ぷろおごから『儀式』を学んだ


28才。

その数字にふと考えさせられた。

20才で自由であることを知り、無限の可能性を持つという希望を知った。

どこかに、この世界のどこかに、私の天職、もしくは使命があるのだと信じて。

そこから8年たった。私は何を得ただろうか。
月日というのは、残酷なほど速く走り去っていくもののようだ。


丸呑みしていたぷろおごの言葉が、戻ってきたので咀嚼している。

儀式というのは、やりたくてやるものではない。

私の場合、大学受験とブラスバンドだった。
もう10年も昔の話だ。やりたくてやっていたわけではない。ただ、当時はそれしかなかったのだ。

自由などという概念がなかったのも、良い作用をした。

不自由という呪いをはぎとって、8年がたった。もちろんそれも良い作用をしてきた。

ただ儀式なき8年だった。

「やりたいこと」を探して、たくさんの体験をしてきた。

でも「生涯やりたいこと」は見つからなかった。

フットワークはだんだんと重くなってきた。

20代前半の頃は、若いからどこへ行っても「初心者」でいられた。

しかし、ここ数年は、「何をやってきた人なのか」「何ができるのか」そんな質問を前に、何もできないと信じ込む私が写り、人に会うのを避けるようになっていった。

「やりたいこと」を探しすぎた。

ぷろおごの言うように、「やりたくないけど、やりたくなくもないことを、やる」その「儀式」が必要な時期に来たようだ。

それを私は10年前にやっていた。
大学受験とブラスバンドだ。

不自由という呪いを着飾り、自由なんてものは見えなかった。

今は、自由があるために、「やりたくない」が通用してしまう。

「やりたいこと」でもめんどくさいときがある。そのときは、「やりたくない」に変化して、いずれやらなくなる。

「やりたい」「やりたくない」で判断してしまうからだ。

「できることをやる」

「できないことは諦める」

「できないことの中から、できることだけを抽出する」

「できないことはシステム化する」

これが重要なことはわかった。

「やりたい」「やりたくない」という自分の気持ちに左右されず、儀式として日々こなしていく。こういうことだろう。

今のわたしに欠けているものは、「決断力」だ。

「できること」の中から1つを選び取り、最低3年は儀式として続ける、その覚悟だ。

あれもしたい、これもしたい、いつもそう思う。

その「やりたいこと」をやりとげたことや、自分の武器となったことが、未だかつてあるだろうか。

すぐ思い出せないということは、そういうことなのだ。

1つ何かを決断して儀式にしなければ、3年後、私はまた「今まで何をやってきたんだろう」と自分の人生を嘆くだろう。

選び取ったその1つを、私は一人で続けていくことができるとは思わない。

独りの人間は弱い。

そんな人間のために、高額の専門学校だの、オンラインスクールだのが、存在している。

私はそれらを避けてきた。

その他大勢といっしょにされたくない、とかいう無様なプライドの呪いで。

プライドも自由も捨て去って、もう一度「不自由」という呪いを着てみようか。

決めたら、やるだけ。

次の日記までに決めよう。

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