「分かり易く」が「事実の歪曲」になる日本の情報 ~イスラエル報道を通して~
以前の記事でご紹介しました、イスラエル在住のテルアビブ大学講師、山森みかさんのラジオ番組でのお話を、再びご紹介します。数日前のこのインタビューも、前回と同じように、とっても学ばされ、考えさせられました。
彼女自身が、Xのほうで、ご自分の今の感想を以下のように述べています。
彼女は、イスラエルの地以上に、日本の未来を案じているとして述べています。これは、私が常日頃から日本について感じていたことです。つまり、「事実を、有体に、そのまま伝えるべき」という規範が、日本ではかなり希薄だということです。この問題が、イスラエルや中東に関することでは、余計に顕著に表れていると思います。
報道を「物語」にしてしまうディレクター
私の知人が、かつてテレビ局で通訳の仕事をしていました。そこで、どのようにニュースが構成されるかの現場を見ました。ディレクターが、すでにストーリーを持っています。そのストーリーに合致するものを、いろいろな方法で集めてきます。その諸部分には、必ずしもつながりがないのにも関わらず、継ぎ接ぎをされて、まるで文脈や背景を無視した形で、実情とは別のいわば「物語」として、報道という名で発信されるのです。それが、イスラエルからの報道では、如実に出てくるようです。
私は、昨年、駐日イスラエル大使に単独インタビューをさせていただきましたが、このことを強く感じていたので、事の是非を問わず、イスラエルがどのように感じ、また思っているのかを、有体に伝えるべく質問し、また記事化しました。ほとんど、文字起こしの内容です。
「分かり易く」する中で、事実を改変
日本の報道や出版界では、とかく、起こっていることを、「分かりやすく」あるいは逆に、「これは分かりにくいだろう」と、勝手に思いやって省いたりします。事実を素材にして「別物」を作るっていうことに、日本人は罪悪感を感じないのだろうか?と思うことがあります。その大きなきっかけになったのが、以下の本です。
キリスト福音派の本が、毒親を糾弾する本に!
この本、「邦訳」として、以下の本を訳したとされているのですが、実は重大な問題があります。
以下のウィキペディアに説明がありますが、原著は、キリスト教福音派の宗教書なのです。
ところが、宗教色の強いChapter 5の部分を完全に省いて出版しています。そのために、読者は宗教に関連があるとは、ほとんど思われておらず、原著とは誤った形で、使われたようです。毒親糾弾ブームを支える一冊になったという説明があります。
教会の賛美の歌が、原詩から離れている
日本の教会においても、何かそのような傾向があるように思えてなりません。日本語に訳された賛美の歌も、原詩とかなり違う内容のものが多いです。韻を踏まなければいけないのはわかりますが、異なる言語、例えば、中国語や韓国語に訳されたものはかなり元に忠実なのに、日本語だけが違うのです。例えば、
He is our peace who has broken down every wall,
He is our peace, He is our peace.
(直訳:この方は、すべての壁を壊された、私たちの平和
この方は私たちの平和、この方は私たちの平和)
☟
主イエスの 十字架の血で 私は赦され
御神と和解をして 平安を得ました
「すべての壁を壊された平和」とは、明らかにエペソ2章14節の言葉からなのです。「キリストこそ私たちの平和です。私たち二つのものを一つにして、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し・・」という文言なのですが、これはキリストにあって、ユダヤ人と異邦人の間にある隔ての壁が壊されて、両者が一つになり、平和をもたらしてくださった、という意味なんです。韓国語をお分かりの方は、英語のまま、訳されているのが分かるかと思います。
「分かりやすく」という動機で、そのことによって、事実とは離れていく、少しずつゆがめられたものを受け取らされているという問題が生じるのです。
イスラム主義が対抗する、聖書の「約束の地」
再び、イスラエルとパレスチナの話題に戻ります。
飯山陽博士(イスラム思想研究)による以下の記事には、モサブ・ハサン・ユーセフ氏の、アラビア語で書いたXポストに書かれていることを、解説してくださっています。
そこで、そのままアラビア語で書かれていることを、まず紹介しています。それから、イスラム主義についての説明と、ハマス憲章に書かれていることも紹介。それで、パレスチナの地が、ヨルダン川から地中海ままで、それが、神の定めた、イスラム教徒の地であるとしています。
けれども、彼女は、ユダヤ人は聖書にある「約束の地」を信じていて、創世記15章18節にある、エジプトの川からユーフラテス川までという境界を紹介し、それが、アブラハムの息子イサクに受け継がれたことも紹介。申命記1章7-8節にも、ユダヤ人に神がこの地を与えたことを紹介しています。ユダヤ人、また一般にキリスト教徒は、ここは神がユダヤ人に与えたと主張する、と述べています。
他の記事では、イスラエルやユダヤ人は、自らの起点を3000年以上前に求めており、それはイスラエル王国があったことにある、と紹介しています。旧約聖書だけでなく、考古学的にも確認されている、とも。
まさに、これがイスラエルの主張であることは、聖書信仰を持つ牧師・教師として、また聖地旅行にクリスチャンをお連れした団長として、核になっている知識だと、証言します。
しかし、日本では専門家もマスコミも、イスラエルが一方的に建国してパレスチナ人の土地を奪ったという事を起点にしており、パレスチナという国も、民族も存在しないのは歴史的事実なのに、イデオロギーで、イスラエルが悪、パレスチナが善と固定していることを、述べています。
初めの記事で、「「約束の地」から是が非でもユダヤ人を追い出し、ユダヤ人を殲滅し、イスラエルという国家を滅ぼしたい人たちが作り上げた存在です。」と述べています。エルサレムも、イスラムの聖地というのも事実ではなく、イスラムの聖地はメッカとメディナだとも。
彼女はこう述べています。
そうなんです、日本が本当に、ユダヤ人、イスラム教徒、そしてキリスト教も加えていいでしょう、そのどれでもなければ、「パレスチナの歴史観だけでなく、ユダヤ人の歴史観も紹介して、そこに善悪の判定をしない」はずなのです。ところが、中立、中立といいながら、パレスチナ側しか紹介せず、しかも、パレスチナというのが、歴史ではなくイデオロギー性に強い性質のものであることを無視して、伝え続けているのです。ここが、極めて歪んだところであると、私も感じます。
私は、聖書信仰のキリスト者
ところで、私は、自分の記事で、自分の立ち位置を明確にしています。キリスト者であり、聖書を神のことばとして信じており、その立場から、またキリスト教が過去にユダヤ人に迫害した歴史があるから、昔の過ちを繰り返さないという決意であることを、はっきりと述べています。そして、そうではない立場もあることを、十分に承知しています。
パレスチナの主張「一色」の異様さ
問題なのは、日本では「すべて」がパレスチナの宣伝になっていて、それが異様だということです。誰もかれもが、一色に同じ見方なのです。全体主義的なのです。私が英語で触れているものは、「どちらもある」というもので、両者の主張をぶつける番組があったりするのです。例えば、英国のジャーナリスト、ピアーズ・モーガン氏による、Piers Morgan Uncensored(検閲なし)という討論番組があります。
それが日本にはない。何か、私のような立場が、おかしく、狂ったようなもの、抹消なもののように捉えられるのです。
標準になってほしい、素材で勝負する報道
少しだけ、日本でも、ネット上では、テレ東などで、それぞれの主張をそのまま伝えたり、元米軍参謀にインタビューしたりするなど、「そのまま」という手法が取られているところに、私は期待を置いています。
そして、ガザの状況をまったく解説なしに、映像だけ流す動画をアップされたものも、見たことがあります。山森さんが言われた、「情報だけを、そのまま伝えることに、マスコミが徹してほしい」というのは、本当にそうだと感じるこの頃です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?