嫌われない勇気
かつて千年の古都といわれる街のはずれに、世界はどこまでも複雑であり、皆に好かれることがすべてだ、と説く哲学者が自宅に引きこもっていた。この哲学者は誰からも嫌われないことを求め、「嫌われないためには誰にも接しないことだ」との結論を出したのだった。納得がいかない青年は哲学者のもとを訪ね、その真意を問いただそうとしていた。
青年 では、あらためて質問します。世界はどこまでも複雑である、というのが先生のご持論なのですね?
哲人 ええ。世界は信じがたいほどに複雑なところですし、人生もまた同じです。
青年 それは現実の話として、そう主張されるのですか?
哲人 もちろんです。小汚い猫に囲まれた私の生活がすべてを物語っています。猫は私を嫌うことはないですからね。
青年 本当に嫌われることはないんですか?
哲人 まあ、たまに引っ掻かれるときはありますがね。そのときはショックで3日くらい寝込みます。
青年 相当嫌われたくないんですね。いいでしょう。私がここを訪れた理由は先生と納得のいくまで議論を交わすこと。できたら先生にご持論を撤回していただきたいと思っています。
哲人 うふふ。
青年 風のウワサで聞いたんですが、先生はどうやら看過しがたい論を唱えているらしい。人は変われない、世界は複雑である、誰もが幸福になれるとは限らない、だのと。常に前向きに生きている私にとっては到底受け入れられない議論です。
哲人 そうですか。私自身、あなたのようなリア充の「成長」だの「仲間」だのという戯言に耳を傾け、鼻で笑いたいと願っていたところです。
青年 ははっ、大きく出ましたね! おもしろいじゃありませんか、先生。いますぐ論破してさしあげますよ!
哲人 哲学の徒となって以来、心のどこかであなたのような若者が訪ねてくるのをずっと待っていたような気がします。
青年 本当ですか?
哲人 いえ。ウソです。居留守で乗り切ろうと思ったんですがね。
青年 でしょうね。気が狂うくらいインターホンを鳴らした甲斐がありました。
哲人 ……まあ、いいでしょう。猫のフンだらけの玄関で話すのも何ですから、あちらの書斎にお入りなさい。長い夜になります。生暖かいコーヒーでも用意しましょう。