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さようなら、モスクワの灯よ。



デジャヴ

今年(2020年)は4月からコロナ禍のため、当社の営業は「テレワーク」体制に入りました。
社外からのメールとFAXは、各自のパソコンで見て応対し、其の過程を全社員でフォローしています。
50年以上ウイークディは会社に出て仕事をしていたのが、突然自宅であるときは寝巻きのままメールを見たり、テレビの前に座ってスマホでメールの着信をチェックしたり、朝風呂につかりながら顧客への対応を考えたりと確かに体は楽ですが公私の切り替えができず深夜に起きてメールへの返事を出したりしています。

これは、いつかどこかで同じような事をしていたと、感じていましたが、
「そうだ、モスクワ一人駐在員のホテル住まいとほとんど同じだ!」
と気がつきました。
当時は朝起きるとそのまま出勤で、電話が鳴るまでは二日酔いの頭痛を抱えて横になっていても問題はありません。
メールもFAXも無い時代なので外部とのコンタクトは、電話、面談、テレックスだけでした。時折、部屋までやってくる商社の繊維担当者も午前中は、

 「石井さん、ひどい二日酔いで、しんどいから、少し寝かせてくれません?」

などと私のツインルームのもうひとつのベッドを狙ってきます。
其の頃大手商社はホテルのスイートルームの家具を事務机に入れ替えて、モスクワ事務所を開き、主管者以下全駐在員は、ホテル内の自分の部屋から出勤してくる形でした。繊維担当者は、朝一番、事務所に出て、「メーカーさんと打ち合わせてきます!」と言って私の部屋に転がり込んで寝ていました。二人並んで天井を見上げながら、おしゃべりをしていると、思いがけない情報が入ってきて商売に結びつくこともあります。

50年前にモスクワでやっていたことは、正にテレワークでした。

しかしながら、赴任時には75キロだった体重は、たった2年で96キロにまで増えていました。特に冬期は、外に出ないで、午後4時ごろから酒盛りという次第で見る見るうちに体重は増えます。鏡に映る自分を見ながら、

 「あまり長くは続かないな。」

と感じていました。
1970年、大阪で万博が開催された年です。
私も30歳に成っていました。
業務打ち合わせで一時帰国した私は、輸出部の上司に

「そろそろ、帰国したい。」

と訴えます。
私はモスクワ駐在員の駐在期間の最長記録を更新中でした。
やがて、5ヶ月後に帰国辞令が出ます。
11月7日、モスクワは革命記念日の行事が色々行われていましたが、私はシェレメーチェボ国際空港から帰国の途についていました。

プラッシャイチェ モスコフスキー アグニェ (さようなら、モスクワの灯よ。)

ロシア語で「さようなら」は、二つあります。ひとつは良く知られている
「ダスヴィダーニァ」で、「また会う日まで」という意味です。再会を予想しています。
もうひとつは、「プラッシャイチェ」又は「プラッシャイ」で永遠の別れを暗示します。
3年近いモスクワ滞在の後、日本に帰る私は、この国に二度と来ることは無いような予感がありました。
でも、新入社員ほやほやの私が突然放り出されて、ロシア語、会社のトップ、強かな商社マン、冷徹な公団の担当者などに揉まれて何か一人前にして頂いたという感慨は感じていました。
古巣の輸出部に帰任した私は、わずか3年の間に、見知らぬ新入社員が沢山増えていることに驚かされます。
もうひとつ、私を待っていたのは、「共産圏貿易の専門家」というレッテルです。
  「あのモスクワで、3年近くも居た。」
  「これは、活用できるのではないか。」
というわけです。
繊維原料の輸出は、欧米、東南アジア、中南米、北アフリカそして共産圏などほぼ世界中をカヴァーしていましたが、ニューヨーク、パリ、シンガポール、台北などへ出張する同僚を横目で見ながら私は、味も素っ気も無い共産圏の諸都市に出向いていました。

国家主席からの贈物

1972年4月15日は、偉大なる国家の領袖、金日成主席の60回目の誕生日です。
すでに完全に権力を掌握し、全国民から敬愛されていた主席は、還暦のお祝いとして全国民に1枚づつジャージーの上下をプレゼントすることにしました。 

1971年の秋に其の決定はなされましたが、誕生日までには後半年しかありません。
国内で編機とミシンは、ありましたが、合繊を染めることができません。そこでウーリィナイロンの染め糸で輸入することにしました。色は、濃紺、濃緑色、小豆色の3色です。

ウーリィナイロンとは、戦後、絹糸の代用品としてアメリカのデュポン社で開発されましたナイロンフィラメントを、嵩高加工して毛糸のような風合いを出したもので最初に靴下用に使われました。大変丈夫な糸で、お母さんが夜鍋でソックスの穴を修理する風景は日本からは消えました。
日本ではわが社が最初にライセンスを得て生産を開始しましたが、これがわが国の合成繊維時代の幕開けとなりました。

当時、(今も)国交の無い北朝鮮との貿易は、まず社会主義系の「友好商社」を窓口にして我々メーカーとの間に、大手総合商社が入って与信します。
日本の政府は、共産圏との貿易に限って「共産圏カルテル」の結成を許可していました。
買い手は、一国の総需要をひとつの窓口でまとめて買い付ける公団です。
「国家による外国貿易の独占」はソ連でも、中国でも当たり前の綱領です。
対する日本の各メーカーがばらばらに売りに行けば競争状態を利用されて不利な価格交渉を行い日本全体の国益を損なうという理由からです。

わが国最大のナイロンメーカーであった当社の私が、業界交渉の交渉人に指名されました。
日本中のナイロンメーカーのウーリィナイロン糸が全部私に託されます。

ウーリィナイロンの染糸は、加工に時間が掛かるので、早期に妥結しないと誕生日には間に合いません。

交渉団は、私が団長で友好商社の副社長と通訳あわせて3人です。まず朝鮮民主主義人民共和国へ渡航する特別なパスポートが必要です。
自分のパスポートは国に預けて替わりに、North Korea、ソ連、中国、香港、ラオス、タイの6カ国でだけ有効な特別なパスポートを申請して受領します。
このパスポートを申請した時点で、政府は誰が北朝鮮を訪問したか把握できます。
日本には、北朝鮮の領事館が無いので、ソ連のウラジオストック、中国の北京、ラオスのビエンチャンのどこかで北朝鮮領事館に出頭し入国ビザを貰わないと平壌で入境できません。
タイと香港はそれぞれ、ラオスと中国に行く時の中継国というわけです。

ばたばたと支度して、今回は最短ルートの北京経由にしました。
当時は北京直行便が無く、まず香港にいき、鉄道で広州に入り、中国の国内便で広州から北京に飛び、そこで北朝鮮の領事館からビザを受けて、週に2便しかない平壌行きの飛行機に乗ります。ここまでに5日ほど掛かります。翌日、空港に行くと、私達の予約したフライトは何故か満席で乗れません。どこかの国の外交団が割り込んできて、我々も含めて民間人の席は無くなったというのです。あまりのことに、

「誕生日に間に合わないだろうな・・・」

とつぶやくと、友好商社の副社長が、

「こうゆう事は良く起こるので、明日、平壌行きの国際列車が北京駅から出ます。」

と、こともなげに言い出します。
結局それに乗ることになり、翌日のお昼ごろ、国際列車に乗ります。天津、丹東、国境の鴎緑江をこえて新義州、平壌には24時間後の翌日昼ごろに到着です。
新義州駅のホームでは、チマチョゴリを着た若い女性が二十人ほど造花の花を打ち振って歓迎してくれましたが、

「まさか我々一行向けではないだろうね」

と云うと、副社長から、

「国際列車ですから、いつでもやってます。」

と返ってきました。
こうして、約1週間かかって、大阪から平壌に到着です。
九州上空で、JALをハイジャックすれば、平壌には1時間以内に到着する地球上でもっとも遠い国です。

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