適切な距離感
先日、最寄り駅のバス停で目が合った男の人がいた。
やけに見覚えのある顔だったので思い出そうとしばし見つめてしまい、嫌そうな顔をされて慌ててお辞儀をして逃げた。
結局バスに乗ってから中学の同級生であったことを思い出したのだが、特に伝えることも無くそのまま私が先にバスを降りた。
あの反応からして、あちら側は私を覚えていなかったのだろう。
これまた先日、小学校の時の同級生のアカウントがInstagramのおすすめに出てきた。
家に遊びに行ったこともあった、いつもメゾピアノの服を着ていた可愛い憧れの女の子だった。
思わずフォロリクを送ってしまってから、私と気付いてもらえないかもしれない、覚えていないかもしれないと思い、名前をアルファベットのフルネームにするという謎の足掻きをしてしまった。
結果的にはその後相互フォローになったわけであるが、特に会話などはしていない。
何が言いたいかと言うと、適切な距離感って何?という話がしたいのである。
以前のノートにもおそらく書いたことがあるが、私は人見知りこそしないものの人と深く付き合うことが苦手なタイプである。
基本的にはあたりさわりなく、おそらく好かれも嫌われもしない距離感でほとんどの人と接している。
それで良いと思っていたし、それが最善だとすら思っていた。
でも、この距離感を維持する限り、私は誰の記憶にも印象的には残らないのである。
そのことに気づいて、なんだか少し寂しくなった。
私は中学の時同級生だった彼をバス停で見かけて数分で顔と名前を一致させられたし、体育のダンスの班一緒で振り付け沢山考えてくれたな、サッカーで圏外の高校に進学したよな、なんて事まで思い出せた。
Instagramのおすすめに出てきた名前とユーザーネームの数字から、この数字が誕生日なら○○ちゃんではないか?と推測し、おうちでオセロをしたことやバレンタインにあげたお菓子を美味しいと喜んでくれたことを思い出した。
別に私が特別記憶力に優れている訳では無い。
ただ、思い出として印象的なエピソードのある子達だったから、何とか頭の中の引き出しからひっぱってこれたのだ。
でも、相手側はどうだろう?
きっとバス停で会った彼は、あの日見つめてきた女がまさか自分の中学の同級生だとは気づいていないだろうし、もうそんな人と目が合ったことすら忘れているだろう。
Instagramのフォロリクを通してくれた彼女も、何となく名前に聞き覚えがあるな?程度だったかもしれない。仮に名前と顔を覚えていてくれたとして、私たちが共有した綺麗な思い出たちは記憶の隅の隅に眠っているかもしれない。
私が選んで私がその距離感で接してきたわけだから当たり前ではあるのだが、誰とも深く付き合わないって少し悲しいことなんだなと今更気づいた。
だからといってこの距離感を変えるつもりはないし変えられる方法も知らないけれど。
人と深く付き合う煩わしさよりは、この少しの悲しさの方がマシだと思ってしまうのである。
私を知っている人が全く居ないという訳でもないし。
屁理屈かな。自分は覚えているのに相手が覚えてない事実に対して拗ねてるだけかも。
ただ、Instagramのフォロリクを飛ばしていい距離感って、どのくらいの親密度を必要とするんだろう?と、一般的な価値観が気になった。
覚えていてほしくない、でも忘れられたくない。そんな矛盾を抱えて今日も人と話している。
私と関わった人が、「良い人だよね」とだけ私のことを覚えてくれますように。
そんな薄っぺらい人間関係ですら、私がこの世界で生きていくためになんだか必要に思えちゃうのである。