「カッコいい」がオーバーフローするという話

 「カッコいい」がオーバーフローしたとき、笑ってしまうことがある。TRPGをやってたりすると結構体験する。
 クールな二枚目キャラが、あまりにも出来すぎたタイミングでヒロインを助けにきて、一発の銃弾で3人の敵を同時に倒す。観客としてはテンションがブチ上がって、思わず「かっけぇ!」と叫んでしまう。その時、同時に笑ってしまうことがたまにある。

 勘違いしないでほしいのは、笑っているからと言ってバカにしているわけでもないし、軽んじているわけでもないということだ。心の底から本気で「カッコいい」と思っているし、そのカッコよさに憧れだって抱く。

 この「笑ってしまう感覚」がわからない人もいる、と気づいたのは、Youtubeで島本和彦と森川ジョージの対談を見たときだ。往年の特撮ヒーロー「怪傑ズバット」について語っているときの話で、島本先生がいつもの調子でズバットの魅力について熱弁する。ズバットは「男のカッコよさ」を濃縮還元したような作品であり、だいたい僕も島本先生のトークに頷きながら視聴していた。

 僕がズバットの存在を知ったのは、中学生のとき。「スーパーヒーロー作戦」をプレイしてのことだ。クロスオーバー作品においては彼自体がジョーカーのようであり、存在感は強烈だった。
 ズバットを語るうえで外せないのは、「用心棒との対決」である。ズバットは特撮ヒーローだが、日本のヒーローものにしては地の足のついた感じの世界観で、その回ごとに違った犯罪組織が敵となる。構成員も人間で、他のヒーローもので言う「怪人」に相当する存在として、「用心棒」が存在する。この用心棒が、だいたいなにかの達人なのだ。拳銃や居合といったそれっぽいものから、釣りやビリヤード、果ては大工なんてものまで出てくる。

 主人公である早川は、さすらいの渡り鳥であり、親友を殺した犯人を探して旅をしている。その回で訪れた街で、だいたい悪い組織が悪いことをしており、用心棒がその回のゲストキャラクターを脅迫していたりするわけだ。で、そこに早川がやってくる。ギターを弾きながら。
 さすがにギターを弾きながら現れるのは今の時代だと通用しない気もするが、これもカッコいいのだ。

 用心棒は怪訝な顔をしながら、よそ者である早川に「俺を誰だか知らないのか?」と脅しにかかる。早川は「知っているさ。××の用心棒●●。だが、その■■の腕前、日本じゃあ二番目だ」と挑発する。用心棒は当然、「なにぃ? 俺以上の■■の達人がどこにいるってんだ」と怒るわけだが、早川は指を振りながら「チッチッチッ」と舌を鳴らし、その指で目深に被ったテンガロンハットのつばを押し上げ、自分を指差して笑うのである。

 か、カッコいい……!!

 そのあと、用心棒が自分の特技で超絶技芸を披露するのだが、早川はそれを上回る技を披露。用心棒は捨て台詞を吐いて去っていく。これが物語の前半というか、話の導入部的な部分で毎回あるのだ。ちなみに用心棒の技も早川の技も、回を追うごとに曲芸じみていき、ブーメラン対決をした回などは、用心棒が神社の看板を真っ二つにするのに対し、早川はブーメランで真っ二つになった看板をくっつけ(どうやって!?)、敵の部下たちのズボンのベルトをすべて裁断する技を披露する。おまけに「この神社は街の人たちの大切な場所だ」という説教付きである。

 か、カッコいい……!!

 島本和彦が熱の入った口調でこうしたズバットの魅力をガンガン語るわけだが、森川ジョージはちょっと不満げだ。

 曰く、「ズバットはもっと渋いドラマだ。島本さんの説明だとギャグにしか聞こえない」。

 島本先生は、ズバットを茶化す意図や腐す意図は一切なかったと思う。本気で魅力を伝えようとしていた。でも、その説明がなんだかギャグっぽく聞こえてしまうのも事実だった。森川先生の不満も、わからなくはない。
 ズバットの根底にあるのは、二枚目ヒーロー・早川健が親友の仇を討つための復讐劇だ。その道中、様々な悪いやつに苦しめられている無辜の人々がおり、早川は犯人探しを続ける傍ら、無辜の人々に味方し悪を倒す。最強主人公によるハードボイルド無双アクションであり、早川はときにゲストから誤解を受けても、まっすぐに悪を討つ。そして、犯罪組織のボスを締め上げて、「この者、凶悪殺人犯」だのといったカードだけを残して去っていく。ゲストたちの誤解が解け、彼らが早川に謝ろうとしても、もう早川は街にはいない。
 こういうストレートなカッコよさも、ズバットはきちんと持っている。

 ボスを締め上げる際、「2月2日、飛鳥吾郎という男を殺したのは貴様だな!」という尋問パートが入るのもお約束だ。毎回ボスは「俺じゃない」と自らのアリバイを語り、親友の仇討ちは空振りに終わるのだが、最終回、これまでの犯罪結社とつながりのあった巨悪を前に早川が同じ問いを投げかけると、「その通り! やつは私の計画に気づいていたからな!」と叫び、巨悪はズバットと同じ強化服を身にまとう。この強化服は、もともと亡き親友が設計していたものである。このへんは、お約束をきちんとカタルシスに昇華していて素晴らしい。

 さて、翻って森川ジョージ先生の不満についてだ。
 森川先生は苦笑いしながら、「(島本さんは)こういう人なんだよね。だからどんなにシリアスな話書いても、ギャグっぽくなっちゃうの」と言っていた。

 島本先生は極端な例にしても、僕もどっちかと言えばそっち側だ。「カッコいいがオーバーフローを起こしたときに笑ってしまう」という性質は、そこから生まれている。

 これは島本先生の自己分析だが、島本先生と森川先生はどちらも梶原一騎世代であり、「巨人の星」や「あしたのジョー」から、男の生きざまというものを学んできた。だが、ふたりがデビューする頃はマンガ文化が変質し始めた時期であり、高橋留美子や鳥山明が、ちょっとポップで往年のお約束へのアンチテーゼを内包したような作品を輩出し始めていた。で、梶原イズムを継承するにあたり、「自分は梶原一騎のような生き方はできない」という突き放しをしてしまったのが島本和彦で、愚直にその背中を追いかけたのが森川ジョージ……と、いうことらしい。
 この分析に、僕はめちゃくちゃ納得した。梶原一騎にはなれないが、梶原一騎の表現する生き様には憧れる。この二面性は、島本作品からものすごく感じる。そして、島本作品は「星飛雄馬や矢吹丈になれない男たち」が、「飛雄馬やジョーになろうとすること」を肯定している。なれるかなれないかは問題ではない。なろうとする意思そのものが尊いと描いている。

 僕が「オーバーフローしたカッコよさ」を目の当たりにしたとき、笑ってしまうことがあるのは、ある種のツッコミである。「そんなカッコいいものが存在するわけないだろ」という、現実への諦観だ。だが、同時に「存在していてほしい」という強烈な渇望がある。だからこそ、空想の世界にカッコよさを求めている。
 早川健を笑ってるからと言って、決して彼をバカにしているわけでも軽んじているわけでもないのだ。そのへんを、ちょっとわかってほしかった。

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