われ思うゆえに猫である
5.
なんでも屋が郊外の廃工場へ足を運んだのは、その翌日のことだ。彼は保倉から聞いた話の裏を取りに来たのだった。町の西側はかつての工業団地だ。ひと気のない虚ろな建物の群れは、浜辺に打ち上げられたクラゲを思わせる。彼はそのうちの一棟に用心深く近づいた。今回彼が持ってきた獲物は手斧一本。前回の仕事のあとで、まだ十分な補充が住んでいなかった。
「せーの……ニャーン」振りかぶった手斧の一撃で手近な窓ガラスを破壊。桟を踏み越して中に入る。広いホールに装置の類は残っていない。今ここで機能しているのは、かつてとは似ても似つかない別の仕組みであり、別のルールだ。それには日の射さないねぐらがあれば十分だった。
奥から朗々と人の声が響いてくるが、何と言っているのかわからない。それは異国の言葉にも聞こえたし、はたまた獣の唸り声とも思えた。いずれにしても、彼の目指すものはその声が聞こえてくる先にあるのだ。
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「√ ̄\§ ̄ζ/}?」
決然と歩き出した何でも屋に、背後から声をかける者があった。
振り返ると男が二人、こちらへ向かって歩いてきていた。薄暗い中に彼らの目だけがギラギラと光って見えた。男たちの片割れが今話した言葉は、恐らく行く手から聞こえてきているのと同じだ。それはわかる。だが一体何を話しているのか?
「悪いけど、もう一度言ってもらえないかな」
「ここでは人の言葉を使うな。猫の言葉でいろ」今度は理解できる言葉が返ってきた。
「ナーオ。ニャーゴ。フナー、フナー。ギャフゲロハギャゲバ」なんでも屋が言った。
男たちは顔を見合わせ、また彼には理解できない言葉で話し始めた。それを見たなんでも屋はきびすをかえすと、建物の奥へ向けてさっさと歩き出した。構内の壁の至るところ、解読不能の記号が書かれている。つまりこれが猫語、猫文字というわけだ。まったくもってふざけていた。
保倉の話によれば、この廃工場は一月ほど前から猫原理主義者たちの根城と化しているのだと言う。人類を猫によって管理されるべき家畜と位置づけるカルティストである。信仰するだけならまだしも、最近では暴走した猫を囲っていることも多く、性質が悪い。こちらが猫を保護しようとすると、彼らは武力で以て抵抗に及ぶのだ。そしてこの場にいるのは、掛け値なしにその手の連中なのだった。
ホールを抜けて事務所らしき一室に入ると、背後から駆け足に迫ってくる足音が聞こえた。扉の脇に退いて身構える。途端にドアが開き、先ほどの二人組が部屋の中に躍り込んできた。死角から躊躇なく殴り倒す。鐘を打つような手ごたえ。しまった。殺したか? そう言えばこれまで頑丈な猫の相手ばかりで、カルティストを殴りつけたことなどなかった。
いや、大丈夫だ。男たちがまだ呻いているのを見て、なんでも屋はその頭を蹴り飛ばした。彼は内心安堵を覚えている。確か前にもこんな風に、目の前の相手が生きているか死んでいるか悩んだことがあった気がした。
廃工場の内奥へ進むにつれ、そこには段々とひと気が増えていった。しかし、彼が呼び止められることはもうなかった。皆が皆、自分のしている儀式的行為に没頭していたからだ。裸になって全身に草の汁を塗りたくる者(恐らくこの草はマタタビだろう。カルトにありがちな教理だ)。鎖に繋がれた犬を複数人で囲んで、思い思いに罵倒する者。高所に設けられたわずかな窓の明かりだけが、それらの邪悪な間借り人たちを照らしていた。それにしても、気のせいだろうか。長方形をした建物のはずが、徐々に両側の壁が狭まりつつある。
なんでも屋は奥へ奥へ進む。今や左右の壁は顔と同じ幅まで狭まり、彼の体は飴のようにしなやかに壁面をのたくっている。彼自身とっくに気づいていたことだが、廃工場内には薬物を含んだ煙が充満していたのである。今の彼には壁に書かれた文字を、触覚を使って読むことができた。そこにはこう書かれているのだ。ナーオ。ニャーゴ。フナー、フナー。ギャフゲロハギャゲバ……。
概して薬物の効能は波がある。気が付くと彼は儀式の秘伝「祭壇の間」に立っていた。周囲には薬物の過剰摂取で倒れ伏した人々の姿がある。部屋の中央には厳めしい五徳があり、その上で古びたドラム式洗濯機が回っていた。構内でただ一基だけ灯った水銀灯の明かりが、さながらスポットライトのようにそれを照らしている。それとは即ち、カルトの信仰を一身に集める猫であり、蜃気楼を生ずる魔女の大釜であった。
原理を説明しよう。市販の洗剤のうち特定の銘柄のものを三種、決まった比率で混ぜ合わせると、激烈なる化学変化によって幻覚作用のあるガスが発生する。長らく裏社会の住民によってクレンザーと呼び慣らわされてきたそれは、一時期社会問題にまでなった。その後発売元が件の洗剤を残らず回収したことで、事態は沈静化を見たはずである。が、恐らくこの廃工場にはまだ、その妙薬が大量に備蓄されているのだった。仕方がない。ジャンキーとはそういうものだ。
なんでも屋は猫と対峙しておきながら、斧を握る手にほとんど力が入らないことに気がついた。わかっている。薬の吸いすぎだ。もはや自分も長く立ってはいられまい。彼は部屋の中央に向けて一歩踏み出す。ドラムの回る音が溜まらなく耳障りだ。正面から見た洗濯機は宇宙服のメットに似ていた。暗いメットの表面を透かして、その向こうが井戸になっているのが見えた。井戸の底には男が立っていて、こちらを物欲しげな目で見ている。わかっていると思うが、最後のは幻覚症状だ。
「見てろ……お前……この、ナーオ」
毒づきながら、なんでも屋の意識はひどく混濁していた。思い出すのは十代の頃。怪しげな行商人から部品を買って猫を組んだ。いつもの場所から猫売りがいなくなることをしきりに恐れていた覚えがあるが、それでも夕方になると猫売りはちゃんとそこにいた。おかげで猫はちゃんと完成した。形といい厚みといい文庫本に似た、小さな猫だった。
初めて電源を入れた時のことは今でも覚えている。ダイヤルを回すと、スピーカーから弱弱しいながらも鳴き声が確かに聞こえた。三色のランプが、多彩な情緒の働きを反映して順に光った。それを見て彼の胸は躍った。何だか叫びだしたいような、泣きたいような気分だった。もう遅い時間だったので、明日朝起きたら名前をつけてやろうと思った。次の日目を覚ますと猫は煙を吐いていて、三色のランプは消えていた。猫が彼の呼びかけに答えることは二度となかった。
なんでも屋はいまだに、あの名前のない猫のことを考える。あれはどこから来たのか。あれはどこへ行ったのか。どうなんだ。お前は答えてくれるのか、コンピューター? 男は洗濯機に一歩近づく。ひょっとするとお前があの時の猫なんじゃないのか。でもそんなわけないか。また一歩近づいた。洗濯機はグルグル回っている。なんでも屋は輪廻転生を信じていない。まして人工知能が生まれ変わるなど。一歩踏み出す。洗濯機は相変わらずグルグル回り続けている。けど、どこに行ったのかわからないのなら、探すしかないだろう。
もう斧が届く。彼は洗濯機に向けて鉄の塊を振り下ろした。壊れない。もう一発。もう一発。ドラムが砕け、中に入った水が噴き出した。
なんでも屋は遂に斧を取り落とした。自己崩壊に恐れをなした猫が洗濯機からチップを射出するのを、最後の力を振り絞ってキャッチする。洗剤に浸ってしまうと一大事だ。そして彼自身も床に倒れた。つなぎが水を吸う。徐々に重たくなっていく。朦朧とする意識の中で、なんでも屋は自分が波間に浮かんでいるところを思い浮かべた。指で摘まんだチップを水銀灯の光にかざして、じっとそれを見つめていた。