愛さなくていい。許さなくていい。ただ認めて、気付けばいい。
自分が過去したこと
思ったこと
全てなかったことにできないし
許すなんてとても無理なこともある。
そういうときには、
その時何を感じ
何を考え
実際どう行動したのか
それを、うそいつわりなく、ただただ認めればいい。
ただ、直視さえすればいい。
ポイントは、善悪の判断を入れず、ただただ自分のことを「そうだった。と認めればいい。
具体的に何をしたかというと、頭だけでするのは難しかったので、ノートに全て書いたり、自分で自分に声に出して語ったりして、それをすると、「あ、今、嘘書いたな」とか「嘘語ったな」とか、感覚として、わかるようになる。それも淡々と気づき、本当はどうだったか、書き直す。語り直す。
これを思い出す限りの過去に行った。すると、自分が自分に「うそつかなくて良いんだ」「何を感じても思っても認めてくれるんだ」と思えるような感覚になった。
今、起きたむかつくこととか恐怖とかは、もっと表現が生々しくなる。
「地獄に落ちろ、消えろ!!」とか
「恐い恐い恐い○○がこーわーいー!!」とか。
書いて見せたことが、語って自分に聞かせたことが、私にとって、自分を認めるという作業だった。
そうしたら、勝手に溶けていく。
見ないようにしたり、「だって、、、」とごまかしたり、「しょうがなかったよ」と無理矢理許すと、自分自身は、納得しない。
自分には、ゲスで悪魔的で臆病で卑怯で幼稚な面があると、淡々と認めることができたとき、神様がやってきて、にこやかに言うのだ。「いい経験したねえ~😊起きた出来事の、光の面も見せてあげよう」
そして、様々なギフトをもらっていたことにも気づくことができた。
そして、私は私に言われる。
「ずーっとずーっと、愛していたよ。ずーっとずーっとだよ」
「愛していたよ」
「愛していたよ」
ここまで来たら、なぜ、自分を愛そうと努力していたのかさえ、わからなくなった。
私は私に愛されてるとわかった。
もうそれで充分だった。
もう少しこの感覚が進むと、
これまで起きてきた出来事の全てが、自分から贈られた愛だったとなぜだか思った。
全て必然と言われる意味も
苦しみの中の光の見つけ方も
傷つきながらも意気揚々と「学んでいた」私がいた。
これ以上に愛する努力は必要ないだろうと思った(これって忘れてしまうものなのかな?そこはまだ経験していないからわからない)
「自分のこと好き?」と言われたら、「わからない」と答えると思う。でも自分の内側にとんでもなく愛されていることは、わかった。
こうなって感じるのは、
以前思っていた以上に、「すでに全てある」ことを確信しはじめた。
だってこんなにずっと
欲しくて
欲しくて
欲しくて
たまらなかった「愛」は、
誰でもない私が、既に、もうずっと前から、私に向けてくれていたのだから。
自分を愛すること そこに至るまでの記録 最終章
ただただ淡々と自分の全てを認める。あとは自然のプロセスに委ねる。
画像、お借りします✨