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エッセイ:感覚と嗅覚

「面白いと感じるかどうか」

私を今まで導いてきたものを自分の中のものであげるならば、もう、なんとも説明のつかないこの、感覚。

言い換えるなら、嗅覚、でしょうか。


自分の中の頼れる部分。
人によってそれはきっと様々でしょう。

何かを選ぶとき。進む道を決めるとき。何かを変えようとする時。
小さなことも。
大きなことも。

私が信じているのは、心の中に
「あ、面白そう」「それ、面白い」
が出てくるかどうか。

おなかあたりが楽しい感じがしたらGoサイン。
とてもかすかなもので、なんの説明もつかない感覚ですが、見逃さないで感じ取れている時、その答えはたいてい間違いないのです。

人に説明するとあまりに理論的じゃなくて驚かれてしまうこともあるけれどね(笑)。

逆に、なんかひっかかるものを感じることもあります。
理由はわからないけど気になる。
そういう時はストップのサインだったりします。


はるか昔。
記憶にかすかに残っているかどうかというくらいに昔々のこと。
感情を、、特に「欲求」というものを押さえることで自分を守ろうとしてきた時期がありました。
自分や世界のことをまだ何も知らない頃のお話。

そんな部分があったとしても、どんな時も、私が「感覚」を閉ざすことはなかったみたい。
しなかったのか、できなかったのかは、わからないけれど。

まるで自分を守る最終の砦のように発動して伝えてくる感じ。

例えば、この世界に飛び込むきっかけになった最初の舞台に誘われた時や。
あるステージを観に行って「あ、ここで踊りをやりたい」と思った時も。

今でも。

理論的に考えれば、ちゃんと準備してから、とか、普通で考えたら右だよね、というようなことも多分たくさんあると思うのですが、やっぱりこの感覚を無視できない。

日常の何気ないことはたくさんスルーして生きていても、本当に大事な場面ではすごく頑固になる。

それは、目先でなくロングラインで見た時に自分が納得できる、そこを教えてくれているもののように感じるのです。



そんな私も、何かの瞬間にその感覚を無視してしまうことだってあります。
頭の中が情報や思考でいっぱいになってしまっている時。
そういうものに判断基準を合わせてしまっている時。

それが必要な時だってもちろんあります。
様々なものにアジャストすることは大事。

でも、そこにだけ照準を合わせて動くのは違うような気がする。
自分を完全無視して動いた時は、やっぱり、何か不具合が出るのです。
私だけかもしれないけれど。

要は、バランス。
いつも両方をちゃんと見てキャッチして照らし合わせて動けたらいいんじゃないかなぁ、と。いつも考えます。


いつも側にある本があります。

吉本ばななさんの
「違うことをしないこと」

パトリスジュリアンの
「L'artde Vie 生活はアート」

松浦弥太郎さんの
「くちぶえサンドイッチ」


他にもいくつもありますが、特にこの3冊は普段何気なく手に取ることも多いし、頭の中がぐるぐるとしたときに読むことも多い。

自分の中に新鮮な風を呼び込む大事な言葉がいくつも詰まっていると私は感じる本たちです。


おなかのあたりの「ふふ」っとした感覚。
「あ、それ面白い」という柔らかくて軽い感じ。
これを信じていくと、自分では想像もしなかった景色を見られたりします。
少なくとも私はそうでした。

そうやって新しい景色を見たい。
自分が思いもしなかった不思議な道を通ってみたい。
予想外を面白がりたい。

そう。
自分の人生自体を「面白い」と思いたいというのが、私なのかもしれません。


目標を持って目指すものに向かって頑張ることもひとつ。
自分の感覚を信じて「気がついたらこんなところにきていたよ!」と
びっくりしながら大笑いするのもひとつ。

どんな時も私は自分の「面白そう」「なんか面白く感じない」を羅針盤にしてきた気がします。
そうして目の前にやってきたものに対して「これができるようになりたい!」というものが出たら頑張り、漠然と浮かんだ夢は楽しく心に置いておく。

頭で無理矢理納得させるようなことをしないこと。
自然な流れを信じること。
違うことをしないこと。

自分が持って生まれてきたまっすぐな感覚を感じて生きていたい。
それをできるだけ鈍らせたり曇らせたりしないようにしていたい。

本当に自分を生きること、自分と生きることって、そういうことでもあるのではないでしょうか。


これからも嗅覚と感覚とともに。
羅針盤の指す楽しい方向を向いていこうと思うのです。


*見出しの写真:外国の飲み物はいつもと違う香りがするのも多い。五感を働かせて笑っていきたいね。


◉エッセイマガジン『Live Love Laugh』


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