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牛小屋おじいさん
私が大学生の頃のお話。
私は東京郊外にある美術大学に通っていた。
大学合格が分かった数日後、私は父と一緒に日帰りで上京した。
目的は、下宿先のアパートを見つけるため。
大学の掲示板に掲載されたアパート情報を見ると、家賃はピンからキリまでといった感じだったが、財布のヒモを握る父としては、
「なるべく安いところ」を最優先に見ているようだった。
4万円前後の、安くて一応安全そうな物件を選び、不動産屋さんの車で数件まわってみたのが、正直私はどこもピンと来ず、しかも見てまわったところが軒並み「古い」「汚い」「狭い」「暗い」の どれかだったので、テンションは下がる一方だった。
ドラマ大好きっ子だった私は、かっこいい俳優やきれいな女優が東京のおしゃれな部屋を舞台にキラキラと恋愛模様を繰り広げる映像を食い入るように観てきていたので、東京にはそれはそれは素敵でかっこいい物件があって、そんなところに住めたらいいなあ、と夢描いていたのだけど、現実は厳しかった。
結局、東京居住歴のある父が全ての決定権を掌握、大学から徒歩15分の6畳一間のアパートに決められてしまった。「ここで十分。」と、父は豪語し、明らかに曇り顔の私に気付かぬ振りをしつつ大家さんと契約を済ませた。
実際のところ、家賃を払ってくれるのは父と母なので、お金払ってもらう立場としては「もっといいところがいい」なんて言えやしなかった。
全く腑に落ちない状況で長野に戻った後も、「私、あのアパートで本当に暮らすの・・・?」と思うと気分が落ちた。
狭いし、古いし、ベランダないし、洗濯機は外だし、ユニットバスだし、エアコンないし、しかもアパートの向かいには牛小屋がある。
牛小屋て・・・
あそこ、ほんとに東京だよね?
長野の実家周辺にすらなかった牛小屋が、東京にはある。これは結構な衝撃だった。
しかも窓の外には広々とした畑の風景が広がっている。
あそこ、もしや実家よりも田舎なのでは。。。
そんな訳で、牛の鳴き声と牛臭漂うのどかなアパートで、私の大学生活は始まった。
結局大学4年間と卒業後の1年間、計5年間そのアパートに住むことになるのだが、その日々の中で一番強く、深く、くっきりと心に残っている日がある。
それは、卒業制作提出の日。
美大というのは卒業するために卒業制作というものを作らなければならず、それは大学4年生のほぼ1年をかけて制作するという、まさに4年間の集大成のような課題なのだが、私はなんと、卒制提出日の前日まで作るものを定められずにいた。
1年もあった制作期間、一体なにやってたんだ? とお思いでしょう。
何やってたかって、
ずっと悩んでいたのです。
私は何を作りたいのか、何をやって生きていきたいのか、何に定めるべきなのか、
ぐるぐるぐるぐる
悶々悶々悶々悶々
悩み続けて早1年。
気がつけば、明日は卒制提出日。
。。。。。すっごいやばい。
提出前日まできてようやく腹をくくった私は、ホームセンターで買ってきておいた板と角材をぎこぎこと切ってつなぎ合わせ、前に撮ってあった写真と、その写真をモチーフにしたイラストを自宅のプリンターで印刷し、買ってきてあった額用のマットに貼付け、板と角材で作った畳1畳分はありそうな額縁らしき木枠にマットを組み込ませ、言うなれば
「ただでかいだけの混乱と混沌を感じざるを得ない作品らしきもの」
を徹夜で作り上げた。
しかも4体。
あれだけの作業を1日でできたというのは、(作品の質は置いといて)ある意味神がかっていたように思う。
一睡もしないで作り続け、気がつけば提出日当日の午後を回っていた。
卒制は提出期限にすごく厳しく、1分たりとて遅れたらその時間分減点されていくから気をつけるように、と言われていたのだが、午後を回った時点で「これはやばいぞ」という予感でいっぱいだった。
ただでかいだけの4体をなんとか作り終え、このままいったら遅刻の可能性大、という時間になってようやく作品を外に出そうとしたのだが、
そこで致命的なことに気付いてしまった。
「重すぎる。。。」
ふんだんに木材を使用した畳4畳分の作品の重さを、私は甘く見積もりすぎていた。
ガラガラに乗せてヒモでくくって引きずっていけばなんとか運べるだろう、と思っていたけれど、この重さとでかさだと無理。
それに、造りがやわすぎて、多分ガラガラに載せて運んだら破壊すること間違いなし。
なんつーもんをつくってしまったんだ!!!!!
これ、卒制だぞ!!!!!
壊して提出する訳にいかんだろう!!!!
運べないって、どーすんだよ!!!!
もう提出期限まで数十分だぞ!!!!
ものっっっすごーーーくやばいぞっっ!!!!
どうしようーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!
私はほんとうに困った。
この危機を、どう乗り越えたらいいんだろう。。。
なんとかしてアパートの下(私は2階に住んでいた)まで4体を降ろすことはできたのだが、どう考えても大学まで徒歩15分の道のりを運べそうにない。
もし運ぶとしても、1枚1枚じゃないと無理だろう。そんな運び方してたら日が暮れちまう。採点、0点になっちまう。。。
絶望感でまっ白になりながら、ふと目の前の牛小屋を見ると、白い軽トラックが停まっていた。
その軽トラックは牛小屋のおじいさんが常用しているもので、牛のえさや土なんかを積んでいるのをよく見かけていた。
実は、私はその牛小屋のおじいさんのことが嫌いだった。
なぜかというと、
以前母が長野から車に乗ってアパートまで来たことがあり、車をアパートの敷地外の道路に停めていたら、数時間後、私の携帯に警察から電話が入った。
「路上駐車をやめるようにと牛小屋の方から通報がありました」
と。
私は驚いた。
おじいさんの風貌といえば、背が低くて、風に吹かれたら飛んでしまいそうな細さで、人にたてつくようなイメージは一切無く、見るからに人畜無害そうな老人、といった雰囲気。話したことはなかったけれど、悪い人ではなさそうだ、という印象を持っていた。
あんな人畜無害そうな人が、警察に電話するなんて、、、
私は勝手にどこか裏切られたような気持ちになり、(いや、実際路上駐車してた母が悪いのですが。。)その事件があって以来、私はおじいさんのことをヒツジの皮を被ったオオカミだと思い、この先も決して気を許すまい、と心に決めていた。
なので、おじいさんに頼る日が来るなんて全く想像すらしていなかったのだが、もう、背に腹は変えられない!
私はひょこっと牛小屋から出てきたおじいさんに、思い切って話しかけた。
「今日は卒制の提出日なのです、ここに置いてある巨大な木枠が卒制なのですが、持っていこうと思ったら重すぎて持っていけないのです、だけどもう数十分で締切時間なのです、でも重すぎてでかすぎて運べないのです、おじいさん、あなたの牛小屋の前にある、その軽トラ、 本当に本当に申し訳ないのですが貸していただけやしないでしょうか? つまり、軽トラにこの巨大な木枠を乗せて、私を大学まで送ってくれないでしょうか? お願いです、お願いです、お願いですーーーーー(泣)」
というようなことを、全身全霊で訴えた。
するとおじいさんは、にこにこと満面の笑みで、
「そりゃ大変だ、送ってやる、送ってやる、乗りな!」
と、
何の抵抗もなく、すんなりと、とても好意的に私の訴えを受け入れてくれた。
神様って、いるのだ。
おじいさんは、藁や土で汚れた軽トラの荷台に、作品が汚れちゃいけないからとシートを敷いてくれ、くそ重たい木枠を一緒になって荷台に載せてくれ、私を軽トラの助手席に乗せ、大学まで車を走らせてくれた。
話してみると、おじいさんは私が思っていたような厳しい人では全くなかった。
むしろ、やわらかく、ゆるゆるで、心やさしい人だった。
助手席に座り、会話をしながら、
「今までずっと偏見の目で見ていて、本当に申し訳ありませんでした。。」と心底思った。
見ず知らずの私なんかのお願いを、自分の時間と労力をさいて助けてくれている。
しかも嫌な顔ひとつせずに。
なんていい人なんだろう。。。
私はおじいさんの優しさに打ちひしがれながら、軽トラに揺られていた。
ほんの数分で大学に着いた。
感動的だった。
あんなくそ重いもの、人力ではどう考えたってこんな短時間で運べるはずがないのに、おじいさんのおかげで運び込むことができたこの奇跡、
まるで魔法にかかったようだな、と思った。
大学の正門で門番さんに、
「卒制を乗せているから車乗り入れてもいいですか?!」
と必死の形相で訴えたら、すんなりと入館させてくれた。
フロントガラスに「入館証」をかかげた牛小屋の軽トラは、オサレな美大のキャンパスを場違い感満載で駆け抜けた。
牛小屋の軽トラで卒業制作を搬入したのは、後にも先にも私だけだろう。
提出すべき教室のある棟まで乗り付けてもらい、くそ重い作品をおじいさんと一緒に降ろした。
近代的な建物の前に乗り付けた牛臭漂う軽トラ、そこから出てきたガリガリのおじいさん、
という構図は、どう見ても違和感しかない光景ではあったが、そのときの私にとっては、軽トラは魔法の馬車で、おじいさんはスーパースター、命の恩人以外の何者でもなかった。
私はおじいさんに何度も何度もお礼を言い、その場でおじいさんと別れた。おじいさんはにこにこへらへらと笑いながら、トコトコと軽トラに乗って帰っていった。
その後、くそ重い4体をなんとかして教室まで運び入れ、最終的に提出期限を30分くらいオーバーして提出を終えた。
教室までは大学の助手さんが一緒になって運んでくれたのだが、その助手さんからは終始、
「この子、何より大切な卒制の提出時間に遅れるなんて、信じられない・・」
という、怒りにも似た空気が放たれ続けていた。
別れ際、「提出時間の遅れた分だけ採点にマイナスが付きます」と冷酷に告げられ、私はその場を後にした。
身も心もヘトヘト、採点なんてもうどうにでもなれ、と、破れかぶれな心模様でアパートへ帰ると、部屋のドアが半開きだった。鍵はおろか、ドアさえも閉めることができなかったという自分に驚いた。幸い誰も入ってなかったみたいだった。ここが東京の田舎でよかった、とつくづく思った。
ちなみに卒制の採点の結果は、お察しの通り無惨なもので、私のその後の人生数年間に渡ってトラウマとなりました。
それにしても、である。
牛小屋のおじいさんの存在の、なんと大きなことか。
神、もといエンジェルのようなおじいさんの存在は、卒業後、なぞの空白時間を過ごすことになったそのアパート生活において、大きな心の支えとなった。
いざというとき、助けてくれる存在が近くにいる、ということは、とても心強く、それまでの一人暮らしにはない安心感を与えてくれた。
卒制の一件があってからというもの、おじいさんに会う度に、私は笑顔であいさつをした。おじいさんも、私を見ると笑顔であいさつしてくれた。そんな関係になれるなんて、偏見メガネで見ていた一昔前には考えられなかったことで、とても嬉しいことだった。
卒制提出日から1年後、そのアパートを引っ越す日が来た。
アパートを去るとき、私はおじいさんに、
「卒制のときは本当にありがとうございました」
と改めて伝えた。
おじいさんは、へらへらと笑顔で、なんてことないさ〜、と受け答えてくれた。
おじいさんはいつも、へらへらと、笑顔で、「なんてことないさ〜」という態度で一貫していた。
深いこと、難しいことは考えず、日々を流れるように生きている、そんな印象の人だった。
あれから10数年経つが、おじいさんは今もあの場所で牛さんたちの面倒をみているのだろうか。
あの場所で、卒制の提出日に卒制を運ぶことが出来ずに困り果てている美大生を助けることはもうないだろう。
だって、あのアパートはもうないのだから。(数年前に行ったらアパートは取り壊され介護施設になっていた。)
私はおじいさんに、
「あなたはしがない美大生の卒業に、一役も二役も買ってくれた、大恩人なんですよ」
と、しつこく言い続けたい。
いろんな人生あるけれど、人にそこまで感謝されるようなことができるなんて、おじいさん、すごいよ、本当にありがとう。
と。
そして、私の意向を一切無視して強引にアパートを決めた父よ、
私はあのアパートで、かけがえのない経験ができました、
ありがとう、
と伝えたい。
大学の棟の前で、笑顔で去っていったおじいさんの目は、
純朴で、キラキラと、にごりのない目をしていたことをよく覚えている。
そして、おじいさんの鼻から出ていた大量の鼻毛のことも。
私はあの顔をきっと忘れないし、忘れたくない。
そう思う。