さんの著作や論文は、技術の安全性向上に寄与するものとして高く評価されています。桜井さんの公平性を重視した姿勢や、多様な視点からの評論は、多くの人々から信頼されています。また、彼の研究や評論活動は、社会的な問題に対する深い洞察と分析力を示しており、その影響力は大きい。」
第十九章 福島第一原発事故後に執筆した関係特集論文119編や著書17冊など時代
(01)「軽視された津波の影響」、「東京新聞」文化欄、2011.3.15、中日新聞社。
(02)「速報 / 東日本大震災、福島原発の連鎖事故-システムとしての安全確保に不備-」、「日経ものづくり」2011年4月号、日経BP社。
(03)「世界に衝撃を与えた福島原発事故-原子力エネルギーを放棄すべきか-」、「週刊エコノミスト」、2011年3月29日号、毎日新聞社。
(04)「特別企画 / 東日本大震災」の衝撃「問われる危機管理なき「原発事故」の責任」、「潮」、2011年5月号、潮出版社。
(05)「特集3.11と日本の運命/安全を根底から吹き飛ばした福島原発の爆風」、「中央公論」、2011年5月号、中央公論新社。
(06)「特集 / 電気がない!」「福島原発事故の教訓 / 原発安全審査の空洞化が大事故を招く危険が増している」、「週刊エコノミスト」、2011年4月19日号、毎日新聞社。
(07)「チャム・ダラスと桜井淳対談 / 「暴走原子炉」のバケの皮を剥ぐ!」、「週刊文春」、2011年4月21日号、文藝春秋社。
(08)「特集恐怖のシミュレーション / 一体、福島原発はどうなるのか」、「新潮45」、2011年5月号、新潮社。
(09)「特集事故は語るシリーズ / 福島連鎖事故の真相に迫る」、「日経ものづくり」、2011年5月号、日経BP社。
(10)「著者インタビュー / 原発のどこが危険か」、「アジア時報」、2011年5月号、アジア調査会。
(11)「原子力施設設置基準-根本的な見直し急務」、「茨城新聞」、2011年3月17日、茨城新聞社。
(12)「時論/福島第一原発事故/軽水炉に根源的危険」、「茨城新聞」、2011年4月3日、茨城新聞社。
(13)「東大・原研研究者は総辞職し、500人の安全審査機関を作れ」、「サンデー毎日」、6月12号、毎日新聞社。
(14)「事故は語るシリーズ / 「構造的欠陥が招いた原発事故-官民もたれ合いの原子力開発-」、「日経ものづくり」、2011年6月号、日経BP社。
(15)「特集激論! 「原発は必要か?」「「福島第一原発」危険度と収束時期」、「リベラルタイム」、2011年6月号、リベラルタイム。
(16)「特集暴走する国策エネルギー原子力/安全規制「空洞化」の代償、古い炉は積極的に停止を」、「週刊東洋経済」、2011年6月11日号、東洋経済新報社。
(17)「ウソと放射能を垂れ流す東京電力に「公開質問状」」、「週刊文春」、2011年6月23日号、文藝春秋社。
(18)「時論 / 福島第一原発事故/ゼロから問題提起を」、「茨城新聞」、2011年7月3日、茨城新聞社。
(19)「特集経済白書/原発事業に未来はあるか」、「中央公論別冊」、2011年8月号、中央公論新社。
(20)「東京電力「35年の堕落!」」、「週刊文春」、2011年9月8日号、文藝春秋社。
(21)「ストレステストによる安全確認は幻想だ」、「サンデー毎日」、2011年10月2日号、毎日新聞社。
(22)「時論 / 福島第一原発事故/残る情報の不確実性」、「茨城新聞」、2011年12月18日、茨城新聞社。
(23)「失敗学・畑村委員会の「失敗」」、「サンデー毎日」、2012年2月5日号、毎日新聞社。
(24)「原子力規制庁を新設しても本質的な欠陥は変わらない」、「週刊エコノミスト」、2012年2月14日号、毎日新聞社。
(25)「原子力規制の隙間 / 軽視されていた専門性と独立性」、「日経ものづくり」、2012年3月号、日経BP社。
(26)「原子力規制はいかにあるべきか-原子力規制庁への緊急提言-」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI Tech-On !」、2012年3月12日から4回連載、日経BP社。
(27)「特集30年前と30年後/廃炉には50年はかかる」、「新潮45」、2012年5月号、新潮社。
(28)「掲載記事へのコメント/4号機プールへの注水が大惨事を防いだ」、「第三文明」、2012年6月号、第三文明社。
(29)「特集電力競争時代/原子炉冷却が止まれば再臨界に 核燃料の回収作業も前途多難」、「週刊エコノミスト」、2012年5月22日号、毎日新聞社。
(30)「特別企画 / 大飯原発の「安全性」を問う」、「潮」、2012年7月号、潮出版社。
(31)「緊急提言 / フクシマ「放射能大拡散」の意外な"犯人"」、「サンデー毎日」、2012年6月17日号、毎日新聞社。
(32)「事故は語るシリーズ / 福島第一原発事故の疑問を解く-放射性物質漏洩ルートはここだ-」、初稿「福島第一原発 事故苛酷炉心損傷事故時の最後の命綱の原子炉格納容器の安全性」の二分一編集短縮版、「日経ものづくり」、2012年7月号、日経BP社。
(33)「時論 / リスク社会の危機管理/欧米よりも劣る能力」、「茨城新聞」、2012年7月1日、茨城新聞社。
(34)「東電「撤退」問題を考える」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI Tech-On !」、2012年7月5, 6日連載、日経BP社。
(35)「福島第一原発事故の疑問を解く」、初稿「福島第一原発事故 苛酷炉心損傷事故時の最後の命綱の原子炉格納容器の安全性」のオリジナル版、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI Tech-On !」、2012年7月29, 30, 31日連載、日経BP社。
(36)「事故は語るシリーズ/福島原発事故調査報告書に誤り」、「事故調査はいかにあるべきか-その範囲と論証法-?-福島第一原発の事例研究 / 四つの事故調査報告書の欠陥を正す-」の短縮版、「日経ものづくり」、2012年9月号、日経BP社。
(37)「事故調査はいかにあるべきか-その範囲と論証法-?-福島第一原発の事例研究/四つの事故調査報告書の欠陥を正す-」のオリジナル版は今年中に刊行される日経ものづくり編集部編『事故の事典Ⅱ』(共著)に収録。
(38)「時論/事故調査報告書 / 社会的背景にまで迫れ」、「茨城新聞」、2012年9月9日、茨城新聞社。
(39)事故に学ぶ/現場に意志決定権を、原題「事故終息の優先権は誰に委ねるべきか?-福島第一原発事故の事例研究-」、「日経ものづくり」、2012年11月号、日経BP社。
(40)「プロジェクト論 / 技術開発論 原子力プロジェクト失敗の原因と教訓」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI Tech-On !」、日経BP社。
(41)「東電と事故調が見逃した欠陥事項」、近日刊行。
(42)「事故調査はいかにあるべきか?-検討範囲と論証法/福島第一原発の事例研究-」、科学技術社会論学会第11回研究大会研究発表(総合研究大学院大学、2012年11月16-18日)。この学会では11回開催中5回目の研究発表です(2000年半ばから連続して発表しています)。(以下、青文字表示は、一般読者を対象とした評論文ではなく、学術関係を意味します。)
(43)「時論 / 原発事故解析 / 炉心溶融は回避できた」、「茨城新聞」、2012年12月23日、茨城新聞社。
(44)「原発はテロに耐えられるか/新安全基準も万全には程遠い」、「週刊エコノミスト」、2013年3月26号、毎日新聞社。
(45)「特集3原発「新安全基準」を検証する」、「日経ものづくり」、2013年3月号、日経BP社。
(46)「特集3待ったなしの原発テロ対策」、「日経ものづくり」、2013年4月号、日経BP社。
(47)「時論 / 原発新規制基準/低確率事象に対策を」、「茨城新聞」、2013年5月26日、茨城新聞社。
(48)「特集原発再稼動の死角 / 原発テロ対策の虚構」、「サンデー毎日」、2013年8月4日号、毎日新聞社。
(49)「事故は語る / 民間依存の改革案ではもんじゅは再生できない」、「日経ものづくり」、2013年10月号、日経BP社。
(50)「時論 / 規制委の構造的欠陥/安全解析能力に疑問」、「茨城新聞」、2013年11月3日、茨城新聞社。
(51) 「日本の原子力開発の病理 / 原子力プロジェクトはなぜ失敗したのか-失敗の原因と教訓-」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI Tech-On !」に、2013年11月8,12,15日連載、日経BP社。
(52)「時論 / 優先すべき予防原則 / 東海第二原発、廃炉に」、「茨城新聞」、2014年3月9日、茨城新聞社
(53)「事故は収束している / 福島第一原発の今を視察」、編集部により全文6p.を2p.に編集した概要版、「日経ものづくり」、2014年6月号(6月1日発売)、日経BP社。
(54)「事故は収束している/福島第一原発の今を視察」、全文6p.、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI Tech-On !」、2014年8月18, 21, 25, 28日連載、日経BP社。第1回:被曝防止マスクを付けて施設内部に 2014年8月18日、第2回:使用済み燃料を共用プールへ移送 2014年8月21日、第3回:地下水が流入する原子炉建屋 2014年8月25日、第4回:粛々と進む作業 2014年8月28日。
(55)H26年度第1回(4月15日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会詳細議事録における問題提起(静岡県HP参照)。
(56)「「吉田調書」から見えてきた事故対応の致命的欠陥」、「週刊エコノミスト」、2014年7月8日号、毎日新聞社。
(57)「新基準対応進む浜岡原発 / 工事の進捗を現地で見る」、編集部により全文6p.を2p.に編集した概要版、「日経ものづくり」、2014年9月号、日経BP社。
(58)「時論/原子力発電所 / 本格的な廃炉時代へ」、「茨城新聞」、2014年8月17日、茨城新聞社。
(59)H26年度第1回(8月6日開催)静岡県防災・原子力学術会議地震/火山分科会原子力分科会合同会合詳細議事録における問題提起(静岡県HP参照)。
(60)H26年度第1回(9月11日開催)静岡県防災・原子力学術会議津波分科会原子力分科会合同会合詳細議事録における問題提起(静岡県HP参照)。
(61)「新基準対応進む浜岡原発 / 工事の進捗を現地で見る」、全文6p.、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI Tech-On !」、2014年12月7, 14, 21日連載、日経BP社。
(62)「時論/東海第二原発住民説明会 / もっと時間をかけ深い議論を」、「茨城新聞」、2015年2月1日、茨城新聞社。
(63)「原子力技術者の先見性と後進性」、第1回 知識の不確実性 2015.9.4, 第2回 分析甘い学会事故調の報告書 2015.10.23, 第3回 苛酷炉心損傷事故炉の廃炉に向けて 2015.12.22、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI Tech-On !」、日経BP社。
(64)「女川原発新規制基準対応工事分析」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI Tech-On !」、2016年?月?日連載、日経BP社。
(65)「時論/県立図書館の評価/盗難防止機器 改善を」、「茨城新聞」、2015年7月5日、茨城新聞社。
(66)H27年度第1回(9月1日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合詳細議事録における問題提起(静岡県HP参照)。
(67)「時論 / 高速増殖炉「もんじゅ」 / ゼロから問題検討」、「茨城新聞」、2016年1月17日、茨城新聞社。
(68)H27年度第2回(2月9日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合詳細議事録における問題提起(静岡県HP参照)。
(69)「時論 / 原子力機構の評価 / 予算人員半減の功罪」、「茨城新聞」、2016年6月19日、茨城新聞社。
(70)「福島原発事故 1F1-3格納容器温度情報の欠陥 放射能漏洩経路の不確実性(上、下)」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI Tech-On !」、2016年10月27, 31日、日経BP社。
(71)「時論 / 「もんじゅ」廃炉へ / 国際協力で情報の共有へ」、「茨城新聞」、2016年11月20日、茨城新聞社。
(72)「もんじゅ」廃炉の背景に動燃 組織を腐らせた遠因(上)、追加設計が事故を招く(下)」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI Tech-On !」、2017年2月15-16日、日経BP社。
(73)H27年度第3回(2017年3月24日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合詳細議事録における問題提起(静岡県HP参照)。
(74)「時論 / 原子力防災訓練 / 広域住民参加が課題」、「茨城新聞」、2017年5月7日、茨城新聞社。
(75)「管理されていなかった26年前のプルトニウム」、「日経ものづくり」、2017年8月号、日経BP社。
(76)「時論 / 原子力施設廃止措置 / 事故炉解体阻む難題」、「茨城新聞」、2017年10月8日、茨城新聞社。
(77)H29年度第1回(2018年1月15日開催)静岡県防災・原子力学術会議本会・経済性評価専門部会・原子力分科会合同会合詳細議事録における問題提起(静岡県HP参照)。
(78)H29年度第2回(2018年2月15-16日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会による静岡県原子力防災訓練の視察。
(79)「原発再稼働に欠落している苛酷事故対応能力」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI Tech-On !改題して、NIKKEI x-Tech(クロステック)」、2018年3月14日(前半), 28日(後半)、日経BP社。
(80)「時論 / 福島原発事故から7年 / 人材対策に目向けよ」、「茨城新聞」、2018年3月25日、茨城新聞社。
(81)「浜岡原発に見る日本の原子力防災の課題」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI xTech」、2019年1月9日、日経BP社。
(82)「時論 / 変革期の技術 / 脱原子力後の技術群」、「茨城新聞」、2019年1月20日、茨城新聞社。
(83)H30年度第1回(2019年2月5-6日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会による静岡県原子力防災訓練の視察。
(84)「時論 / 原子力防災 / 広域避難の訓練せよ」、「茨城新聞」、2019年6月16日、茨城新聞社。
(85)「福島第一原発事故に起因する被曝評価の不確実性」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI x-Tech」、2019年?月?日、日
経BP社。
(86)「STS手法による浜岡原発問題に対するフィールドワークスタディ」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI x-Tech」、2019年?月?日、日経BP社。
(87)「談話室 /原子力産業の欺瞞 情報操作のからくりを知ろう 」、「世界」、2019年8月号、岩波書店。
(88)「時論 / 原子力機構/ 廃止措置 確実実施を」、「茨城新聞」、2019年10月27日、茨城新聞社。
(89)R元年度第1回(2020年1月29日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会による静岡県原子力防災訓練の視察。
(90)R元年度第1回(2020年2月4日開催)静岡県防災・原子力学術会議経済性評価専門部会・原子力分科会合同会合出席(静岡県HP参照)。
(91)「時論 / 原発事故避難/ 要配慮者への対策を」、「茨城新聞」、2020年3月22日、茨城新聞社。
(92)「高齢者などの一時避難に有効なエアシェルター」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI x-Tech」、2020年5月29日、日経BP社。
(93)「時論 / 広域避難訓練/ 最後進県から脱却せよ」、「茨城新聞」、2020年3月2日、茨城新聞社。
(94)浜岡原発における社会科学的考察における暫定的評価ノート、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI x-Tech」、2020年?月?日、日経BP社。
(95)「時論 / 福島事故再考/ 社会的欠陥の克服必要」、「茨城新聞」、2020年11月13日、茨城新聞社。
(96)R2年度第1回(2020年12月25日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合(zoomリモート会合)。
(97)中部電力主催特定公募研究ヒヤリング審査会、zoomリモート審査会、2021.2.2。
(98)「桜井淳が斬る 日本の原子力産業 福島第一の汚染水保管 海洋放出への障壁は風評被害」、日経テクノロジーオンライン「NIKKEI x-Tech」、2021年2月16日、日経BP社。
(99)「特集 廃炉メカ 福島第一の汚染水処理問題の実情 迫る時期、立ちはだかる風評被害」、「日経ものづくり」、2021年3月月号、日経BP社。
(100)R3年度第1回(2021年4月26日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合(zoomリモート会合)。
(101)「時論 / 東海第二原発判決/ 効果的な広域避難を」、「茨城新聞」、2021年5月16日、茨城新聞社。
(102)「時論 / 2050の社会/ スマート革命実現を」、「茨城新聞」、2021年9月19日、茨城新聞社。
(103)R3年度第2回(2021年12月22日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合。
(104)R3年度第3回(2022年3月1日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会の作業として浜岡原発緊急時対策訓練の現場調査。
(105)「時論 / 原子力比較論 / 米の強さ、日本の弱さ 」、「茨城新聞」、2022年3月7日、茨城新聞社。
(106)「時論 / 原発事故のリスク / 工学・社会対策で克服 」、「茨城新聞」、2022年6月2日、茨城新聞社。
(107)R4年度第1回(2022年9月5日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合。
(108)「時論 / 原発防災訓練 / 厳しい条件にも備え 」、「茨城新聞」、2022年10月16日、茨城新聞社。
(109)R4年度第1回(2023年2月7日開催)静岡県広域避難訓練(実動訓練見学・調査)。
(110)R4年度第2回(2023年2月10日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合(浜岡原発緊急時訓練見学・調査)。
(111)R5年度第1回(2024年1月12日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会・地震火山対策分科合同会合。
(112)R6年度第1回(2024年9月5日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合。
(113)R6年度第1回(2024年10月28日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会・津波分科会合同会合。
(114)「時論 /原発新規制基準 / 情報・経験 共有を強化 」、「茨城新聞」、2023年3月5日、茨城新聞社。
(115)「時論 /福島第一原発事故/ 経済至上主義 再考を」、「茨城新聞」、2023年7月23日、茨城新聞社。
(116)「時論 /世界の原子力分析/ 米、延長100年も視野 」、「茨城新聞」、2023年12月10日、茨城新聞社。
(117)「時論 /実施可能条件検討を」、「茨城新聞」、2024年4月23日、茨城新聞社。
(118)「時論 /難易度は下、懸念点も」、「茨城新聞」、2024年9月3日、茨城新聞社。
(119)「時論 /茨城県は遅れ取り戻せ」、「茨城新聞」、2025年1月21日、茨城新聞社。
コメント(新聞・テレビ・週刊誌・月刊誌)
福島第一原発事故後約300件。
単行本
(01)新版著書「原発のどこが危険か―世界の事故と福島原発―」、朝日選書、朝日新聞出版、2011年4月。ベストセラー達成。
(02)改訂版監修「原子力事故自衛マニュアル」、災害・事故から生活を守る会著、青春出版社、2011年4月。ベストセラー達成。
(03)増刷著書「原発事故の科学」(学術書)、日本評論社、2011年4月。
(04)著書「原発 安全神話の崩壊」、電子書籍、日経BP社、2011年6月。
(05)著書「福島第一原発事故を検証する―人災はどのようにおこったか―」(学術書)、日本評論社、2011年7月。
(06)著書「原発裁判」、潮出版社、2011年10月。
(07)著書「原子力発電は安全ですか?」、人と仕事シリーズNo.2、論創社、2012年1月。
(08)著書「原発の後始末―脱原発を加速するための条件―」、青春新書、青春出版社、2012年3月。
(09)著書「福島原発事故の科学」(学術書)、日本評論社、2012年4月。福島第一原発事故のみで福島第二原発事故については、改訂版で追加します。
(10)監修「放射能から身を守るQ&A100」、学研、2011年6月。
(11)改訂版監修「原子力事故自衛マニュアル」、災害・事故から生活を守る会著、電子書籍、青春出版社、2012年1月。
(12)日経ものづくり編集部編「事故の事典Ⅱ」(学術書、共著、桜井淳論文8編収録)、日経BP社、2012年11月。
(13)著書「日本「原子力ムラ」行状記」、論創社、(2013.11.15)。
(14)著書「日本「原子力ムラ」惨状記」、論創社、(2014.9.15)。この本は、一般読者を対象としたごく普通の評論文としてまとめたもですが、知り合いの原子力専攻の大学の先生に感想を求めたところ、「専門的知識がなければ的確に解釈できない学術書」と位置づけられました。
(15)著書「桜井淳STS学術論文集 科学技術社会論序説」(東大大学院総合文化研究科での5年間の学術論文集)(論創社、2015年11月刊行)。東大での指導教官および科学技術社会論学会でお世話になった10名の研究者に出版前謹呈済み。
(16)著書「日本「原子力ムラ」昏迷期」、論創社、(2016.5.10) 。
(17)著書「世界百峰巡礼登頂」、論創社、(2018.7.27) 。
編集中
(18)著書「3.11後 福島事故と社会-科学技術社会論の展開-」。
(19)「Sakurai's Nuclear Study Collected Papers」(四半世紀に掲載された日米学会誌掲載論文の中から良い論文を体系化)。
(20)「桜井淳学術哲学論文集」。
(21)「桜井淳原子力技術論」(これまで『日経テクノロジー』『日経ものづくり』『NIKKEI Tech-On ! 』に掲載された学会誌論文レベルの30編の学術論文集)。
第二十章 著書など集中作成時代
単著
1)『これからの原発をどうするか』(電力新報社)(出版半年後に絶版の申し入れを行いました。)
2)『原発の「老朽化対策」は十分か』(日刊工業新聞社)
3)『原発事故学』(東洋経済新報社)
4)『美浜原発事故-提起された問題-』(日刊工業新聞社)
5)『崩壊する巨大システム』(時事通信社)
6)『原発事故の科学』(日本評論社)
7)『新幹線「安全神話」が崩れる日』(講談社)
8)『新幹線が危ない!』(健友社)
9)『原発システム安全論』(日刊工業新聞社)
10)『旧ソ連型原発の危機が迫っている』(講談社)
11)『原発のどこが危険か』(朝日新聞社)
12)『ロシアの核が危ない!』(TBSブリタニカ)
13)『事故は語る-人為ミス論-』(日経BP社)
14)『プルサーマル.の科学』(朝日新聞社)
15)『桜井淳著作集第6巻-星野芳郎との対話-』(論創社)
16)『桜井淳著作集第5巻-安全とは何か-』(論創社)
17)『桜井淳著作集第4巻-市民的危機管理入門-』(論創社)
18)『桜井淳著作集第3巻-科学技術社会論ノート-』(論創社)
19)『桜井淳著作集第2巻-科学技術評論Ⅱ-』(近刊、論創社)
20)『桜井淳著作集第1巻-科学技術評論Ⅰ-』(近刊、論創社)
21)『原発 安全神話の崩壊』、電子出版(日経BP社)
22)『福島第一原発事故を検証する-人災はいかにしておこったか-』(日本評論社)
23)『原発裁判』(潮出版)
24)『原子力発電は安全ですか?』(論創社)
25)『原発の後始末』(青春新書)
26)『福島原発事故の科学』(日本評論社)
27)『日本「原子力ムラ」行状記』(論創社)
28)『日本「原子力ムラ」惨状記』(論創社)
29)『科学技術社会論序説』(論創社)
30)『日本「原子力ムラ」昏迷記』(論創社)
31) 『世界百峰巡礼登頂-巡礼登山家の視点-』(論創社)
その他、
学術書4冊(『原子炉線量評価論』
『人為ミス論』
『核燃料サイクル方法論』
『技術社会構成論』)
共著
1)『原子炉構造材の照射損傷評価と線量測定』(日本原子力学会)
2)『ガンマ線遮蔽設計ハンドブック』(日本原子力学会)
3)『中性子遮蔽設計ハンドブック』(日本原子力学会)
4)『大百科全書』(小学館)
5)『政経セミナー講演録』(JR総連)
6)『現代用語 知恵蔵』(朝日新聞社)(原子力項目を服部学氏から引継いで数年間担当)
7)『中国の環境問題』(新評社)
8)『事故は語る』(日経BP社)
9)『Years of Trial: Japan in the 1990s』(Japan Echo Inc.)
10)『激論! 日本人の選択』(小学館)
11)『新版 環境学がわかる本』(朝日新聞社)
12)『重大事故の舞台裏』(日経BP社)
13)『レールが危ない』(金曜日)
14)CD版『モンテカルロ夏期セミナー』(日本原子力学会)(非売品)
15)CD版『クロストークエネルギー』(電気新聞社)(非売品)
16)『事故の事典Ⅱ』(日経BP社)
監修
1)『原子力事故 自衛マニュアル』(青春出版社)
2)『放射能から身を守るQ & A 100』(学研)
3)『原子力事故 自衛マニュアル』(電子書籍、青春出版社)
監修協力
1)『ハイテク辞典』(主婦と生活社)
編著【学術書】
1)『モンテカルロ計算ガイドライン』(日本原子力研究所)
2)『第1回「モンテカルロシミュレーション」研究会報文集』(日本原子力研究
所)
3)『モンテカルロ法による粒子シミュレーションの現状と課題』(日本原子力学会)
4)『モンテカルロ計算法高度化の現状』(日本原子力学会)
5)『モンテカルロ計算ハンドブック』(日本原子力学会)
6)『原子力工学のためのモンテカルロ粒子輸送理論』(日本原子力学会)
学術翻訳書
著書はあっても、単独での学術翻訳書は1冊もありません。学術翻訳書は、まったくないかと言えば、そうではなく、歴史的な論文の部分訳を担当し、刊行されています。それは、The American Physical Societyが刊行している長文の解説論文を掲載することで世界的に有名な論文誌である
Reviews of Modern PhysicsのVol.47, Supplement No.1 Summer(1975)に掲載された"Report to the APS by the study group on light water reactor safety"の翻訳で、「軽水炉の安全性」(小野周訳)として、講談社から1979年に刊行されています。訳者「あとがき」の最後(307p.)に私が翻訳に協力したことが記されている。印税もいただいている。その翻訳は、私が30歳頃に行ったマスコミ相手の最初の仕事だった。そのため特に印象に残っている。小野周さんは、当時、東大教養学部の教授で理論物理学(熱統計力学)を専攻、定年後、群馬大学長を務めました。
ロシア語訳論文とハングル語訳本
1)ロシア語訳論文 АмомнаЯ мехНцка 3а РУЬеЖОм(1983.11). それはNucl.Instr.Methods,Vol.201,pp. 439-444(1982)の訳。
1993年にNHKスペシャル撮影のためにチェルノブイリ原子力発電所の原子炉と同型(RBMK)の原子炉4基運転中(当時)のクルスク原子力発電所(モスクワ南西約650 km)を訪問した際、ロシア語論文の存在のおかげで(ロシアでも代表的な論文誌であったために、発電所の図書館にバックナンバーがあり)、ガルブレス副所長とリャービン技師長から大歓迎された(「ロシアの核が危ない!」、TBSブリタニカ, 1995)。
2)ハングル語訳本 韓国原子力安全技術院報告書KINS/AR-322(1995). それは「原発のどこが危険か」(朝日選書、1995)の訳。
講演記録
1)一般講演(1988-)
主に経済関係者(たとえば、関西経済倶楽
部等)を対象に約200回(年間約10-20回のペース、しかし、詳細な記録は残していません)。
2)政府関係等講演(1988-)
1内閣安全保障室(講演内容は月刊誌「プレジデント」(1995)に掲載)
2島根県原子力発電調査委員会(島根県原子力発電調査委員会議事録、23p.(1998))
3参議院経済産業委員会(「立法と調査-危機に強い社会を目指して」(2001))
4福島県エネルギー政策検討会(講演内容は「桜井淳著作集第4巻市民的危機管理入門」に収録)
5自治省消防研究所第48回全国消防技術者会議(第48回全国消防技術者会議資料、10p.(2000))
3)学術講演(1988-)
主に大学・産業界関係者を対象に約100回(詳細は「実施している専門家養成のための学術セミナー内容」項参照)。以下、主な配布テキスト(④⑫⑬⑮⑯は分量・内容とも単行本に匹敵する)。
①「原子力安全の原点」、原子力工学試験センター主催「原子力発電施設の安全を求めて-第7回報告と講演の会-」、12p.(1988)
②パネル討論会「原子力プラントの長寿命化と安全確保」、原子力安全研究協会「第24回原子力安全研究総合発表会」、163p.(1991)
③「緊急特別企画-PWR蒸気発生器をめぐる諸問題/急がれる蒸気発生器の抜本的な安全対策への提言」、日本原子力情報センター、31p.(1991)
④「特別企画-原発事故学の体系化」、日本原子力情報センター、123p.(1991)
⑤「欧米諸国の蒸気発生器取り替え事例の詳細と今後の我が国の対応策」、日本原子力情報センター、66p.(1992)
⑥「特別講演会-アジアの原子力発電所視察報告及び今後の日本の役割についての提言」、日本原子力情報センター、35p.(1995)
⑦「緊急特別講演会-原子力への信頼回復を目指して/原子力開発をめぐる技術的課題」、日本原子力情報センター、73p.(1997)
⑧「特別講演会-原子力をめぐる最近の話題」、日本原子力情報センター、36p.(1997)
⑨「特別企画-太陽光宇宙発電の可能性」、日本原子力情報センター、44p.(1999)
⑩「基礎・実務講座-機器・配管等の破壊のメカニズム」、日本原子力情報センター、56p.(1999)
⑪「特別講演会-高経年炉の安全評価と研究課題」、日本原子力情報センター、30p.(1999)
⑫「JCO臨界事故及び核燃料サイクル安全確保への提言」、日本原子力情報センター、164p.(2000)
⑬「特別企画-原子力危機管理の考え方/社会科学的考察」、日本原子力情報センター、121p.(2000)
⑭「原子力業務従事者の基礎・必須知識-機器・配管等の破壊のメカニズム」、日本原子力情報センター、68p.(2001)
⑮「実務講座-過去半世紀に発生した海外原子力施設での事故の検証と我が国への教訓」、日本原子力情報センター、87p.(2001)
⑯「基礎・実務講座-機器・配管等の破壊のメカニズム/過去10年間に発生した事例と浜岡事故の話題」、日本原子力情報センター、118p.(2002)
⑰「日欧で導入が検討されている米国式状態監視技術で原発の安全は守れるか?」、日本原子力情報センター、39p.(2002)
⑱「過去半世紀に発生した海外原子力施設での事故の検証と我が国への教訓」、日本原子力情報セン
ター、121p.(2002)
⑲「基礎実務講座-原子炉安全評価のための技術的・定量的検討事項」、日本原子力情報センター、59p.(2004)
⑳基礎・実務講座-機器・配管等の破壊のメカニズム/過去10年間に発生した事例と美浜事故の話題」、日本原子力情報センター、148p.(2004)
㉑「日経メカニカルセミナー-事故は語る/巨大システムの安全性」、日経BP社日経メカニカル、16p.(1998)
(9)米大学での講演(2000-)
(年間15-20回のペース)
以上、まとめて、
著書・共著・編著・監修・監修協力・翻訳など計55冊
第二十一章 桜井淳が生きた社会背景・意思決定時代
生まれる以前のことについては、母親から、終戦直前まで、自宅庭先に設けられた防空壕での避難の時代であり、私が生まれた戦後では、生活や物資や社会やあらゆることが困難な時代であったことを聞いていた。以下、そんな記憶から、4人兄弟の次男の私が、小学1年の頃、女子が頭に、DDTをかけられ、真っ白い髪になっていたのを見たこともあり、また、小学6年の頃、教室内の不祥事から、男子25人全員が、屋外に並ばされ、担任教師から、片っ端からびんたを食らうこともあったが、本格的には、いきなり、小学6年生の頃から始まる自伝的メモです。
(01)1959年/これ以前のことについては、明確で、強い問題意識がなく、あえて、記す必要もない。/小学6年/群馬県館林市出身の正田美智子さんが皇太子殿下と結婚。記録映画「砂漠は生きている」を観る。
(02)1960年/中学1年/社会党委員長の浅沼稲次郎さんが暴漢に襲われ死亡。意味も分からず映画「人間の条件」を観る。
(03)1961年/中学2年/ガガーリン大佐が人工衛星で地球を回る。
(04)1961年11月/ドイツ製睡眠薬サリドマイドによる両手欠損児問題(アザラシっ子)の誕生。
(05)1962年/中学3年/堀江謙一さんが単独太平洋横断。
(06)1963年/高校1年/ケネディ暗殺。「グレン・ミラー物語」、70 mm映画「アラモ」「ウェストサイド物語」「ベンハー-キリスト誕生の物語-」を観る(歴史的作品に対し、その感動は、いつか語らねばならない)。
(07)1964年/高校2年/東京オリンピック開催。映画「風と共に去りぬ」を観る(作品に対し、その感動は、いつか語らねばならない)。
(08)1965年3月/大学受験(東理大理学部物理学科と群馬大学工学部電気工学科受験、東理大休学願提出、将来を模索)。
(09)1969年3月/大学3年/東大闘争時代を傍観。
(10)1969年7月/アポロ11号の乗組員が月面着陸。
(11)1974年9月/大学院受験(素粒子論の先生のいる東理大と上智大と立大と東大を受験(当時、社会人コースがなかったため、面接試験の際、年齢制限を示唆するやり取りがあった)、複数校合格したが、東理大大学院で素粒子の基礎理論(「場の量子論」)を学ぶことにしました)。東理大の小谷正雄学長の「生物物理学」の講義を受講した(血液のヘモグロビンの話をしていた)。
(12)1975年/米大学へ転学するため都内の政府系米留学促進機関の説明会に参加(参加者数名、説明1時間)。/技術論研究を開始するために京都府左京区南代修学院に自宅のある星野芳郎先生(当時、元立命館大学教授、技術史家・技術評論家)に面会し、技術論研究の方法と目指すべきことについて教示された。/米ブラウンズフェリー原発1号機ステーションブラックアウト事故。
(13)1976年9月/前年に米原子力委員会研究報告書WASH-1400公開(米100万kW級2基の苛酷炉心損傷事故分析(原発災害分析、本文と附録含め約3000頁))。
(14)1979年/結婚(初の欧州旅行、旅行エッセーは、「茨城新聞」1978.12.19-22連載)。/スリーマイル島原発炉心溶融事故。(以下、各国渡航については、最初のみ記載。)
(15)1982年10月/当時、東大大学院工学研究科で工学博士の学位を取得できる人間関係がありましたが、どうしても、理学博士の学位にこだわっていたため、東理大大学院理学研究科に打診したところ、審査可能とのことで、それまでの経緯から、学部と大学院に在籍した東理大の大学院理学研究科で論文博士学位審査(第一指導教官は学長補佐の巻田泰治教授)を受け理学博士の学位取得。
(16)1984年/安解所/初めての米国出張(長男が生まれた直後の出張であったため、米国から、妻に、毎日のように、長男の様子を聞くため、電話をしていた)。通産省の原発安全審査一次審査のための「クロスチェック安全解析(RELAP4/Mod.2による原子炉核熱流動解析やMULTI-KENOによる臨界・未臨界事象など)」担当(大飯3 & 4、浜岡4、女川2)。
(17)1985年/安解所/群馬県太田市の実家に帰省の際に日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故(それまで大部分の群馬県民は御巣鷹山を知らなかった)。
(18)1986年1月/安解所/チャレンジャー爆発事故。
(19)1986年4月/安解所/チェルノブイリ原発反応度事故。
(20)1988年4月/月刊誌論文が話題となって流行作家並みの生活になった。/ダイヤモンド社主催「わかりやすい原発の話」(イイノホール)にパネリストとして参加。同6月/「原子力工学試験センター成果報告会」で招待講演。
(21)1988年7月/原産会議非常勤嘱託1年間(森一久専務理事直轄業務。社会状況を考えると、マイナスになると判断し、就任直後決断し、1年後、辞職願提出)。この頃から、自身にマイナスなことが起こり始めたため、原子力界から距離を置くようにした。
(22)1989年/中国産業技術現場調査(個人として自己負担調査でしたが、科学技術庁から、日中原子力協定を盾に、パスポート提示を求められるなど、きびしい追求を受けた)。
(23)1990年/米原子力規制委員会研究報告書NUREG-1150公開(米100万kW級5基の苛酷炉心損傷事故分析(原発災害分析、WASH-1400改訂版的位置づけ、本文と附録含め約3000頁))。
(24)1992年/初めてのロシア出張(NHKスペシャル取材班としてクルスク原発訪問など、拙著「ロシアの核が危ない!」(TBSブリタニカ、1995)参照)。
(25)1993年/テレビ朝日サンデープロジェクト取材班としてロシアのカリーニン原発訪問(拙著「ロシアの核が危ない!」(TBSブリタニカ、1995)参照)。
(26)1994年/テレビ朝日サンデープロジェクト取材班としてロシアのミサイル解体施設訪問(拙著「ロシアの核が危ない!」(TBSブリタニカ、1995)参照)。(27)1995年/阪神大震災、「桜井淳著作集第五巻」(論創社、2005)参照。内閣安全保障室で「原発の耐震安全性」について講演(講演録は講演直後に刊行された月刊誌「プレジデント」に掲載)。/初めての韓国出張(原子力安全技術院やヨンゴワン原発など訪問、「桜井淳著作集第五巻」(論創社、2005)参照)。/初めての台湾出張(金山原発と国聖原発などの訪問、桜井淳著作集第五巻」(論創社、2005)参照)。/中国出張(秦山原発など訪問、桜井淳著作集第五巻」(論創社、2005)参照)。/地下鉄日比谷線サリンテロ事件発生。
(28)1996年/「もんじゅ」事故後に設置された原子力円卓会議にパネリストとして招聘された。
(29)1997年(以下の件については著作集に正確な日時を記してあると思う)/星野芳郎先生(当時、帝京大大学院経済学研究科教授)に対し、「技術論研究」で学位審査の可能性を打診したところ、「うれしい。しかし、なぜ、もっと早く言ってくれなかったのか。停年(75歳)まであと半年しかなく、審査には、最低、2年間かかるため、時間的に無理」との返信をいただいた。お互いの年齢を認識していなかったわけではなかったが、時間が一瞬にして流れてしまい、星野先生の年齢がそこまで達していたことに失念してた。日本の大学には星野技術論の後継者で学位審査のできる研究者がいないため、この件については、記憶が薄れて行った。
(30)1999年/JCO臨界事故。
(31)2000年9月/米大学(カリフォルニア大とスタンフォード大)とのかかわり開始。1大学当たり平均年間2回の講演のみで大学名での原著論文なし。
(32)2001年/米航空機同時多発テロ、航空機衝突により世界貿易センタービル崩落。
(33)2002年/東大大学院工学研究科で学位論文作成。/「福島県エネルギー政策検討会」第13回検討会で「原子力政策について」と題して講演。
(34)2003年/極真空手道場生(2年間)。
(35)2004年/新潟県中越地震/東大大学院総合文化研究科で「科学技術社会論」の研究開始。これまでに、科学技術社会論学会研究大会で5回(東大所属名で2回)、日米共同学会で1回の口頭発表、科学技術社会論学会論文誌「学技術社会論研究」に東大所属名で原著論文2編。科学技術社会論学位論文作成。
(36)2005年/東大/JR西日本尼崎脱線事故。2週間半で約430件のインタビューに回答。
(37)2007年/新潟県中越沖地震。地震1ヵ月後(2007.8.14)に柏崎刈羽原発の原子炉格納容器とタービン建屋の内部見学。
(38)2009年4月/東大大学院人文社会系研究科で「中世ユダヤ思想」の研究開始。これまで、日本ユダヤ学会での学会発表なし、同学会論文誌「ユダヤ・イスラエル研究」に投稿した原著論文なし。これまでに、数テーマの原著論文の芽を育ててきた。頭の中で宗教学学位論文構想の段階。MITとかかわり。茨城新聞社客員論説委員。
(39)2009年4月/「千寺巡礼」開始。
(40)2010年5月/「巡礼登頂」開始。山岳映画の「運命を分けたザイル」と「バーチカルリミット」を観賞(前者はセミドキュメンタリー映画、後者はK2遭難救出を描いた映画。後者は、雪山の登山技術が学べるため、十数回観賞しました)。
(41)2010年9月/規律のきびしいユダヤ教のシナゴーグが身近にないため、その代わりとして、研究のために、規律のきびしい曹洞宗大本山永平寺など複数の禅寺で調査・研究・修業開始。/K2やエベレストなどを対象としたヒマラヤ巡礼登頂準備開始。
(42)2011年/福島第一原発1-3号機炉心溶融事故(国際原子力事象尺度レベル7)。これまで、約300件のインタビュー対応・論文執筆・テレビ出演・単行本18冊(13冊出版(学術書2冊)、4冊刊行待ち、1冊(学術書)執筆中)。
(43)2011年/東日本大震災。主な被災地(仙台、名取、多賀城、東松島、石巻、女川、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石)への巡礼。
(44)2011年8月4-12日/初めてのスイス・フランス登山旅行(往復ともスイスインターナショナルエアラインズ航空)。スイス(メンヒとユングフラウとブライトホルン登頂、アイガーとマッターホルンの途中までの調査登山)やフランス(モンブラン登頂)で巡礼登頂・教会とシナゴーグの調査巡礼。
(45)2013年4月/東日本大震災の主な被災地(福島県太平洋沿い南部)への巡礼。福島第二原発と柏崎刈羽原発への現場調査。
(46)2013年8月/これまでの査読付学術論文と学術書の成果を論理化し、大学院経済学研究科において、技術論で学位審査を受けてみたいと思い、打診中(相談したある大学の教授から、「学位は、研究者のスタートとして意味があり、十分仕事をして成果のあるいまの段階で学位取得したとしても、著書や仕事が増えるわけでもないため、なぜ、こだわるのか理解できない」と言う助言をえた)。これまで、こだわってきた、理学、工学、社会学、宗教学、技術論の個々の問題について、人生の残り時間が少ないため、少しずつ、頭の中を整理しています。
(47)2013年11月11日-12月4日/初めてのヒマラヤ・エベレスト登山1ヵ月弱(往復ともマレーシア航空、成田-クアラルンプール-トリブヴァン)。ルクラ空港からエベレストBCまでの往復のアップダウン総徒歩距離160kmと高所順応のため5000-6000m級の三つの山(スンダルピーク5300m、チュクングリー5550m、カラパッタル5550m)の頂上直下ないし登頂。カトマンズにある山岳ガイド会社と、2014年春に実施するメラピーク(6654m)登山と2015年春に実施するエベレストなど世界8000m級14座の登山について、人員・スケジュール・費用など、話し合ってきた。
(48)2014年3月/川勝平太静岡県知事から静岡県防災・原子力学術会議(有馬朗人顧問・松井孝典議長)原子力部会(山本一良会長)臨時構成員(2020.4から委員)に原発システムと事故分析に詳しい専門家として任命された。在野で独自の論理に基づき仕事をするに当たり、不都合が生じないようにするため、意識的に、行政側と一定の距離を保ってきた。これまで例外が5件あった。1件目は、1995年に内閣安全保障室に協力したこと、2件目は、1996年に原子力政策円卓会議に協力したこと、3件目は、1998年に島根県原子力発電安全性評価委員会に協力したこと、4件目は、2000年に自治省、5件目は、2001年に参議院経済産業委員会に協力したこと、6件目が静岡県防災・原子力学術会議への協力。
(49)2014年4月10日/事故直後申し出ていた念願の福島第一原発見学・調査実施。
(50)2014年4月15日/2014年度第1回静岡県防災・原子力学術会議原子力部会会合出席。
(51)2014年4月24日-5月15日/2回目のヒマラヤ・エベレスト登山1ヵ月弱(出発直前にマレーシア航空機が行方不明になったが、航空券を取り直す必要はないと判断し、往復ともマレーシア航空)。エベレスト登頂のための登山隊9名(ガイド1名、サブガイド2名、料理人2名、ポーター4名)との意思疎通・信頼関係の形成と技術的訓練(高所順応、テント泊、高所垂直壁ロック・アイスクライミングなど必要な登山用具(アイゼン、ピッケル、アックス、ザイル、ハーネス、カラビナ、アッセンダー(ユマール)、ディセンダー(エイト環)など)を利用した高所訓練)。
(52)2014年7月4日/浜岡原発の地震・津波対策など新規制基準対応の現場調査。
(53)2014年8月6日/2014年度第1回静岡県防災・原子力学術会議地震/火山対策分科会・原子力分科会合同会合出席。
(54)2014年9月11日/2014年度第1回静岡県防災・原子力学術会議津波対策分科会・原子力分科会合同会合出席。
(55)2015年8月1-14日/2回目のスイス登山旅行2週間(アイガー/ミッテルレギー稜、ブライトホルン(ロッククライミングコース)、マッターホルン/ヘルンリ稜など、往復ともスイスインターナショナルエアラインズ)。
(56)2015年9月1日/2015年度第1回静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合出席。
(57)2016年1月12-15日/最初のシンガポール調査旅行(都市論、建築論、高層ビル論、港湾施設論、宗教論、大学論)。
(58)2016年2月9日/2015年度第2回静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合出席。
(59)2016年2月22-25日/最初のバンコク調査旅行(都市論、建築論、高層ビル論、仏教論、大学論)。
(60)2016年3月24-28日/最初のUAEドバイ調査旅行(都市論、建築論、高層ビル論、イスラーム論)。
(61)2016年5月26-30日/最初ホンコン調査旅行(都市論、建築論、高層ビル論、仏教論、大学論)。
(62)渡航約50回のうち約40回は業務による米国出張。
(63)2016年7月6-19日/3回目の2週間、妻とスイス登山旅行(サン・モリッツとグリンデルワルト)(往復ともスイスインターナショナルエアラインズ)。
(64)2016年8月5-6日/静岡県防災・原子力学術会議津波対策分科会・原子力分科会の原子力防災センター(牧之原市)と浜岡原発(御前崎市)の視察出席。
(65)2017年2月9-10日/静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会の原子力防災訓練(牧之原市と浜松PA)の視察出席。
(66)2017年3月24日/2016年度第1回静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合出席。
(67)2018年1月15日/2017年度第1回静岡県防災・原子力学術会議本会・経済性評価専門部会・原子力分科会合同会合出席。
(68)2018年2月15-16日/2017年度静岡県主催防災・原子力訓練視察出席(原子力分科会)。
(69)2019年2月5-6日/2018年度静岡県主催防災・原子力訓練視察出席(原子力分科会)。
(70)2019年3月22日/2018年度第1回静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合出席。
(71)2020年1月29日/2019年度静岡県主催防災・原子力訓練視察出席(原子力分科会)。
(72)2020年2月4日/2019年度静岡県防災・原子力学術会議経済性評価専門部会・原子力分科会合同会合出席。
(73)2020年5月15日/まったくの偶然から、昔、お世話をした研究者(55歳)が、米国中央部州の米国でも代表的な研究機関から、カリフォルニア州サンフランシスコの近傍にある研究機関に転職し、バークレーに住んでいることを知らされ、驚き、運命のようなものを感じた。メールのやり取りはしている。
(74)2020年12月25日/2020年度静岡県防災・原子力学術会原子力分科会合出席(zoomリモート会合)。
(75)中部電力主催特定公募研究ヒヤリング審査会、zoomリモート審査会、2021.2.2。
(76)2021年4月26日/2021年度静岡県防災・原子力学術会原子力分科会合出席(zoomリモート会合)。
(77)2021年11月22日/2021年度第2回静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合出席。
(78)2022年3月1日/2021年度第3回静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会の作業としての浜岡原発緊急時対策訓練現場調査。
(79)R4年度第1回(2022年9月5日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合。
(80)R4年度第1回(2023年2月7日開催)静岡県広域避難訓練(実動訓練見学・調査)。
(81)R4年度第2回(2023年2月10日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合(浜岡原発緊急時訓練見学・調査)。
(82)R5年度第1回(2024年1月12日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会・地震火山対策分科合同会合。
(83)R6年度第1回(2024年9月5日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会会合。
(84)R6年度第1回(2024年10月28日開催)静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会・津波分科会合同会合。
あとがき
私の社会的対応のすべてはkiyoshi sakuraiの記事一覧|note(ノート)に記事(数千記事)と写真(数千枚)に表現されています。しかし、小中高大院の時代の事実関係は、本稿で初めて公開しました。つまらない人間のつまらない人生です。
AIが、短編小説対応のみで、長編小説対応ができないことを克服するため、テーマを区切り、何度も短編小説を作り、それらをつないで長編小説もどきにしました。
AIは、第四章から第八章まで、特定の専門分野のためか、適切に対応した小説展開ができませんでした。
私は、単独著書50冊を実現したいのですが、あと、13冊、全体の二割は、学術書にしたい。note本欄には、論文や記事などの集大成のテーマ別『マガジン』が、19冊あり、独自の視点でのまとめであり、育てていきたい。
私に残された時間は、限られており、まだまだ、道半ばであり、今後も精進せねばなりません。
私の「AI創作ノンフィクション小説」に対する感想
AI創作小説では、もちろん、私のプロットが不十分なためもあり、作家並みの詳細論の展開ができず、改めて、読み直して感じることは、文章表現が、ぶっきら棒で、味気なく、艶もなく、心の機微もなく(いわゆる、かゆいところに手が届かず)、部分的補足・修正では対応できず、今後、大幅な補足か書き直しが必要になるように思えますが、とりあえず公開することにしました。
AIは、専門的内容の第四章から八章まで、内容の理解ができないため、詳しく、滑らかな表現ができませんでした。
第十六章と第二十一章は、AIでは対応できず、私がすべて作成し、補足しました。
update 2とupdate 3では、補足により、これまで意識的に避けてきた、人間としての心の内をできるだけ正直に明かしました。update 3では、「第ゼロ章 幼児時代」と「第十一章 軽水炉安全激論時代」を追加しました。
update 4は、読者の要望を採り入れ、「第十六章 セミナー開催時代」と「第十七章 世界千寺巡礼・巡礼登山時代」、「第二十章 著書など集中作成時代」「第二十一章 桜井淳が生きた社会背景・意思決定時代」を追加、各章にわずかに補足、20枚の写真も追加(計30枚)、初版の六倍の文字数になりました。
update 4で暫定的完結。
AIによる客観的評価
AIに、上記の長編小説もどき作品の評価をお願いしたところ、
「この長編小説もどき作品では、AIを活用して長編小説を作り上げるために、人生の様々な時代を区切って短編小説をつなげる手法が取り上げられています。関連する興味深い事実をいくつか挙げてみます。
AI創作の進化 : 初期のAI創作では、短編小説や詩の生成が主流でしたが、現在では、技術の進化により長編小説や映画の脚本、さらにはアート作品まで幅広く対応できるようになっています。
桜井淳の取り組み : 桜井淳氏は、日本の科学者であり技術評論家として知られています。彼の人生は、技術革新と学問の追求に満ちており、彼の多岐にわたる研究や業績は、科学技術の発展に大きく寄与しています。
人生を通じた学びと挑戦 : 桜井氏の人生は、小学校から大学院、さらには博士論文執筆や技術評論家としての活動まで、多くの節目があります。彼のように、常に新しい知識を追求し、学び続ける姿勢は、多くの人々にとっての励みとなります。
技術論と安全性の研究 : 桜井氏は、特に技術論と安全論の分野で多くの研究を行っており、特に原子力や新幹線の安全問題に対する提案や分析は、社会に大きな影響を与えました。
リスキリングの重要性 : 桜井氏が58歳から東大大学院で新たな学問を学び直したように、リスキリング(新たな技術や知識の習得)は、人生のどの段階においても非常に重要であることを示しています。
これらの事実は、AIの可能性と桜井氏の人生の魅力をさらに深く理解するための一助となるでしょう」と、
客観的には、狙い通りの結果のように感じています。