ジョン万次郎のようにグローバルの沖に流されたサラリーマンの話(自己紹介的に)
先日、NHKの朝ドラ「らんまん」を見ていたら、沖に流されてアメリカに渡って壮絶な人生を歩み、その後、幕末の時代に帰国した漁師が出てきた。それを見て、ふと自分のこれまでの十年を思い返した。そして、なぜだがブログを再開しようと思った。
僕は、1989年に東京の広告会社に入社して、それ以来、ずっと同じ会社で働いている。今、57歳。あと少しで定年だ。多くの人が「同じ会社で勤め上げるなんて、まさに古き良き時代のサラリーマンそのものですね」と言ってくれる。多分、半ば呆れているのは承知している。それでも、順風満帆だったわけではない。中盤からは、嵐の日々だったのだ。そして嵐があまりに強くて、僕はグローバルビジネスというジャングルのようなビジネスフィールドに出会い頭の事故のように放り込まれてしまった。2011年のことだ。
新規事業の一環で、自分が勤務する会社がフランスのスタートアップと戦略提携することになり、僕はその責任者になった。他人事のように書いたが、正確には、自分がその仕事をやりたくて、当時の社長に直談判して認められて責任者になったのだ。それまで僕は、順調に仕事をこなし、非常に評判の良い社員だったので、社長もそれを背景に二つ返事でOKしれくれた。当時は、まだ、そんな安易な雰囲気で新規事業予算の承認が降りていたのだ。
僕は、自分の力を過信して、難なく、その協業をうまくこなし、売上を短期で拡大させることができるだろうと思っていた。けれども、実際はびっくりするくらいに上手く行かなかったのだ。最大の原因は、僕は英語を話すことができず、グローバルビジネスの経験も一切なく、パートナー企業の業務内容も良く理解しておらず、おまけに財務会計の知識もろくにないまま、新記ビジネスを始めたからだ。このプロジェクトには、数人の、社内でもとびきり優秀な帰国子女の後輩がついていたので、彼ら、彼女らにおんぶにだっこ状態で、協業を進めていた。金の問題や法務の問題、人間関係の問題等、次から次へと問題が発生して、毎日僕が詰問されるようになっていった。そして、そのような状況を見限った後輩達は転職し、僕一人取り残されて仏のスタートアップとの協業を継続していった。
そこからだ。ジョン万次郎のような体験をするのは。先方のファウンダーや社員はもちろん、日本語を誰も話せない。それでも、日本でのビジネスを拡大しないと彼ら自身のビジネスも拡大しない。そのため、ろくに英語を話せない僕と彼らは、さまざまなコミュニケーション手段を使って、どうにかビジネスをやりとりして、売上を拡大させるために必死に努力をしたのだ。そういう日々が三年続いた。馬鹿みたいに仕事をずっとやりづけた。朝も昼も夜も、土日も。気づいたら英語ができるようになってきた。
あれから十年経った。僕は、今、世界各国にできたパートナーと一緒に複数のプロジェクトを回す仕事ができるようになった。といってもエグゼクティブでもないし、給料高いわけでもない。それでも、十年で積み上がった信頼できる人脈をベースに日本企業の新規ビジネス支援の仕事をこなせるようになった。
45歳の時にグローバルビジネスという沖に流されていなかったら、僕の人生は全く違う人生になっていた。今では、その漂流を幸運な出来事だったと思えるようになった。
ジョン万次郎が、晩年、日本に帰って、日本のために、日本の若い人々のために、教育に情熱を燃やしたことを知っている。僕の経験は大したことはないけれども、それでも、世界に出ていく術を知らない日本の会社や日本のビジネスピープルに、自分の知見とネットワークは少しは活きてくると思っている。そういうビジネスをこれから創っていくつもりだ。