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ガザの死者4万人という数字の誤認 非難の矛先のあべこべ
キリスト者の方々の間でも、「ガザの死者が4万人以上」であるとか、「イスラエルは決して支持できない」とかいう人たちがいます。
まず、その数字について、ハマスの戦闘員とその家族が、8割を占めると、ハマスに関係の深い人物が明かしました。純粋な民間人は、2割のみかもしれないのです。
❗IMPORTANT ❗Israeli journalist Ohad Hemo:
— Aviva Klompas (@AvivaKlompas) October 7, 2024
“What they told my source inside Hamas, is that 80% of the total of the 41,000 people killed in the Gaza Strip—according to Hamas’ claim—are members of Hamas and their families. I mean, this is what is said within Hamas: 80% of the… pic.twitter.com/vE9YxBc8ms
そして、何よりも、次の方の意見がすべてを物語っています。
「ハマスのテロ襲撃の直後から、国際社会が一丸となってハマスに人質解放と武装解除を求めていれば、(カタールで贅沢三昧していたハマス指導者を拘束してそれを命じさせるなど)多くのガザ市民とイスラエル兵士は死なずにすみました。それを指導すべきだった国連は反イスラエル姿勢を取り続けました。」
ハマスのテロ襲撃の直後から、国際社会が一丸となってハマスに人質解放と武装解除を求めていれば、(カタールで贅沢三昧していたハマス指導者を拘束してそれを命じさせるなど)多くのガザ市民とイスラエル兵士は死なずにすみました。
— ユダヤ人と日本 / Jews and Japan (@JewsandJapan) October 8, 2024
それを指導すべきだった国連は反イスラエル姿勢を取り続けました。
完全に一方的に、大虐殺を行ったのはハマスです。それに反撃しているのがイスラエル。ところが、猛烈な非難をハマスに向けません。最大の圧力を国際社会がかければ、もっともっと、ガザ市民とイスラエル兵士は死なずに済んだのです。
被害者に非を探す非情
イスラエルに非が無いなど言ったら、もちろん、いろいろあります。けれども、一つの虐殺行為に対して、その被害者であるイスラエルを支持しないということは、例えば、北朝鮮が日本に上陸、1万6千人を虐殺して、数千人を拉致したということで、日本が対処している時に、「日本にもいろいろ非があるからね」と言っているのに等しいです。
もし性暴力の被害者に、「あなたにもこんな非がある」としたら、セカンド・レイプなんていう言葉を使うぐらいですが、構図は同じなのです。
本当に平和を望むならば、キリスト者として平和の使者であれば、第一に、イスラエルに寄り添うことです。第二に、ガザの人々がハマスから解放されることです。もし、すでにパレスチナの人たちに関わりを深く持っているとかという人であれば、見方はもちろん、自ずと変わるでしょう。けれども、日本に住んでいる人であれば、これが筋というものです。
以前、なぜ、ハマスを猛烈に非難しないのか、聖書的に、霊的に考察したことがあります。それは、人間がここまで邪悪になりうるということを、十字架にキリストがかかるほどに人は罪深いということを、人は直視できないからだと書きました。
<絶対的、圧倒的悪>を直視できない人々
聖なる神は、私たちの「罪」の問題を直球で取り扱っておられます。これを取り除かなければならず、それゆえ極刑である十字架の上でご自身の子を付けるという暴力的な方法によって、この方の肉体から血を流し、生贄とされるという残酷さをもって、取り除かれました。これが悪に対する、神の対処法です。これが罪の赦しの神の最終解決法であり、もしこれを拒むのであれば、生ける神の怒りの御手の中に陥らなければなりません。
ゆえに、神は悪に対して報いを与えられる方です。人に与える苦しみ、加害に対して、その苦しみをもって裁かれます(2テサロニケ1章6節)。このことは、キリスト者であれば受け入れている、神のご性質でしょう。しかし問題は、終わりの日に近づくにつれ、その不法がますますはびこり、人間がここまで堕落しているのか?と思われる程の罪を犯していることを受け入れ難いとすることでしょう。
他人(ひと)の罪と悪を見ていくことは、同時に、潜在的、実存的に、自分の内に潜む罪の深さも見つめていくことになります。ある意味で、他人の悪は、自分の悪の一種の拡大鏡のような役割を果たします。したがって、それが直視できず、「自分はそこまで罪深い”はず”がない」という前提を掲げてしまい、内側で反発しています。それで、悪に対処することを放棄してしまいます。
外部に悪を設定する責任転換
そして、そのような悪を行なうのは、「なにか他に原因があるからだろう」として、その人がそうなってしまったであろう環境的要因を探そうとするのです。それが、「貧困の結果」であるとか、「家庭環境」であるとか、「遺伝的要因」であるとか、「差別構造」であるとか、いろいろあります。これらは二義的な要因としては、その通りなのです。そして、貧富の差や不正義については、為政者や管理者であれば真剣に受けとめなければいけないものですが、一義的には「罪」が原因なのです。しかし、それが受け入れられない。「人間そこまで悪くないだろう。」と思う。
ハマス指導者層の豪奢については、こちらの記事を参考にしてください。