スパイダーマンとカクヨムの話

 先に断っておくと、別にソニーとKADOKAWAの話をするわけではない。

 僕は「スパイダーマン:ホームカミング」が好きだ。理由はいくつかあるが、その中に「プロットポイントが明確で話を分解しやすいから」というのもある。最近、たくさん物語のプロットを作ったのだが、その時に「ホームカミングだったらここはこの場面だな」というのがイメージしやすいのである。

 もちろん、すべてが教科書通りである必要はない。
 というか、全部が全部教科書通りであったら面白くない。

 教えというのは要するに導きであって、夜に迷ったときに道標を出してくれる灯台のようなものだと思っている。とかく、創作の海というのは魔境であって、人心を惑わせるセイレーンがそこかしこに潜んでいるのだ。我々に必要なのは、惑わされずに舵を取る強靭な精神力ではあるが、僕のような凡人は常に気を張ってはいられない。だから、時として灯台が必要になる。ホームカミングは素晴らしい灯台だった。

 物語創作において「SAVE THE CATの法則」という名著がある。今はもうちょっと古いのかもしれないが、こちらもプロットポイントの打ち方については良い道標になってくれた。
 海外では物語の作り方において三幕構成というのが主流になっていて、ストーリーのセットアップを済ませる第一幕、そこで提示された目的を巡ってドラマが展開される第二幕、そして最終的にストーリーがどう解決されるかを描く第三幕に別れる。「SAVE THE CAT」では、この第二幕を真ん中で分割し、ストーリーの「売り」を強く押し出す前半と、大きな失敗・もしくは成功で流れが変化する後半に分けている。

 すげぇ乱暴な言い方をすると、三幕構成は「起・承・結」だったのを、「起・(承・転)・結」に分けたみたいな考え方だ。
 こう考えると起承転結ってすげぇ言葉だな。

 三幕構成にせよ起承転結にせよ、ロジックだけ知っていても意味がない。実際の作品で、それがどのように効果的に発揮されているのかを知ることで、「ここではこれくらいのイベントがないといかんよな」という感覚を掴むことができる。
 「ホームカミング」では、スパイダーマンをやってるピーターと、彼の周辺の人物、ピーターがアベンジャーズ入りでいないことにヤキモキしている描写が第一幕(起)で提示され、本作のヴィランであるバルチャーと遭遇することで第二幕前半(承)が始まる。ここで、ホームカミングの物語は一段深いレイヤーへと移行する。ピーターはスパイダーマンとして本格的な活躍を始めるが、調子にのって無辜の市民を危険に晒し、スーツを没収されてしまう。ここがミッドポイントだ。ここから第二部後半(転)に変わる。

 個人的に、この「第二部後半(転)」が難しいといつも思う。面白くするのが大変なのだ。ここの感覚は人によって違うので、「ここを書くのが一番楽しい」という人もいるだろう。僕は「承」の部分を書くのが一番好きなタイプなので、それが終わった後の転が一番苦手だ。

 「ホームカミング」にはそこへのヒントがあった。とにかく、情報の開示・衝撃の事実・展開の切り替え。そういったものをここに詰め込むのだ。まさしく「転」である。「承」は物語の売りを押し出す場面であり、実はストーリーの進みが遅くても「進んでいる感」さえ出ていればそれで良いと思う。とにかく面白いシーンを連発するのだ。だが、実際に物語が一番大きく変化するのは、この「転」の部分だ。
 スーツを没収されたピーターが、憧れの女の子を誘いに行く。するとその女の子の父親が、実はヴァルチャーだったとわかる。向こうは最初はピーターがスパイダーマンであることに気づかないが、徐々に疑いの目をかけられていく。ピーターはヴァルチャーの計画をアベンジャーズに伝えようとするが、伝わらない。ピーターはスーツもない状態で、ヴァルチャーに立ち向かう。

 僕は実は、三幕構成のことを勉強するまでは、ここまでが「承」だと思っていた。「結」とは文字通りの結び、エンディングであり、この次に待ち構えているクライマックスこそが、激動の「転」なのだと。でも実際、一番物語が動くのはクライマックスの手前なのよね。

 ホームカミングが気づかせてくれた落とし穴というのは、まだある。「クライマックスでも油断するな」ということだ。
 これは、ホムカミだけではなくTRPGを遊んでいるときにも気づいたことなのだが、僕は長い間「クライマックスに入ったらトラブルを1個解決して終わり」というナメた考えでいた。この時点で思い描いていた地図の通りに物事が運び、決着するのが良いものだと思い込んでいた。もちろん、それが良い場合だってあるだろうが、クライマックスは思い通りに行かない方が面白いことも結構あるのだ。ホムカミで言うと、ピーターが瓦礫の下に埋まって弱音を吐くシーンである。

 僕は長いこと、30分で1ドラマを終わらせる作品の世界に浸っていたので、クライマックスの障害が何重にもなっているという展開にあまり親しんでいなかった。厳密にはないわけではなかったのだろうが、「そのドラマの敵ボス」というひとつの障害の中に終始する存在というイメージがあった。
 例えば、「怪獣Aを倒す際に、怪獣Aの能力に苦しめられる」という障害と、「怪獣Aを倒すために博士Bの開発した兵器が必要だが、博士Bが過労で倒れてしまい兵器が完成しない」という障害では、受ける印象が違う。後者の方が「どうしようもない感」があって、ドラマを盛り上げる。そういうことに気づくのに結構時間がかかった。

 さて。ところで僕も、いつまでもプロットとキャラをこねくり回しているわけではない。実際に執筆もしている。
 停滞するたびに「ホームカミングではどうだったっけなぁ」と思ったので、こういう記事を書いてみた。

 というわけで、明日から開催されるカクヨムコン10に「この中にひとり、推しがいる」という作品を投稿します。問題児が集められた修学旅行の班に、どうやら推しVtuberの中の人がいるっぽいぞという話です。みんな読んでね。

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