方舟と根絶やしザメ Part.2
ギルガメシュは部屋の中央へと歩み出て、おもむろに群衆を見回した。賢者の間を擁する建屋の延べ床面積は一億十万六千二百平方メートル、天井までの高さは二万メートルあまり。地上の全人口の収容してもなお余りある大きさだ。基底部に灯された僅かばかりの蝋燭の明かりが奇妙にも部屋の隅から隅までを照らしている。
「王さま、どうぞこちらへ」
車座になった座席の中から一人の女が進み出た。巫女と呼ばれる人物で、賢者の中でも非常に特異な立ち位置を占めている。彼女は奥にある籐椅子を指し示した。ギルガメシュは椅子に腰かけた。そして朗々と威厳ある声で話し始めた。
「皆の衆、今日は集まってもらいありがとう。三千年ぶりだ。こうして皆を起こすのは。眠りについたのはつい昨日のことなのにな。……あー、外の世界は変わりなかった。すっかり沈んでしまったようだが、少なくとも三千年で大気の組成が変化したり、氷河期が訪れたり――そういうたちの悪い変化を遂げてはいなかったという意味だ。だからどうか、陸地が見つかると信じて待ってほしい。協力に感謝する」
ギルガメシュが宙を見上げて話をする間、場内からは意見する声はおろか、咳払い一つ聞こえてこなかった。賢者とその補佐たちを除く人類に発言権はない。三千万人が一堂に会するこの場の計算リソースをなるべく節約するためだ。観衆には十賢者とギルガメシュが交わす議論をリアルタイムで見聞きする資格がある。そのために身動き、感情表現、平時の速度での思考等が制限されているのは仕方のないことだった。
「そして皆すでに聞き及んでいるかと思うが、船に不具合があった。現在動物たちが残らず肉体を得て船上を闊歩している」
「王さま、口をはさんで悪いが」
ギルガメシュが話している最中に賢者サウルが声を上げた。避難船の設計責任者である彼は、首から上がボトルシップになったアバターを使っていた。
「本当に全生物が残らず再生したんですか? 船に乗るわけがないと思うんだが」
ギルガメシュは草木でいっぱいの甲板と、幹に埋まった動物を思い浮かべた。確かに話だけを聞いていてあの光景は思い浮かぶまい。さながら狂気じみた夢だ。
「別に話の途中で質問してもらって構わない……そうだ。全部出てきた。今船上はとんでもないことになっている。七日前船のシステムが『ノア』の名がついた正体不明のプログラムを実行し、動物たちを解き放った。事態を察知した従僕のエンキドゥが対応のため私を目覚めさせた」
「なぜ召使いは六日も放っておいたんだ」賢者キルデールが言った。彼のアバターは地上時代の顔そのままだ。ただスキャンの仕方が悪かったらしく、発色の妙な土気色をしていた。
「放っておいたわけではない。その間はあれも自分なりに原因を探っていたよ。元の状態に戻そうとしたが上手くいかず、打つ手がないとみなして私を呼んだんだ。私だって用もないのに起こされたくはない」
ギルガメシュの言葉にキルデールは口をつぐんだ。ギルガメシュの眠りは船内の設備を使用した肉体の凍眠だ。賢者や残存人類たちの電子的な休止(スリープ)状態とは違う。目覚めたその瞬間から彼の体だけが再び時を刻み始めている。
「では、動物たちをどうするかが喫緊の課題なのですね」
「ああ、いや。それはそうなんだが、それだけでもないんだ」 ギルガメシュは手を挙げて巫女を制止した。「わけあって保護した生物が一種絶滅してしまった」
その言葉にこの日初めて室内がざわついた。会話能力を持つのが二十人だけで済んでいるからいいものを、あと六十人もこの場にいれば軽いパニックの様相を呈していただろう。ギルガメシュは場が落ち着くのを待って話を続けた。
「絶滅した種は尾白鹿。原因は目下調査中だが、何らかの肉食生物がつがいの両方を殺害したものと思われる。死骸のそばに牙が残っていたが、エンキドゥに確認させたところ何の動物かは不明だ」
「動物同士の共食いではないのか」
長いひげを生やした老人のアバターをした賢者が言った。この場合アバターの外見は賢者が高齢であることを意味しない。彼は子供向けの絵本などで見かける創造主の姿を模しているのだった。
「前提として動物同士は共食いしない。私が起きるまでに六日あった点に留意してもらいたい――だとするならもっと被害が大きかったはずだ」ギルガメシュは賢者からの質問にほとんど間を置かずに答えた。「……とは言え考えられない話ではないだろう。現に襲撃を受けた生物がいる以上はな」
今やギルガメシュの視界は劇的な変化を遂げている。周囲の観客席では三千万の人類が奇妙に形を歪めたり、本来の陰影を再現できず七色に輝いたりしていた。猛烈な勢いで行われる賢者たちの思考が会場の描画リソースを食っているのだった。
「賢者たちよ、落ち着きなさい。まずは襲撃者について王さまの考えを聞いて」
もはや何が描かれているのかほとんどわからないような室内の有り様を見かねて巫女が言った。途端に場が静まり、周囲の景色も元に戻った。巫女と賢者の間に序列は存在しないものの、巫女の言うことに逆らう者は誰もいない。巫女がギルガメシュに目配せすると、ギルガメシュは再び話しだした。
「考えられる場合は二つ。まずは船の課した禁忌に縛られない動物がいる場合。すでに伝えた通りその動物は船の管理者であるエンキドゥに存在を知られておらず、秘密裏に船内を徘徊している。船が新生物を作り出したのか? そんな物を作った意義は? 何にせよ不明点の多い仮説だ。私はもう一つの説の方がより真相に近いのではないかと思う」
ギルガメシュはここで一旦話を区切った。視界の端でまたも観客席のグラフィックが沸騰を始めているのが見えたからだ。だが彼の考える事の真相はこんなものではない。ギルガメシュは六つ数えて再び話し出した。
「もう一つは外部から侵入した生物が船の動物を襲っている場合だ。私はその牙に見覚えがあった。鮫だ」客席を火花のようにグリッチが走る。ギルガメシュは己を取り囲む思考の圧力に負けまいと一層声を張り上げる。
「船室から尾白鹿の死んでいた甲板にかけて穴が開いていた。鮫は海から船内に侵入し、隔壁を食い破りながら甲板へ到達したと思われる。おそらくは目についた動物を手あたり次第襲っている。鮫は海における生態系の頂点だからな」
話し終えた時観客席の火花は止んでいた。見れば賢者たちは皆固唾を飲んでギルガメシュの顔を見据えているのだった。
「王さま」巫女が意を決して話し出した。「間違いなくその牙はサメの歯だったのですね? よろしければ見せていただいたいのですが」
「うむ。私も皆に見せてやりたい。だが外界の物をこの部屋へ持ち込むにはどうしたら良い」
ギルガメシュは空の手を掲げて見せる。賢者たちは顔を見合わせた。ややあって一人の賢者サウルが言った。
「船内に立体スキャンのできるスキャナーがあるはずです。外界に出た後召使いに案内させたら良い」ボトルシップの頭部からその感情は読み取れないが、心なし声が上ずっていた。
「王さま。僭越ながら申し上げます」白ひげの老人の賢者の補佐の男がおずおずと輪の中に進み出た。補佐は賢者たちに命じられた姿をとっていることが多いが、この男は頭が黒山羊になっていた。「補佐の分際で申し訳ございません。私アベル様にお仕えする前は海洋学者をしていた者でございます」
「おい何をやってる」賢者アベルは思いもよらぬ補佐の行動に目を見開いた。座席を立って補佐を叱りつけようとしたが、その前にギルガメシュが手振りでもって彼を制止した。
「聞こう。言ってみろ」
「ええ、その、鮫は水から出ることはありません。他の魚と同じです。鰓で呼吸しています。水から出ると窒息します」
山羊頭の男の問いにギルガメシュは目をつむり、しばし考え込んだ。地上で目にしたものを幾度となく頭の中で反芻し、この疑問に対する答えを見つけ出そうとする。民が問うているのなら、王には答える義務がある。
「……いいか。補佐官。外界を我々が留守にして三千年あまりが経とうとしている。その間に地上の生態系は様変わりしたはずだ。何せ地上が完全に水没したのだから。海水の成分から地形まで何もかもが当時とは違い、生物はそれに順応しようと日夜進化を続けている。違うか?」
「おっしゃる通りです。しかし進化では説明がつきません。大地がなくなったというのに、なぜ鮫が陸に上がるようになったんですか?」
「すまないが、それはわからない」ギルガメシュはきっぱりと言った。「だが約束しよう。地上でそれを突き止めてくる」
ギルガメシュが地上での役割に強く思いを馳せると、呼応するかのように周囲に立った蝋燭の火が輝きを増し、景色は白い光の中で輪郭を失っていった。観覧席で群衆三千万が曖昧に混ざりあい、座席が溶けて平らにならされていく。話し合うべき時は過ぎた。次は行動の時だ。輝く視界の中で賢者たちの数名が席を離れ、何やら額を突き合わせて話し合いをしている。何を話しているのか。ギルガメシュには知る由もない。
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目を覚ましたギルガメシュは薄暗い通路の隅に自分を見出した。壁一面に青白い蔦が垂れ下がっていて、彼はその中に身を埋めるようにして仰臥していた。傍らには昨晩降りてきた梯子がかかっている。ギルガメシュは起き上がって蔦の抱擁を脱すると、まだ眠たい頭で梯子を登り始めた。
登りながらギルガメシュは記憶をたどる。眠っている間に見聞きした事を覚えてはいた。が、誰が何を話していたのか、細部が今一つ判然としない。ひとつだけはっきりしているのは襲撃者の正体が鮫であるということで、これについては眠りにつく前よりも確信が深まったようだった。
頂上が近づくとひとりでに外へ続く蓋が開いた。差し込む陽の光にギルガメシュが目を凝らすと、エンキドゥがマンホールの中を覗き込んでいた。
「おはよう。エンキドゥ」ギルガメシュはエンキドゥの手を借りて甲板へ出た。「引き返してきたのか。鮫を追っていたと思うが」
「鮫かどうかはまだわからないが……伝えておいた方が良いかと思うことがあって戻ってきた。船が何か生み出している。何者かがシステムに干渉しているらしい」
ギルガメシュはエンキドゥの言葉にデジャヴを感じた。つい昨日、甲板の芝の上で目を覚ました時のことだ。長きにわたる凍眠につきものの悪寒や吐き気、不安感を薬物によって封じ込めた、春の微睡みのごとき穏やかな目覚め。それを船の不具合を告げるエンキドゥの声が打ち破ったのだった。
「どこに何が出てくるかわかるか?」
ギルガメシュが聞いた。今では彼は心因性の軽いめまいに襲われている。
「わかる。場所はメインマスト。見たことはあるか?」
「ない。そんなものが船にあるのか?」
ギルガメシュが顔をしかめた。地上人類の叡智の結晶である船に帆とは似つかわしくない。
「すまない、ブリッジのことだ」エンキドゥは言いなおした。「船内で最も標高の高い構造物だ。ここからそう遠くはない。出てくる生物は人間だ」
「人間……」
ギルガメシュの脳裏に観覧席を埋め尽くす群衆と、蝋燭の火に照らされる亜人たちの顔が浮かんだ。理解できない状況ではない。再生しようとしているのはおそらく賢者のうちの一人だ。事態を収拾するには自分とエンキドゥだけでは荷が重いと考えたか。その決定に不満はなかった。
「……出迎えに行くか」
「賛成だ」
彼らは再び藪の中に分け入って行った。木立を羚羊が角の先で枝を揺らしながら行き過ぎ、樹上では鸚哥の鳴く声が聞こえる。歩きながらギルガメシュは前日の猩々のように他の生物の中に埋まっている哀れな生き物がいないか目を光らせていたが、あまりに樹木が多いのでそのうち疲れて止めた。
船の『不具合』はギルガメシュの目に映る甲板の風景を驚くほど豊かにしていた。大部分は草木が生え放題のでたらめな密林だが、例えばある区画にはほぼ植物が生えておらず、石がちな荒地になっていた。船は単に生物たちを解放しただけではない。そこには何者かの明確な作為が感じられる。
「見えたぞ」
エンキドゥが前を見て言った。なるほどブリッジは目につきやすい。近くに寄れば木立の中からでもそのそびえ立つ威容が見えた。壁にはびっしりと蔦が絡みつき、開いた窓からは鳥が出入りしている。廃墟の塔といった風情だが、俯瞰で見ればこの船自体が幽霊船のごときものに見えるのだろうとギルガメシュは考える。
「人が現れるのは上か?」
ブリッジのふもとに立ったとき、上を見上げながらギルガメシュが言った。地道に階段で登っていくなら一苦労だろう。
「そうだ。頂上の展望台に出現する。地階からはリフトで上り下りできる」
エンキドゥは正面の戸を開き、薄暗い屋内へと入って行った。ギルガメシュが後に続くと、内部は外の密林以上に混沌としていた。今度は辺りを覆うのは木の蔦ばかりではない。寸断されたチューブが天井から床の上まで垂れ落ち、剥き出しの配管が小動物が拾い集めてきた落ち葉に埋もれている。
無骨な灰白色の壁で囲われた通路に、何もない小部屋へ続く扉ばかりが連綿と続く。動くものは忠実な召使いであるエンキドゥだけ――それが数千年に及ぶ航海に耐え得るよう設計された船本来の姿だ。同じ理念をこの場で見出すのは不可能に近かった。
「おっと」何かが掠めていく感覚にギルガメシュが足元を見ると、薄暗い床を栗鼠が駆けていくところだった。視線を感じて振り向けば背後には二頭の狸がつかず離れず付いて来ている。
「動物が集まってきているぞ」ギルガメシュが困惑気に言った。
「その通り。王の顔を見に来ている」
「そんなわけはないと思うが」
大方嗅ぎなれない匂いに釣られて来るのだろう、ギルガメシュがそう言う間にも前を通り過ぎた部屋から雄山羊が現われた。のどかな鳴き声を背中越しに聞きながら二人は奥へと進む。
「……近いな」構内を進むさなか、不意にエンキドゥが言った。「ここで待っていてくれ」
エンキドゥはギルガメシュを手振りで押しとどめ、自分は角を曲がって先に進んだ。指示に従いこそしたもののギルガメシュにはその意図が分からない。手持ち無沙汰に立ち尽くしていると栗鼠が猛然と足元を駆け回るやら、後ろから追いついてきた山羊がジャケットの裾を引っ張ってくるやらで心細いことこの上なかった。
「エンキドゥ、いつまで待てばいいんだ」
痺れを切らしたギルガメシュが呼びかけると、エンキドゥが角から戻ってきた。背後には四足歩行の巨大な樋熊が着いて来ている。二本足で立っていれば頭が天井に着いてしまうだろう。それほどまでに大きな熊だった。
「済まないが少し待て。これを外に出す」
ギルガメシュは壁に背をつけて道を開けた。周囲の動物たちは熊を恐れる様子を見せない。その必要がないのだから当然だ。この中で熊に襲われる可能性があるのはただ一人、生身の身体を持つギルガメシュだけだった。彼は自分より二回り以上も大きい熊が通り過ぎるのを物憂げに見送った。
エンキドゥが戻ってきた時もギルガメシュはまだその場に立ち尽くしていた。山羊や陸亀がその服の端を食んでいる。頭の上には白鳥が止まって羽を休めていた。
「……行くか」
ギルガメシュが動き出すと、動物たちが一斉に体から跳び離れた。
「どうかしたのか」
流石に看過しかねたのか、エンキドゥが尋ねる。
「……いや、私以外の助っ人が来て助かったと思っただけだ」ギルガメシュはそう言ったきり口をつぐんだ。
二人はじきリフトの前に着いた。横開きの扉には蔦が生い茂っていたが、ここでもエンキドゥの対応には容赦がない。前に立って操作すると、蔦を引きちぎる盛大な音と共に扉が開いた。リフトは人が二、三十人はゆうに入れる大きさだ。彼らは扉のすぐ内側に立って箱が頂上に着くのを待った。
到着を待つあいだギルガメシュは今後に思いを馳せていた。差しあたっての問題は人の復元が正常に完了するかどうかだ。船が起こしているという不具合には未だに謎が多い。一度はひとりでに動物たちを解放した船が今回は言うことを聞くとは考えずらかった。
さらには再生に成功した後のこともある。情報から復元された人間は船に乗る他の動物と同じだ。船上で軟泥が供給されている限り傷は治り、老いることはない。環境への対応力はギルガメシュより上だ。だとするなら彼の役割はエンキドゥによって目を覚まし、船内の状況を賢者たちに伝えた時点で終わっていたのかもしれない。
「着いたぞ」
エンキドゥの声でギルガメシュは思考を打ち切った。ブリッジの役割はもっぱら陸地を探すためのアンテナと展望台だ。扉の先のフロアはガラス張りになっていて、そこから船の甲板を一望できた。
「……驚いたな」
ギルガメシュは頂上から見える景色に息を呑んだ。木々が鬱蒼と茂っていて、とてもこれが船の甲板とは信じがたい。苔むした平らな岩を見ているようだ。空と海の境は船の外で霞みがかって見えた。ギルガメシュは大地を沈めた大雨を昨日の事のように覚えている。比べてみれば今日の空の何と穏やかなことか。
ギルガメシュが景色に目を奪われているその間、エンキドゥは人が出現する地点の確認に余念がなかった。偽脳を書き出して受肉させるまでには大掛かりな設備がいる。見ると壁の一角に培養槽が埋め込まれていた。巨大な水晶の柱のようなその中央に、軸索を伸ばした黒色の半導体チップが浮かんでいる。再生体の核となる偽脳だ。
「エンキドゥ、これを見ろ」
ギルガメシュを呼び出そうとすると先に向こうから声をかけられた。窓から離れてしゃがみ込むギルガメシュの足元には、床に落ちた偽脳があった。培養層の中にあるものとは外見が違う。色は純白で大きさも一回り小さい。
「これはヒトの偽脳か?」
「わからない。下がって」
エンキドゥはつるぎを抜いて偽脳に近づいた。すぐ上を通っていた配管の継ぎ目から軟泥がどろりと垂れて落ちた偽脳に被さった。床に溜まった泥が表面に黄金色のワイヤーフレームを映し出す。飛びのいたギルガメシュの前で軟泥が巻き上がり、身をよじる泥の柱となった。より強靭に、よりしなやかに。柱は絶えず表面を波立たせながら望む形へと近づいていく。
肩の付け根から五指を備えたすらりと長い腕が生えた。胴の上に隆起した丸い頭部が、まだ何もついていない顔で周囲を睨め回した。腹部には浅い臍が刻まれた。垂れ落ちる泥が臀部を境に二手に分かれ、床を踏みしめる脚部となった。流木にのみを振るうように、全身に凹凸が彫り込まれていく。形の定まった部分は渇いて固まり、生身の体と見分けがつかなくなった。
姿を現したのは巨大な鮫だった。エンキドゥがその姿を見るなりつるぎで切りかかったが、鮫は紡錘形の身体をよじって刃をかわした。それだけではない。鮫は弓なりになってその場から跳び上がると、尾びれの一撃でガラス張りの窓を粉砕した。部屋の中をガラス片が舞い跳び風が躍る。ギルガメシュは飛ばされまいとその場にうずくまった。
「逃げるか。逆賊めが」
エンキドゥが吹きすさぶ風に負けまいと大声を上げた。その時鮫はすでに外に身を投げ出し、その大きな上顎だけで窓際にぶら下がっていた。エンキドゥは手をかざし、鮫の偽脳にアクセスを試みた。だが上手くいかなかった。偽脳を目にした時からわかっていたことだ。あれには船で使われている技術とは全く別の技術が使われている。
「わははは」鮫が笑い声を上げた。唸るような聞き取りづらい声だった。「番兵どもめが。せいぜいヒトを守っていろよ」そう言うと鮫は口を窓辺から離し、ギルガメシュたちの視界の外へ落ちて行った。
エンキドゥが窓辺に駆け寄って下を覗き込んだ。
「死んだか」うずくまったままギルガメシュが尋ねた。猛烈な風でろくに顔を上げられなかった。
「いや、再生体は落下では死なない。偽脳が無事だ」エンキドゥはギルガメシュの方を振り向いた。「ここで待っていてくれ。窓は塞いでいく」
困惑するギルガメシュを尻目にエンキドゥは窓から身を乗り出して下に生えていた蔦を掴んだ。そのまま外に身を躍らせると、手にした蔦が壁から剥がれ、エンキドゥの身体を遥か下方へと送った。これ以上は蔦が伸びないというところまで来ると、エンキドゥは手近な蔦を手に取ってまた同じことをした。地上までいくらもないところで蔦の道が途切れた時、彼は宙に身体を投げ出した。
落下した先でエンキドゥは無様に腹ばいに倒れ込んだ。衝撃は大きかったが、エンキドゥは意に介さず立ち上がった。すぐさま周囲を見回すも、そこに鮫の姿はない。だがどこへ行ったかはわかる。その向かう先で動物が死に続けているからだ。今森林狼の雄が死に、野黄牛の雄が死に、石千鳥が雌雄ともに死んだ。
絶滅に次ぐ絶滅。それが止めどなくエンキドゥの頭の中に流れ込んでくる。エンキドゥはつるぎを抜き、鮫の進行方向を睨んだ。そして今度こそ鮫を討つべく、密林へと突き進んだ。
ブリッジの頂上ではエンキドゥの操作によって窓の割れ目が塞がれつつあった。ギルガメシュはフロアをまともに動き回れるようになったが、自分一人ではリフトを動かせず、下に降りることができない。彼はまたも待ちぼうけを食っていた。
ギルガメシュはまた、先ほどから部屋の隅で培養槽が動作していることに気付いていた。培養槽の中で起きている反応は今しがた目にした鮫の発生とは比べ物にならないほど穏やかだった。剥き出しのまま浮かんでいる偽脳に、マニピュレーターが軟泥の微細粒子を吹きかけている。
今できつつある顔にギルガメシュは見覚えがある。それは巫女の涼しげな口元だった。鼻から下の顔面と、首から肩にかけてがすでに形を成している。軸索を四方八方に生やした偽脳が作りかけの頭部に埋まっているのが異様だった。ギルガメシュは他にすることがないので培養槽の前で彼女の再生をまんじりともせず眺めている。
が、巫女の再生がそれ以上先に進むことはなかった。装置が忙しなく動いているにもかかわらず、先ほどから皮膚の一かけすら新たに加えられていない。そのうちにマニピュレーターの手が止まり、機械の微かなうなりも止んだ。巫女の再生は完全に途中で投げ出されたようだった。
「えっ何だこれ」培養槽の中で半分だけの顔が口を聞いた。
「やあ、おはよう」
「あっ。王さま、いらしたのですか」巫女は平静を取り繕った。「泥の供給が止まっているようです。何かご存じでしょうか」
ギルガメシュはわからない、と答えた。「そう言えば昨日寸断された泥の配管を見かけた。あそこから漏れてるんじゃないのか」
「いえ。その程度の規模ではありません。すでに使われているのです。恐らくは人類再生のために確保した泥すべてが」
ギルガメシュはしばし呆気にとられた。泥は莫大な量が船倉に備蓄されていて、求めに応じて船中に供給される。巫女が言っているのはその一部がまるっきり空になっているということだ。宙に浮かぶ口はさらに話を続けた。
「私は警告のために参りました。今船では何か異常な事が起こっています。こうしてお話ができて幸いでした。召使いはそこにいますか?」
「いない。エンキドゥがどうかしたのか?」
「承知しました。いればこの状況について問いただせるかと思いまして。僭越ながら申し上げますが、召使いの言うことを鵜呑みにすべきではありません。襲撃者にしても王さまは鮫だとお考えでしょうが……」
「いや、それは」ギルガメシュは窓の方を振り返った。「事実だ」
巫女はもどかしげに口を歪めた。それが今の身体でできる精いっぱいの意思表示だった。
「とにかく、泥がなくなっているのは異常です」
ギルガメシュはしばし思案に暮れる。今しがた鮫が泥をまとって再生するのを目にしたばかりだが、人類の総人口を賄える量の泥をあの鮫が一度に消費したとは思い難い。鮫とは全く別の再生体が未だ船のどこかにいる。恐らくはそれも『ノア』の下した命令の一つか。
「わかった。流出した泥のありかを確認しよう。それと鮫が陸に上がる理由についてだが……」
ギルガメシュは培養槽の様子を見て話をやめた。いつしか巫女の身体は端の方からちり状に分解を始めていた。不完全な再生のまま船上にとどまるのは難しいようだった。
「王さま、私は賢者の間に戻ります。召使いについて私の言ったことを努々お忘れなきよう……人類一同、必ず事態を解決できると信じております」
「ああ。わかった。私に任せてくれ」
ギルガメシュが請け負うと、巫女は笑みを浮かべ、やがて船上から姿を消した。ギルガメシュは残った偽脳が機能を停止するのを見届けた後、窓辺へと舞い戻った。もはや賢者たちの直接の助けは望めない。彼は今やこの精巧に作られた箱庭に存在を許された唯一の人間となった。
【続く】
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