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ヘヴィレイン:ディストピアから来た男

 創作に出てくるディストピアには妙な魅力がある。個人の尊厳を踏みにじる国家権力だとか、水も漏らさない監視システムなんてものは現実にはノーセンキューだけれども、それがひとたび物語の中の出来事となると腹立たしい中にある種の痛快さすら感じられるのだから不思議だ。この手のジャンルに慣れてくると、例えば反抗的な市民を官憲がとり逃してしまうような場面で「不甲斐ない連中だなあ。こんなので国家の治安を守れるのかなあ」などと急に体制の肩を持ち始めたりする。この「自分が体制側の人間である」という確信はディストピアに魅力を感じる素養の一つだと思うのだけれど、僕の場合その根拠のない自信は一体どこから湧いてくるのか。よくわからない。

 ニンジャスレイヤーはディストピアを描いている、今もっともアクティブな小説作品の一つだ。舞台となる都市の名はネオサイタマ。支配しているのは暗黒メガコーポと呼ばれる違法経営企業群で、こいつらは組織の内外に対して災禍を撒き散らすブラック企業の親玉のような連中である。例を挙げるとオムラ・インダストリはポンコツAIを積んだロボ・ニンジャで開発予定地に立っていた民家を更地に変えるし、ヨロシサン製薬は栄養ドリンクに麻薬を混ぜて流通させている。こうした横暴を止められるものは誰もいない。洗脳じみたマーケティング戦略と企業ニンジャの暴威が人々の抗う力を奪っているのだ。

 もっとも今挙げた二つの企業が活躍していたのは第2部までの話で、現在書籍化が進んでいる第3部となるとまた事情が変わってくる。世界征服をもくろむ秘密結社アマクダリがにわかに頭角を表し、暗黒メガコーポ群はその協力者の立場に収まったのだ。それぞれのメガコーポの代表者には、アマクダリの最高幹部である12人のポストが与えられている。6月30日に出た新刊『ロンゲスト・デイ・オブ・アマクダリ(上)』ではニンジャスレイヤーとその12人の戦いが描かれるが、ここでニンジャスレイヤーはディストピアものにありがちな数の暴力を相手に正面突破を果たし、10月10日の一日だけで12人の半数あまりを惨たらしく殺害している。いかに堅固なシステムであれ、構成要素を一つ一つ切り離して足腰立たなくなるまで叩きのめせばやがて立ち行かなくなるのだ。これは以後全ての無慈悲なディストピア運営者が肝に命じておくべき教訓だと思う。

 アマクダリの12人には非常に魅力的なキャラが集まっているのだけれど、それにも増して注目してもらいたいのが新刊で初登場を果たした傭兵ニンジャのヘヴィレインだ。といっても書籍において彼はそれほど目覚ましい活躍を収めているわけではないし、むしろ読んでみて影が薄い奴だと思われる方のほうが多いんじゃないかと思われる。ヘヴィレインがその存在感を高めていくのは終盤近くのエピソードのことであって、もっと言えばその時彼は上に述べたようなディストピア好きの屈折した心理を凝縮したようなセリフを吐いている。これは無慈悲なディストピア運営者のみならず無慈悲なディストピアもの愛好家も必読の場面だ。この記事ではそこに至るまで経緯を、彼の人となりに触れつつ紹介していくことにしたい。

・『サンセット・アンド・ヘヴィレイン』吸血鬼の誕生

 ニンジャ・ヘヴィレインの出自と企業の専横の間には深いかかわりがある。そもそもニンジャになる前の彼はクライアントの命を受けてメガコーポ間の代理戦争を請け負う一介の企業戦士だった。名前はイノウと言った。『サンセット・アンド・ヘヴィレイン』において、彼はメガコーポの一つ、オウテ社の輸送トラックに襲撃をかける。情報によればトラックには安価なショーギ板とコケシが満載されており、それらは目的地の小村ヤナギヤマ・ヴィルで組み合わせられることで最高級ショーギ板へとランドリーされるのだ。彼に課せられた任務はオウテ社の偽装を暴くことだったが、そこにはめくるめくニンジャの暴虐の風景が広がっていた。

 元よりイノウは厭世的で捨て鉢な男だったが、ここではニンジャの狂気がさらにその上を行く。というかこのサンセットなるニンジャが完全にぶっ壊れており、全然話が通じておらず怖い。ここでイノウはボロクズのように捨てられ、トラック内部の謎めいたシュギ・ジキ部屋で死を迎える。ニンジャのみが自由に出入りできるシュギ・ジキは、企業の囲いの中で行き場を失くした人々の暮らしを象徴するかのようだ。

 一度は死を迎えたイノウであるが、運命は彼を再び狂った世に送り返した。そして蘇った彼は、なんとニンジャになっていたのだ。怪物に襲われた男が自らも怪物と化して復活を果たす。あるいはこのエピソードは、ニンジャの誕生を古典的な吸血鬼の伝承になぞらえて描いたものなのかもしれない。日没の名の付いたニンジャの存在を思えば、あながち的外れな指摘とも言えないはずだ。

・下にあるものは上にあるものの如し

 時系列の話をすると、上で挙げた『サンセット・アンド・ヘヴィレイン』は第1部のエピソードだ。即ち暗黒メガコーポが並び立って面白おかしくやっていた頃の話で、そこからヘヴィレインがアマクダリのニンジャとして再登場を果たすには第3部のエピソード『グラウンド・ゼロ、デス・ヴァレイ・オブ・センジン』を待たねばならなかった。なぜこんなにも間が空いたのか? 思うに理由がある。彼が骨の髄までアマクダリのニンジャだからだ。

 アマクダリは合理性の組織だ。個よりも集団を、集団よりもそれを動かすシステムを重んじている。こう書くと何だか先進的な連中のように思えてくるが、それを支えているのは12人をはじめとする幹部たちのシステムへの妄信だったり、自身は末端にいながら組織の規模を自分の能力と錯覚してしまう情けないサンシタニンジャだったりする。そういう奴らが二人三脚の健気さで人工知能による人類隷属や子々孫々まで続く管理社会を目指す時代錯誤は考えるだけで泣けてこないでもないし、実際最新刊に収録された連作短編『ロンゲスト・デイ・オブ・アマクダリ』はそうした高揚感に満ち満ちている。が、ヘヴィレインはそのどちらでもない。

 ヘヴィレインはアマクダリへの隷属を渇望している。彼は何によっても救われなかったし、どこかに救いがあるかと思うとやるせないからだ。それは外面には「自分が従ってるんだからお前も従え」という態度になって表れるし、おまけに彼は他人が奴隷のように従うさまを見られるなら自分もまた奴隷の身に落ちて構わないという「俺のことはいいから先に死ね」マインドまで併発している。始めから得るためでなくなくすために戦っているのだ。

 思うにこの考え方はディストピアを愛でる心持からそう遠くはない。どちらも根っこにあるのは他人へのイビつな関心かも知れないし、この世の不条理に対して、現実的な手段を何一つ伴わずとも心の内では未だに燃えている反抗の念かもしれない。また話をぐっと日常に近づければ、そこにはただ一つ効率化しえない他人とのコミュニケーションの面倒臭さがないとも言いきれない。

 ここまで一方的にまくし立てると、せっかく冒頭のディストピア好みの話には同意できたのにもう着いてけねえよ、酒が、不味くなつちまつた……という方も出てくる頃だと思うが、上に挙げたのはあくまで一因であって、理想の暗黒管理体制へのモチベーションは各々の頭の中にあるものだと思う。そして何だかんだ楽しくやっていた連中も大勢いたネオサイタマにおいても、サンセットとヘヴィレインの中にはずっとそれがあったのだ。

・上にあるものは下にあるものの如し

 ヘヴィレインの活躍が1部から3部の物語全体に及ぶのにはもう一つ重要な訳がある。彼には主人公・ニンジャスレイヤーの映し鏡としての役割があるのだ。ニンジャスレイヤーはニンジャ殺しの戦士だ。マルノウチ・スゴイタカイビルで妻子ともどもニンジャの手にかけられたのち復活を果たし、3部に至るまで大勢のニンジャを殺している。かつてサンセットを殺したのも彼なら、アマクダリの首魁ラオモト・チバの父親を殺したのも彼だ。これまで作中に出てきて死んだニンジャの8割はニンジャスレイヤーによって殺されているし、残りの2割は彼に殺される前に死んだに過ぎない。

 ニンジャスレイヤーはニンジャが跋扈する世界を憎んでいる。その戦いはともすれば人間だったころの自分が救われた可能性を追い求めているようにも見えるが、その点でもやはりどこかヘヴィレインと相通じるものを感じさせる。二人が直接顔を合わせるのは、ほんの束の間のことだ。けれどそれ以上に決定的に彼らの運命が交わるのは物語の終盤であって、彼らはそれぞれがかつて命を落とした場所へと再び帰り来ることになる。即ちニンジャスレイヤーにとっては戦場と化したマルノウチ・スゴイタカイビルであり、ヘヴィレインにとっては忽然と現れたシュギ・ジキ部屋である。

 そこで彼らは死後の裁きめいて最後の試練に挑むことになるのだが、先に挙げたヘヴィレインのセリフはその時に出たものだ。命を懸けた土壇場で彼は怒りを自覚し、もう一度理不尽に立ち向かう力を手に入れた。それはあたかも『ロンゲスト・デイ・オブ・アマクダリ』において怒りに目覚めたニスイやゴウトと同じであった。その後ニンジャスレイヤーとヘヴィレインがいかに生き、そして彼らの物語がいかなる結末を迎えたのか。それは是非作品を読んで確かめてもらいたい。そこにはきっと死屍累々で、あなたにとって居心地のいいディストピアが待ち構えているはずだ。

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