東洋陶磁美術館を訪ねて
とあるところで、天目茶碗の写真を見かけ、宇宙的な中にも魔的な魅力をたたえるその姿になんとなく魅せられて、今日東洋陶磁美術館に行ってきました。
美術館は中之島にあります。中之島の建物も中央公会堂など、趣向をこらした建物で楽しめました。大阪の「文化」を感じたのですが、
でも中央公会堂の建物に感じたのは、それとともに、「大阪で、こんなものができたんだよ」というような、少し「威信を見せびらかす」印象が建物から感じられ、もう少し「品」があってもいいのかな、でも、これが「面白がる体質の大阪」らしさかも、と思って眺めていました。
東洋陶磁美術館は初めて訪れたのですが、陶磁器を通して、さまざまに人間模様が感じられ、とても面白く拝見しました。
中は適度な人出で、作品に添えられた文章をひとつひとつ見る時間、そして、味わって作品を眺めることができたのも幸いでした。気づけば2時間の間過ごしていました。
天目茶碗の他に、中国や朝鮮半島の青磁や白磁、日本の陶磁器も常設展で展示されており、楽しみました。
面白いな、と思った気づきは、ある茶器に、「使用しているうちに、自然とお茶などのしみなどが浮かんでくることを「雨漏り」として茶人が好んだ」との説明でした。
飾って楽しむのではなく、使うことによって、年代を経ていく上での変化も美しいものとして感じる、その意識に気づかされ、
「お茶というのは、流れていく人生を楽しむもの、生活の風合いを楽しむもの」なのだな、と改めて思ったりもいたしました。
そして、目玉になっている「油滴天目茶碗」を見ていると本当に魔的な魅力を感じました。
その魅力は、やはり年月を経てその作品がもつ命、そして、持ち主の「気」や人生がそれに乗り移っていくかのような迫力、
もあるのかな、と思いました。
この天目茶碗は豊臣秀次がもっていたそうなのですが、現代に至るまでのその持ち主の人生も、天目茶碗の魔的な魅力が備わるゆえんなのだろうと。
朝鮮半島の青磁などの作品も楽しみました。臍の緒を壺に入れて、名山に託するというのは面白いな、と感じました。その壺も内壺と外壺があるのですが、どちらも大きなもの。
その壺に細かい小菊の模様が押印されていることは、小さなお子さんをイメージしてのものだろうか、と想像が膨らみます。
また、蓮、魚などが壺に描かれることが多いのは中国語の幸せをイメージする言葉と同じ音だから、というのも印象的でした。生活の中で使う器らしく、持ち主の幸いを祈るものなのが、なんとなく心温まります。
朝鮮半島のある王朝では、王室のための陶器をつくる部門のようなものがあったのですね。
確かに見て素晴らしい作品が多いのですが、陶工たちは作りたいものが作れたろうか、
世の皇帝に気に入られるための切磋琢磨でいいのだろうか、とふと思ったりもいたしました。
それは、ある時代の日本の陶磁器で、ヨーロッパに輸出するために作られた大きな壺を見た時も感じたことでした。美しいのですが、なんとなく浅いのですね・・・。
でも、力を感じる中国などの壺もたくさんありました。川端康成が持っていたという深い緑の色合いの作品も魅入られましたし、
もう一つは、志賀直哉が大きな壺を大きなお寺に寄贈したところ、「泥棒」が粉々に割ってしまった、それを小さなかけらを集めて元通りに復元している作品なども
その思いの力強さに圧倒されました。
年月を経て、物語をもつ陶磁器の作品は、やはりなんだか深い存在感があります。
陶磁器を見ながら、それをめぐるさまざまなストーリーを思い描き、また、その質感に見入っているうちに、なんだか気持ちがどきどきしてくるのを感じました。
宮廷で作られている素晴らしい作品も印象的でしたが、でも私は見終わって思いました。
本当に美しい器は、権力者に捧げられ、飾られたものではなく、
日々の生活の中で、大切に使われ、愛おしまれている器こそ、ではないかと。
そう思いながらも、やはり、魅入られるように、見てしまう「本物」の作品の美しさではあります・・・。