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ただの女の子だったわたしが「つくる、つながる、とどける」ができるようになるまで

1月の展覧会に向けて、額縁屋さんに2回行った。
2回とも高校の同級生2名が店員になっており、約10年振りの再会を果たした。

今ではnoteで「記事から絵の、絵の人」として私の絵を見たことがある・描いたものはすぐわかると言って頂ける機会が増えたが、私はずうっと画業は全く芽が出なかったし、ものすごく大人しい子どもだった。今日はそのあたりを書こうと思う。

もともと絵は小さいときから描いていた。近所のおもちゃ屋さんのお人形コーナーが大好きで、水族館のアーチ型水槽のようなかたちをした、白と淡いピンクで構成された空間にびっしりとリカちゃんやらジェニーちゃんやらが陳列されている小さな世界に心を躍らせていた。その影響で、紙の着せ替え人形や塗り絵を好み、ドレスを着ているお姫さまばかり描いていた。小学校低学年頃にはセーラームーンが大流行しており、りぼんとなかよし、るんるんを購読していた。

マンガやお人形に心をときめかせていた頃の性格は、内弁慶。小3頃には同年代で話す人はほとんどいなかった。机を島型にしてグループをつくらされる給食の時間では無言で食べるせいで「清世ちゃんがいるところはいつもお通夜」と言われ、朝の登校時間に向かいの家の子に挨拶をすれば私が声を発したことに引き気味でからかわれた。小5の頃には、今日は何人と話せたかカウントが片手で出来る程度に大人しい性格が出来上がった。

私自身は元来、集中するときは集中するが基本的にのびのびした子だと思う。大人しい性格が形成されたのは、母の影響が大きい。

母は過保護で、5W1Hを全部使って遊びに行くことを伝えなければならなかった。いつ・どこ・だれ・なに・どのように・何時までに、である。
加えて干渉してくる。車で送っていこうか?迎えにいこうか?と全部母のターンが続く。友達だけで遊びたいと伝えても、自転車は危ないだの子どもだけは危ないだの迎撃が来る。母親として温かく育ててくれたことには恩を感じているが、毎回主張するのに子どもながらに疲れてしまい、とうとう友達だけで遊ぶことを、外に出て遊ぶことを諦めた。

本当は、友達と遊びたかった。
自転車で風を切り仲間と好きなように出かけたかった。
通学路に駄菓子屋さんがあり、この地域の子供はみな放課後には自転車で集合し遊びに行くのが鉄板だったが私は一度も経験しないまま大人になり、駄菓子屋さんはいつのまにか潰れていた。


人とのコミュニケーションがあまり取れなくても変わらずお姫さまや女の子のイラストは続けており、小3~4ではマンガクラブを選んだ。ちょうどその頃TVアニメで『るろうに剣心』を知り、単行本を集め、単行本が追いつけば週刊少年ジャンプを購読するようになった。小学生ぼっち生活と相まって、マンガやアニメに傾倒した。

中学では美術部に入部。運動もコミュニケーションもあまり出来ず絵はそれなりに好きだった私はそれしか選択肢がなかった。

美術部では油絵を初めて描いたり、マンガ好きな子ばかりだったので二次創作同人誌をつくって回覧したりしていた。コミックライブ(名古屋のコミケみたいなもの)に初めて行ったのもこの頃だ。

ここまでは、一度も絵画やアートに触れることのない人生だ。どちらかというとマンガアニメだし、当時は〇〇になりたい、みたいな目標も持てなかった。ナントカ賞にも入選したこともなく美術の成績も5段階で4か5、人より少し上手いくらい。緩慢とした人生で、絵やイラストが続けられたらいいな程度だった。

ちょっとした転機は中3の写生大会だ。
わが校では1~2年生は校外、3年生は必ず校内がテーマで、校舎を描く子が多いなか私は縦長の構図で、雲のない晴れた空と電柱に、校舎は右下の隅に少し入っているだけの絵を描いた。当然テーマにもれているので40人近くいたクラス内投票では2票とかそこらへんだったと思う。一番人気は勿論別の子だったが、投票が終わった後にクラスで目立つ子がひとり駆け寄ってきてこう言ったのだ。

「私は清世さんのこの絵が、すっごく好き!上手く言えないけど、本当に好き!!」

普段交流が殆どない子で、彼女は元気で、わたしはいわゆるスクールカーストが下の方で大人しい方だったのですごく意外だった。同時に、めちゃくちゃ嬉しかった。

誰かひとりの心を動かした、初めての経験だった。

受験シーズンになり、志望校を決める頃。地元の進学校かなぁと思っていたら、父がふいに「名古屋に美術科がある高校があるぞ」と話をもちかけてきた。その高校は県内で唯一公立美術科があり、美術科専用の実技棟(アトリエ)もあるところ。普通科は県内トップでそれこそ京大や東大に進学する人が集まっている学校だった。

そもそもわたしの地元は商業・工業・農業高校、普通科進学校がそろっており進学に困らない地域で、名古屋に進学する人はかなり少ない。

そんな中で父もよく話を持って来たなぁと思ったが、絵は続けたいし描いていられるなら行ってみたいと思い、進学を決意。美術科受験では鉛筆による石膏デッサンが実技科目のため、生まれて初めてまともにデッサンを始めた。

画塾に行く期間も無いのでデッサンの本を買い、本に載っている石膏像とデッサンを見比べながら模写して練習した。学業成績は良かったので推薦入試の資格は得たが、付け焼刃では推薦での実技に間に合わず落ちた。あとは一般入試しかない。当時半泣きだった私は中2まで美術部顧問だった恩師に手紙を書いて泣きついた。その返事はこうだ。

「泣いている暇があったら描きなさい」

毎日デッサンの本を見て描き、(おそらく)ギリギリで合格した。入学後に知ったことだが、みんな英才教育的に幼い頃から絵画に触れている人が多かったので、私の合格は今でも運が良かったと思っている。

高校で日本画やクロッキー(速描)を知り、人と関わり新しい世界を開き、そして、コンプレックスが生まれていく。

入学して初めてのデッサンで、自分がすごく下手なのが身に染みた。人より上手くて自信があるやつばかりが集まっている40人1クラス。絵や画家の知識もみんな持っている。そんな中、ちょっと絵が好きで描いていただけの私は、下から数えたほうが早かった。

ちゃんと特訓を始めたのは高1の5月あたり。腹痛で昼過ぎに早退した日だった。乗客がまばらで、車内で気を紛らわすためになんとなくクロッキーをしてみたのがきっかけだ。
担任が「自分の身長くらいクロッキーをしたら、絶対上手くなる」と言っていたのを思い出し、それからほぼ毎日帰りの電車でクロッキーをした。
乗客に好奇の目で見られて恥ずかしかったから、イヤホンでナンバーガールを大音量で聴きながら描いていた。もっと上手くなりたくて、はやくみんなに追いつきたくて、一般科目の成績を捨てて授業中にもクロッキーをするようになった。

デッサンも上手くなりたくて、始発に乗って朝7:00の早朝石膏デッサンもするようになった。朝に電車で寝て、目が覚めたら抱きかかえていたリュックに涎の水たまりができていたこともしょっちゅうあった。
始発早朝デッサン・授業中こっそりクロッキー・授業後アトリエでデッサンまたは実技課題・帰りは電車内クロッキー。これを3年間続けた。

が、時間を駆使しても「上手い人」にはなかなかなれず、クラスの子にがんばりだけを応援されることが多かった。
視線や言葉の端々に憐れみを過剰に感じてしまい、仲良くなりたい一方で心から仲良くなりきれない、なってはいけないとでもいうような抑制した友情があった。

周りも同じように練習をして上手くなっていくし、あまりアトリエに寄らない子が高く評価されているのを横目で見て心底羨ましかった。なんでなにもしてない(ように見える)人が上手くて、自分はいつまでも上手くならないのかと汚泥のような気持ちを抱いた。
noteでたまに私のことを才能があるとコメントを下さる方もいらっしゃるが、こういうクソ汚い思いを飲み腹を下しているから、私は自分に才能があるとは今でも思わない。『左ききのエレン』は心がえぐられすぎて読めない時期がたまにある。

嫌な気持ちがあってもクロッキーは素直に続けており、鉛筆と紙を持って人をみる・描くのが好きになれた。疲れてうとうとしたお兄さんや、新聞を読むくたびれたスーツのおっさん、セミロングヘアがきれいなお姉さん、シャカシャカ音が漏れるイヤホンの学生。電車でいろんな人を見て、なんとなく佇まいの「良さ」を見つけて、描く。その時間は静かで楽しかった。

かつて人の輪を求めることを諦めてしまった自分が少しだけ救われるような心持でもあった。

人を描く力ができていたと実感したのは、実は予備校時代だ。

学業と大学受験向けのデッサンをおろそかにしていたせいでひとつも大学に受からず浪人生になった。さすがの父も私のことと経済を心配し、もう一年がんばるか!と千種にある有名な美術予備校に入学させた。

ある講師が私の人物着彩(人物モデルの水彩デッサン)を見て
「ああ、あなたは『受験の課題』じゃなくて、『絵』を描いたんだね。」
と言ってくれた。

それはお受験向けの構図や描き方では全然ないし、全身が画面に対して小さく配置され、周りと比べると全く迫力のないものだった。でも、目に留めてくれる人がいた。自分が時間をかけてやってきたことが少し報われたようで、そうか、私は人を描くのが得意になってたのかと気づいた。

とはいえ受験で人物の絵が描ける程度では合格はほど遠い。予備校でも一軍二軍と分けられ、私は二軍で真ん中より少し下のレベルだった。高校の同級生も何人か同じ予備校に通ったが、一軍にいる子のほうが多かった。

高校3年間の下地はあるはずなのに、人物以外はポンコツの予備校生。
上手くならないまま受験も近づく。この頃には学科は完全に落ち目で、分数の割り算もあやしいレベルだった。ギリギリ土壇場で静物デッサンを底上げし、前期試験に全落ちし、京都2校の美大・後期受験。学科試験の無い人物着彩だけで合格。もう一校は2位で合格していた。


晴れて大学生となったが、あまり楽しくはなかった。
大学講師はだいたい絵画協会に所属しており、わりとその系統に寄せたものを評価する。その旧来然とした内容にピンと来なくてこれからの制作に詰まり、周りはうまく学んでいることに迎合できず2回生の後半から大学に行けなくなった。自分の進学への目的や見通しが甘く、大学は絵描きのなりかたを教えてもらうところではなかったと知った。大学の図書館で昔のフランス映画を観る日とバイトの時間が増え、不眠になり、3回生の半ばで精神科に一時期通っていた。バイトが増えた功労のひとつは人見知りが改善されたことだった。

それでも卒業はしておきたいという元・優等生の血は流れており、卒業論文の代わりとなる卒業制作はうだつの上がらなさを振り切って3日ほど徹夜して50号の自画像を描いた。品評会で泡を噴いて倒れたらしく、実は今でも卒業制作前後の記憶がすこんと抜けている。

こんな非リア充の学生生活だったので、就職もうまくできなかった。恥を忍んで書くが、当時総合職も総務も営業もなんなのかわかっていなかった。
契約社員で大阪の百貨店テナントで販売職をして、いままで一度も経験してこなかった満員電車とタテ社会の理不尽さに精神がついていけなくなり通勤電車でめまいを起こし開店前の売り場で突発性難聴で倒れ、即入院した。
一週間の入院をし、仕事を辞めるかすぐ復帰するかの2択を病室で迫られ「あ、辞めます」と即答した。

退院時には母が付き添ってくれた。先述の通り自分のターンを押してくるタイプの母が、この時は一言も喋らず阪急電車を乗り継いで下宿先まで一緒に帰った。私は難聴の後遺症で歩くのがままならず疲れてしまい、すぐ横になった。母が静かにドアと窓を開けてくれて、風の匂いを感じたとたん、自然に涙がこぼれた。

暫くのあいだ優しい初夏のにおいと、ゆったりなびく白いカーテンと、自分のすすり泣く声だけが部屋に渡っていた。
このときの静寂な情景は今でもはっきり覚えており、私が絵で感じてもらいたい「安心できる心の状態」のイメージソースになっている。


話は戻り、絵のこと。
このあたりで高校同窓生のグループ展のお誘いが来るようになったが、当面の生活費も稼がなくてはならず断らざるを得なかった。
30分以上の電車通勤が怖くて出来なくなったし、退院後も難聴は完治しておらず1ヶ月の立ち仕事にドクターストップがかかっていた。
タウンワークを見て電車15分・時給1000円の庶務と経理事務を兼ねたような一般事務を選んだが、だんだんブラック企業とわかったうえに上司Oさんが鬱になりワンオペが増えた。いわゆるただの事務バイトなのに契約して2年目には7:00~22:00くらいまで働いていた。Oさんに掛け合い「私も辞めるからOさんも辞めましょう」と言ってふたりで辞めた。最終月の時給は2200円だった。
この頃にプライベートで出会った人たちは今でも交流が続いており、私にとってかけがえのない人になっている。

良い出会いもある一方で、同窓生は晴れやかに結婚したり制作活動を続けたり、先生になっているのを知り、時間もお金もない自分がとても惨めな気持ちになった。描きたい気持ちはあるのに追いつかない。他人と比較する感情や、手段も目的もちぐはぐなどっちつかずの生き方が嫌だった。人知れずこのまま消えてしまいたいと思うときも多々あった。かつて切磋琢磨していた高校の同級生が活躍する様子が眩しく見えて、段々疎遠になった。

絵を描いて生きるのは、夢のまた夢だった。

ブラック事務を辞めたあと、定時上がりのホワイト事務バイトを始めたタイミングで大学時のバイト先の社員さんが持っているギャラリーでの個展の話をいただいた。破格、京都市内だから搬入出もお金かからない。やってみたいからやろう。20代後半、4月あたりのお話しだった。

5月はホワイト事務で細々と生活を賄い、夕方には帰って制作をする日々を続けられていたが、6月になり事態は急変する。

地元に住む父が末期ガンになった。
父本人から電話をもらい、愛知に帰り父に会い母を支え、時折京都に戻り制作、の往復が続く。事務バイトも謝り倒して突発的に辞めた。幸い人に恵まれており、電話口で退職を伝えたにも関わらずとても心配してくれた。
個展はなんとなくで話を受けたが、もう父に届けるものだと心が決まり描いた。日本画も水彩も、描いたものは全て父が安心して眠れるように、泣きながら想いを込めていた。

10年ほど前の、7月下旬。
個展で描いた絵のポストカードをたくさん棺に入れた。

私はnoteで自分の名前の後に「会いに行く画家」と記していた時期がある。それは、もう二度と会えない大切な人がいるからだ。今も内にある想いは変わっていない。


母を支えるために京都の家を払い、履歴書デュエルで白旗を上げられる状態で愛知に戻って来て、とにかく精神的に母を支えなくてはならないという一心ですぐに帰宅が可能な徒歩5分のバイト先で働く。
父が亡くなる前年には祖母が亡くなっており、葬儀費用と引っ越し費用の返済がある。掌をじっとみても裕福にはならないのだ。絵筆は3000円くらい。和紙は約1万円。絵具は数色買うと少量で7000円くらい。公募展の応募費用は平均1点1万円で、大きいのしかダメ。展覧会やるなら会場レンタルは数万円~数十万円。絵を描く機会はまた、遠くなった。

正社員で安定を得る道もあったが、性格的に正社員の仕事に就くとそちらに義理と責任を果たす方に意識が向かってしまい絵は続けられないと思い選択肢に入れなかった。

途中で生活費捻出のためにコンビニ副店長をするも、朝4:30起床、5:30発注、勤務時刻は6:00~9:00と17:00~24:00、学生バイトの窃盗・朝4:00の夜勤バイト逃走確保依頼・店長の暴言を度々経験し心身が限界になり2年で辞めた。
内部で限界があったものの、コンビニでは常連のお客さんの挨拶や何気ない数秒の会話で心を温めていた。いつもどおりがそこにあるという良さを実感したし、応援してくれる人によって私は支えられていた。


ようやく束の間の平穏が訪れたのが今から5年ほど前。派遣社員として定時上がりの企業博物館アテンダントの仕事に就いた頃だ。

朝起きて夜に眠れるのがこんなに幸福だとは思わなかった。
やっと絵のことに集中できると思い、絵や副業を検索する時間が取れるようになった。ワードプレスを始めたり、情報商材やビジネス、起業のことを少しずつ勉強するようになったし、ストックイラストのためにデジタルイラストアプリもケータイに入れた。

色々学んでいるときに出会ったのが起業家のSさんと、彼から教えてもらったnoteだ。noteを始めて現在1年半、ちゃんと扱い始めてから半年ほどになる。

Sさんから教えられたnoteのメリットは「記事の販売ができるよ」「みんなのフォトギャラリーで自分の絵を知ってもらえるかもよ」のふたつだった。
かんたんなイラストの販売だったらできるかなあと思い、本当になんとなく始めた。はじめはよくわからないまま書いていた。

なんとなく始めたnoteで最初に続けたのが、無職が一か月で絵で稼ぐ記録だ。企業博物館の仕事がコロナで無くなり定額給付金の事務契約が繰り上がり、次の仕事が始まるまで、まるごと一か月無職が確定していた。この頃は文章を書くのに慣れていなくて淡々としており、今読むとちょっと恥ずかしかったりする。消した記事もあるので最初の方は殆ど覚えていない。

無職記録以外にもぽつぽつと書いており、なんとなく鉛筆で描いたものにデジタルでサッと色をつけて、見出し画像に使っていた。
たったこれだけの簡単なカットでも見てくれる人がいるのだとわかるとうれしかった。
ある方から絵が好きとコメントを頂けて、「あ、自分は絵を描いていていいんだ」と思えた。


私は自分で気に入っている記事がある。
1年ほど前に書いた「鉛筆はロックだろうか?」という記事だ。
これは、とある方のロックとは何かという考察記事を読んで改めてロックについて考えたくなって、訥々と書いたもの。文章は拙いが長いコメントをもらえたことに驚いたし、嬉しかった。記事として文章にアウトプットすると、自分の身近にある鉛筆の存在ってすごいかっこいいなと改めて実感した。

ブラック勤務の期間も、デジタルを練習している間もいつか日本画をもう一度描きたいと思っていたがそのような機会はずっと無いまま、燻っていた。瓶に詰められた美しい絵具はずっと棚に飾ってあり、目に入るたび、また描きたい描けるようになりたいのに目処が立たない澱んだまなざしを向けていた。
そのもやもやをずっと解消してくれていたのが、鉛筆と紙だった。

誰に見せるでもない果物デッサンをしたり、ネットで人物写真を見てぴんと来たものを描いたりしていた。鉛筆1本と紙があったら、大がかりなものでなければ描ける。周りが大成しているところから外れてしまった私にとって、インターネットと鉛筆と紙はちょっとした希望だった。
鉛筆はロックだという主旨の記事を書いて、そんな小さな希望を気づけた喜びもあったし、好意的に捉えてくれる誰かと繋がれる喜びもnoteにはあった。幼い頃の自分が形成出来なかった、「自分と友達がいるせかい」がつくられはじめた気がした。

変化がもう少し広がったのは、企画に参加してからだ。「自分にとってのnoteという街」という企画に参加した。

当時は数人程度と交流をすることが増えていて、街という表現がかわいくてしっくりくるなぁと思った。少しずつ人に見てもらえるようになって、文章や絵をつくってつながれる楽しさを知っていった。

2021年4月にはインスタライブを始めて、noteの人たちがちらほら来てくれた。端的に言えばただ酒を飲みながら喋って描くだけのライブ配信にゆるく来てもらえるのはコンビニ時代に常連さんがふらっと寄って喋っていく感覚に似ており、不特定多数のnoteの街にいる人たちとの距離が近くなって嬉しくなった。絵で喜んでもらえるというこれまで数えるほどしかできなかったことを経験できたのも大きかった。前よりも、絵を描いていていいんだと思えた。


最も大きな変化があったのは、2021年5月から。
自分でnote企画をしたことだ。

第一回 あなたの記事から絵を描きます」(通称:記事から絵)という企画だ。

人の企画を見て、コメントを全力で返している様子や作曲している様子が楽しそうで、あ、私も絵でやってみたいなぁと思ったのが最初だ。

初めて企画として記事を公開するときはドキドキが止まらなかったし、胃が痛くなった。誰も来なかったらどうしよう。また私の価値は無くなるのだろうか。怯えながら投稿をしたら、かなり早いタイミングで一人目の方が参加のコメントをくれた。

そこからぽつりぽつりと日頃交流していた方から参加コメントを頂き、その間に一人目の作品が出来上がった。出来上がりを公開するときも緊張した。これでいいのだろうか。ぱっとしない、思ったのと違う、好きじゃないと言われてしまったら。反応が気になる一方で、自分が感じたことはこれなんだ、という気持ちもあった。喜んで貰えなかったら描き直そうと肚を括り、投稿ボタンを押した。

1人目の作品は、記事を書いたご本人にとても喜んでもらえた。当然喜んでもらうために描いているのだが、やっぱり好意的な感想を頂くとほっとする。大きな安堵のため息をしたのを覚えている。1人目の方はフォロワー数が多く、その方が感想記事を書いた途端、一気にコメントや参加したいという方が増えた。自分の絵が、絵の存在が、こんなに驚いたり楽しんでもらえることに驚きや喜び、、嬉しいときの全ての感情が咲いた。

10人くらいかなと思っていたら最終的には24名で驚いたし、初めましての人も垣根なく参加してもらえた。さらに驚いたのが描かせてもらった人の感想だった。

・涙が出ました
・何も伝えていないのに一番描いて欲しかったシーンを描いてくれた
・何も言っていないのに自分に似ていて驚いた
・何も言っていないのに自分の家族に似ていて驚いた
・何も伝えていないのにオーラ判定と同じ色で驚いた

自分としてはこれかなというものをふわっと選んでいるだけなのにこれほど喜びの感想を頂けるとは思っていなかったし、届けという想いがちゃんと伝わったこと、絵でだれかとコミュニケーションを取れた経験や制作頑張ってねと言われたことがとても嬉しかった。社会人になってから、絵を通して多くの人と関わることができたほぼ初めてのことだったと思う。
感想記事やコメントを何回も何回も読み返しては嬉しさがこみあげ視界が涙で滲んだ。これは今でも変わっていない。

次にやった企画は7月「100人を描く路上の旅(通称:路上100)」。鉛筆と紙だけで路上に出て500円で「今日のあなた」を描くという企画だ。noteで企画をして、オンラインコミュニケーションが絵で出来たから、今度はリアルでもやってみたい。それだけの気持ちで飛び出した。

ずうっとがんばってるねと言われるだけでいつまでも上手くなれなかった、描けないと思っていた私が、がむしゃらにたくさん描いて数年に一人くらいのペースで描く力が認められていき、ようやくnoteでたくさん応援してもらい、やっと鉛筆1本で勝負できる自信と決心がついたから路上に出れた。

愛知に来れない人もたくさん応援してくれた。
絵を見てもらえるだけでも嬉しいのに、Twitterやnoteで拡散していただいたり、ネットプリントでQRコードつきの看板チラシを送ってくれる人もいた。鉛筆をダースで贈ってくれる人、お客さんが座る椅子を贈ってくれる人もいたし、鎌倉から日帰りで差し入れを持ってきてくれた人もいた。そうしてnoteの皆に支えられて路上に立てた自分の目の前に、通りがかっただれかが「描かれたい」と椅子に座ってくれた、あの光が射すような喜びは忘れられない。人と比較ばかりして虚無な世界に陥っていた自分が、noteで繋がった人によって勇気と希望を持てた。

夢が現実に変わる瞬間を、見た。

路上からnoteの街に戻り、今度は自分の絵からコミュニケーションをもらいたいと思い、「絵から小説」という企画を立ち上げた。
私が描いた3種類の絵から自由に創作してね、という内容だ。これも10人くらいと思っていたが結果は約90名近く、作品点数は123点にのぼり本気でびびった。何かを表現したいけどできなくて悩んでいる人がたくさんいることを知ったし、ずっと日の目を見なかった自分の絵からこんなにたくさんの人が何かを感じ、想起し、創作で対話をしてもらえることは言いようのない喜びだった。言葉ではなく創作によるコミュニケーション、「感性のやりとり」でいろんな人と遊べた。

小規模な企画として「京都駅にて500円であなたを描きます(京都1DAY)」や「第二回 記事から絵」も行って、その都度応援してもらえた。
前よりもじっくり記事やその人と向き合ってお話しをする時間ができて、自分が絵で描いて続けていきたいことの輪郭がはっきりしてきた。絵は、コミュニケーション。感性のやりとり。
ここまでできたのは創作と創作者のパーソナリティに重きを置くnoteという場所だったからなのだろう。

路上以降はnoteやインスタグラム経由で少しずつデジタルアイコン依頼のお仕事が来るようになり、企画に参加いただいた方から起業祝い用の日本画制作の依頼が舞い込んできた。アイコンのご依頼から話が進み展覧会で企業協賛をしていただける運びも生まれたし、展覧会と連動して日本画を描かれたい方を募集したところ、8名の方からご依頼を頂いた。描きたかった日本画が描けるようになった。これを書いている本人が一番驚いている最中だ。

私にnoteを教えてくれたSさんも、私のことを「知り合った頃はほんとにただの女の子で、全然自信がなかったよね」と言っている。

note企画の投稿を読みに行くことを私はよく「noteを走る」と表現している。企画の公開をするときは小学生が「みんな、あーそーぼ!」と言うのと似ているだろうし、noteを走っているときの感情は、自転車に乗って友達と待ち合わせている駄菓子屋さんに向かう気持ちと、きっと似ている。

友達とうまく遊べなくて、大人しくて、自分にも自分の絵にも自信がなかったただの女の子だったわたしがnoteを通じて再び「つくる」ができるようになり、見てくれる誰かと「つながり」誰かの心に「とどける」ができるようになった。かつて夢だったものは現実に変わる。
泥のように生きていても光は射す。
人の存在が、希望になる。

数年前の自分が見たら卒倒するだろう。
当時の自分に言いたい。
絵は続けていいし、わたしは、あなたは、生きていいんだと。



先日、展覧会の額装をしに額縁屋さんに行った。
高校の同級生2名が店員になっており、約10年振りの再会を果たした。

私は、笑顔で額装を依頼した。


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清世/画家
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