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板塔婆で綺麗な庭園を拵える。
私は以前、仏壇屋で働いていた。
私たちの仕事のひとつに「お寺から古い板塔婆を引き取る」というのがあった。板塔婆というのは、お盆になると墓に刺してあるお経の書かれた板である。取引のあるお寺から引き取り、無料で処分するのだった。
お盆が過ぎ、私たちの忙しさも少し落ち着いたころ、先輩の山田さんはボクに声をかけてきた。「おい、ちょっと手伝ってくれへんか?」
山田さんは70歳をいくつか越えた、骨と皮だけの、いつ仏壇の中に入ってもおかしくないヨボヨボの爺ちゃんだった。
声をかけられ、なにを手伝うのかさっぱりわからないまま、私は山田さんの車に乗せられた。後ろからほのかに木の匂いが漂ってきたので見てみると、お寺から引き取ってきた板塔婆が大量に積んであった。
使用後の板塔婆はお経と戒名が書かれており、その辺に処分するわけにはいかない。板塔婆に限らず、仏壇や念珠や位牌などの仏事物は「お焚き上げ」という行事でお坊さんにお経をあげてもらいながら、燃やして処分する必要がある。
「な、なにをするんですか?」ボクはおそるおそる訊いてみた。「バレたら、大変なことになりますよ」
「いいから、黙っとけ」山田さんはイライラしながら言った。頑固なのだ。山田さんは。
到着したところは村の民家だった。どうやらここは山田さんの家らしい。
持ってきた板塔婆を車から降ろし、庭に置いていった。すべて降ろし終わると、山田さんはおもむろにその板塔婆を地面に刺していった。
「なにしてるんですか?」私は訊ねた。
「隣の庭との境界がないから、これで仕切りを作るんや」山田さんは逆さにした板塔婆をつぎつぎ地面に差していった。板塔婆は頭が尖っていて、逆にすると差しやすい。そして、その頭さえ地面に埋めてしまえば板塔婆っぽさはなくなるだろうという山田さんの思惑であった。
どうかと思った。尖った頭は隠せても、お経と誰のかわからない戒名は隠せない。それは山田さんの思惑とは違って、誰が見ても「使用後の板塔婆」なのであった。
完成した庭は確かに仕切りのおかげで綺麗になった。隣の家との境界もハッキリわかり、山田さんはご満悦の様子だった。
しかし、傍からみると不気味で仕方ない。「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とか書かれた仕切りがいくつも並ぶその庭は、かなりの異様な雰囲気が漂っていた。
いくら先輩の命令とは言え、加担してしまった私は罪悪感を感じながら、日々を過ごしていた。
セミの声が聞こえなくなり、朝が少し寒くなってきたある日のこと。再び山田さんが声をかけてきた。「ちょっと手伝ってくれへんか?」
また山田さんの家へ向かった。そこには以前に差した板塔婆がそのまま残っていた。なんとなく漂う不気味な雰囲気は健在であった。すると山田さんはその板塔婆を次々と抜き始めた。
「あ、抜くんですね」私はホッとしながら言った。
「近所から苦情が来たんや。『気持ち悪い』ってな」山田さんは不機嫌そうに言った。「ほら、早う抜け」
当たり前のことだが、板塔婆を庭の仕切りに使うのはいけない。その板塔婆には魂などは入ってはいない。ただの板と言えば板なのだが、遺族の想いが詰まっている大事な板なのである。
すべて抜き終わったあと、山田さんは吐き捨てるようにこう言った。
「なにが『気持ち悪い』ねん。ただの板やがな」
仏壇屋は仏事を大切にするかというと、そうでもない。むしろ何とも思っていない。そんなことを気づかせてくれた入社一年目の体験だった。
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