見出し画像

青い月夜に近いところで

 たまには小説も書きたい気がしたので、ノリと勢いだけで作ったクソデカ感情こじらせ百合のお話です。
 朗読向き…なのかどうかは微妙なとこですが。
 一応、だいぶ前に載せた「空が晴れずにいてくれたなら」っていう短編のその後を、もう片方の視点で書いてる感じになります。



 青い月夜に近いところで
 
 ぽつりぽつりと、カーテンの向こう側に、雨粒が窓を叩き始めた。
 午後に束の間の通り雨こそあったものの、一日を通して暖かで過ごしやすく、気の早い春風すら吹いていたのに。今では雨雲を連れた夜気に押し戻され、冷たい夜に沈んでいた。
「また雨?」
 と、借りたお風呂から出てきた私は、私より一足先に済ませていた彼女に首を傾げる。
 深く、どこか青みがかったような、つやのある髪の彼女。平均よりもいくらか小柄な私と違って、しっかり成長しているその人は、立って並ぶと、いつも頭ひとつ分は見上げてしまう。
「みたいですね」
 端的に応じた敬語は、距離があるのではなく、誰に対してもそういう口調になってしまうのだと、私はちゃんと知っている。
 ただし今の彼女は普段の、学生という日常から一歩離れたところにいた。
 いつもハーフアップにしている髪はもう下りて、肩の辺りに毛先が揺れる。洗い立てで、私とは違う黒髪。
 私は母親から受け継いだ薄いブロンドの髪色で、それを苦に感じたことはないけれども、みんなの中で浮いてしまっている自覚はあった。まるで違う私と彼女の髪の毛は、しかし今に限ってだけ、同じ匂いがするんだろうか。
 まだ湿っている自分の髪へ、乗せたままいるタオルの端に。自然、鼻を寄せようとした私がいる。
「どうしました?」
「あ、や……なんでも」
 欲望は半ばで未消化となり、私はほんの少しの罪悪感を抱えながら、こちらを見上げる視線から逃げてしまう。
 髪よりもさらに濃い、黒をした彼女の眼差し。
 いつもはそこに眼鏡がある。
 今はない。お風呂上がりの、寝間着姿でベッドに座った彼女の裸眼に見られると気恥ずかしさを覚えてしまい、なんとなく目を逸らすようになったのは、いつの頃からだろう。
 長く見ていると、踏み越えてしまいそうになる。
 その時だ。
「……風邪ひきますよ?」
「え? わっ!?」
 きょとんとしていた彼女が、不意に私を引き寄せた。そのままベッドの方へ連れられ、気付けば彼女の足の間に座らされている。
「ちゃんと拭かなきゃって、いつも言ってるでしょう?」
「あ、う、うん……ごめん」
 眼鏡をかけていて欲しかった、と思う。彼女の顔を直視できるから。
 眼鏡をかけていなくてよかった、とも思う。彼女の瞳に、耳まで赤くしている私はバレていないだろうから。
 わしゃわしゃとタオル越しにくすぐるような、好きな指先。最初は破裂しそうなくらいに鳴っていた私の心臓は、いつの間にやら心地良さに身を委ねて、背中まで預けている。
 寄りかかった彼女の熱、感触、匂い……。
「寝ちゃわないでくださいよ?」
「ん、大丈夫」
 だけど本心では、このまま眠れたらどれくらい幸せなんだろう、なんて空想をしている。
 カーテンの隙間から不意に差し込んだ閃光と、少し遅れて夜雨の奥より響いた唸り声のような響きがなければ、きっと本当に寝てしまったに違いない。
「雷まで鳴るんだ」
 天気予報は晴れだったのに。私は胸の奥に呟いてから、そういえば予報はアテにならないものだったと思い出す。
 今から少し前。
 下校中だった私たちは別の雨に遭遇し、揃って電車の中にいた。この雨の終わるところまで行ってみたい、なんていう私の気まぐれな提案で。
 私たちは聞き覚えのない地名の駅で降り、そこには雨の去った街が夕日に照らされるばかり。でもその光景に――夕焼けに煌めく雨上がりの街を見た瞬間は、これも彼女とはまるで違う私の緑がかった碧眼へ焼きつき、たぶんこの先も忘れることはないんだろうと思う。忘れないでいたいと、願っている。
 朱色の世界にまたたく、雨の面影。これをこの人と一緒に見るために、私はきっとあの駅に行きたかったんだと。そしてどうか彼女の中にも、この風景が残って欲しい……と。
 だから口をついて出た。
 きれいだね、なんて言う一言が。本当はいつだって、この人に向けていた、一度も言えずにいた言葉が。
 そうして今は、またこの人の部屋にいる。私の家のすぐ隣。お互いの家族が共働きなせいで、物心ついた頃には当たり前に行き来していた、私にとっての、もうひとつの自宅に。
「平気?」
 彼女の腕のなかで私がおずおずと聞いたのは、稲光った刹那の、この人の微かな震えを感じたからだ。
 返事はなく、代わりに彼女は、私の髪を拭いていた手を止め……そっと私を抱きしめた。後ろから肩に手を回し、ほんのささやかな力を入れて。
「……ちょっと、怖いです。ちょっとだけ」
 うなじの辺りにかかる、震えを帯びた彼女の吐息。
 不意に私は独りごちている。この人にとって、私はどういう存在なんだろう。友達か、幼馴染か、妹のような相手か、家族のような存在か。
 私の望んでいる関係を打ち明けたら、まだこうして頼ってくれるんだろうか。
 言いたい、と思う。言ってしまいたい。
 結ばれたいわけじゃない。いいや、結ばれたなら、きっとそれはまだまだ続いてゆく私の人生の、今後訪れるどんな幸福よりも幸せなことに違いない。
 だけどそうではなくて。
 そうなる以前の、私のちっぽけな勇気か、そうじゃなければエゴイズムの問題だ。
 打ち明けて、ただ受け入れてほしい。結ばれるにせよ、結ばれないにせよ。胸の奥につかえてわだかまって、いつの頃からか秘め続けていた感情を、この人にただ伝えられたら。この人に話すことが出来たなら。
 きっと私の奇跡だと思う。
 だけど怖くて仕方がない。
 拒絶されるだけなら耐えられる。けれどそうじゃなかったら。そんな目で見ていたのか、もう関わらないでほしい……実際には言われたことのない、被害妄想じみた言葉の数々が頭に浮かぶ。
 そんなことを言う人じゃない。そんなことを抱かせてしまうかもしれない。
 だって私と彼女はこんなにも違う。髪の色、瞳の色、容姿も言葉遣いも、趣味や好みまで、重なる部分の方が少ないくらい。
 相反する気持ちを、抱え続けた心が軋む。こんなにも違うのに、この人を好きでいいのだろうか。こんなに近くにいるというのに、私は彼女の心を知らないままだ。
 あなたにとって、特別になれたら……。
「今……」
「ん?」
「今、何か言いました?」
 また心が軋む。抱きしめられているのが背後からでよかった、なんてことを私は考えている。いつも笑っていようとしている顔が、今だけは笑みを貼りつけられないだろうから。
 私はただ、私を抱きしめる彼女の繊手へ、そっと指先を寄り添わせた。
「雨の音だよ、きっと」
 無理やり明るくした声を、出来る限りに自然に吐き出す。
 気付かれたらダメだ。打ち明けたら迷惑になる。打ち明けた後、この関係が壊れてしまうのが怖い。想像するだけで頭の奥が痛むほど。
 ただ指に触れる、それだけが私の精一杯の強がりだった。
 傍から見たら、失笑ものだったに違いない。お前はどこまで情けないんだと。
 そして私の自嘲を裏付けるように、ふつりと。何の脈絡もなく、明かりが消えた。
 
 
 
 夜の底の、私と彼女の二人っきりの部屋の中。いったいどれくらい時間が経っただろう。私たちは互いに、抱きしめ、抱きしめられての恰好のまま、真っ暗な部屋のベッドに座り続けていた。
 もう何時間もこうしている気がする。暗闇になれた目がベッド脇のデジタル時計を見つけた私は、浮かび上がる蛍光色の表示に驚いた。まだ一時間すら経っていない。
「停電、直りませんね」
「……うん」
 直ってほしくない。一秒でも長くこうしていられたら。彼女がそんなことを囁いたような錯覚を私は覚える。
 期待したらいけない。思い上がったら迷惑になる。誰より優しくて繊細な彼女の心に、卑屈な私はそぐわないだろうから。
 風が吹いている。窓の向こうに。
 彼女の体温と鼓動。それらを感じられる幸せと、ひっそり味わっている罪悪感。このまま過ごしていたい反面、離れなければと良心が呟く。
 そうしてまた、夜だけが更けてゆく。
「……雨、止んだかな」
 逃げ場を求めるようにして、いつしか私は無意識に言っていた。窓を叩く冷たい雨音、遠く頭上に響いていた雷。そのどちらもが鳴りを潜め、今は時折、夜気が風鳴りをうそぶいている。
 今夜の雨雲も、どうやら去ってしまったらしい。このまま晴れずにいてくれたら。電車の中でも考えた空想はやはり実現しなくて、時間は私たちを待ってくれない。
 どうするべきなのだろう。
 伝えられなくていい、秘めているだけで充分だ、この人がただ幸せでいてくれたらそれだけで。
 最初に私が持っていたはずのそういう決意は、暗闇の中で形を変えている。伝えたい。受け入れてほしい。他の誰でもなく、ただこの人にとっての特別でありたい。
 自覚した途端、何かの拍子に吐き出してしまいそうなほど、私の内側でそんな欲望が膨らみ溢れて、その刹那――誰かが私に耳打ちした、と思う。
 そういうのはらしくない。押しつけるのは違うんだろう。
 今までも折に触れて聞こえてきた、葛藤を沈める自分の声。私がためらう私の一歩の、踏み出し方を間違わせないための声であり、打ち明けたい熱量を束の間だけ冷ます吐息だ。
 もしかしたら、彼女もわからないんじゃないか。私と同じように。私たちの、この関係はどうすべきなのか。答えが出なくて、だからこうしているんじゃないのか。
 冷静になった私はようやく、彼女の震える指に気付き、そこでまたほんの一瞬ためらう。
 この手を握り、振り回してきたのは私の方だ。どこに行こう、何をしよう、二人で一緒にどんな景色を見に行こう。そうやって彼女を連れ出してきたのは私だ。
 だから今夜も、手を握って連れてゆくのは私の方じゃないかと思った。
「屋根に、さ」
「え?」
「上がってみよっか」
 精一杯にいつも通り振る舞えたはずの私へ、苦笑が応じる。
「寒いですよ?」
「平気だよ。少しの間だけ。……ほんの少しの間だけ、だから」
「……ええ」
 私を抱きしめていた腕が、首肯と一緒にそっと離れた。微かで、胸の奥にのしかかる名残惜しさ。
 高いところが好きだった。
 臆病者の私でも、一歩分だけ日常の外に踏み出せた気がする。小柄な私の背丈でも、いつもより少し遠くの方まで見渡せる。普段よりちょっとだけ近くなった空は、手を伸ばしたら届くような……届かないと思っているどこかへ、いつか届くかもしれないと思えたから。
 そして今夜も、そこに登る。
 彼女の手を取り、屋根裏部屋のさらに先、天窓を抜けた剥き出しの屋根へ。折り畳み式の階段を上がると、冷えきった夜気に青白い光が降り注いだ。
 日の光より穏やかで、どこかそっけなくもある月の光。地上の明かりが消えてしまってる今夜に限り、鮮明にまたたく星の海と、そこに浮かんだ青白い天体。
 街の影を浮かばせる、満月。
「きれいですね」
 私の隣で、白い吐息が彼女の声を奏でた。寝間着にストールを羽織っただけの、眼鏡を外した幼馴染の少女。彼女と私の手は、まだ握られたまま。
 月明かりの中、夜空を見上げる横顔に、私はなぜか泣きそうなくらいの切なさを覚える。
「こうなる、ってわかってたんですか?」
「ん。停電してるんだから、さ。空は、いつもよりくっきりするんじゃないかなって」
「……ええ」
 そうして彼女は微笑んだ。私の方をそっと向いて。青白い光に浮かぶ、苦笑のような彼女の面差しに、私は言い様のない寂しさを見つけている。
「あ……」
 無意識に言いかけた。いや、言ってしまっている。最初の一節に言い淀んだところで、私はもう踏み越えてしまっていた。
「あのね! 私、ホントはずっと……! ずっと……」
 この期に及んで、臆病者の影が差す。
 勢いを失い、顔を伏せた私の脳裏に、めまぐるしく自問がよぎる。
 本当に伝えていいのか? 勘違いじゃないのか? この人は私と、こんなにも違っていて。だからきっと、私の気持ちは私の中に潜めていた方がいいはずで……。
「……聞かせてください」
 呼びかけが、渦巻いていた私自身の声を取り払って、私を促した。顔を上げた私は、たぶん泣いていただろうと思う。
「聞かせてほしいんです。……こういう言い方は、ずるいってわかってるんですけど」
 申し訳なさそうに、不安そうに、彼女は紡ぐ。いつもより、ほんの少しだけ空に近づいた、月明かりの中で。淡くて脆くて儚くて、私にとって何より大事な微笑が、私を待ってくれている。
 気付くと私は、彼女の方へ歩み寄っていた。
 気付くと彼女は、私の体を抱きとめていた。正面からそっと受け入れてくれる、熱量。
 届かないと思っていた、この人への。伝えてはいけないと怯えていた私の心が、するりと溶けて言の葉に乗る。
 ずっと前からね、と。青い月夜に近いところで、隠し続けた恋を紡いだ。

いいなと思ったら応援しよう!