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観劇記録|ハイバイ『て』

\\ ハイバイが富山に来る~~~??!!! //

そんな信じられない、まさか、本当に?!
と思って、情報を確認したら本当だったので、劇団先行で無事チケットを取ることができました…!そのお陰で、めっちゃいい席で観ることができました。大きめのホールでいい席が取れたことがほとんどなかったのでめちゃくちゃ嬉しかったです。初のオーバードホール・中ホールがハイバイさんの作品だったのも良かったなと思いました。

感想を書こうと思って、箇条書きにメモしたのですが、それだけでも結構長くなりそうでしたので、お暇でお時間のある方はどうぞご覧ください。

[富山公演] ハイバイ 『て』
オーバードホール・中ホール
2025年1月8日(水)18:30開演
1階席E列中央より観劇

  ※ネタバレがあります。これから観る予定の方はご注意ください




あらすじ

祖母・井上菊枝(川上友里)の認知症をきっかけに、山田家の4人兄妹は実家に再集合することになった。祖母の家、応接間の続きに宴の準備をし、父(後藤剛範)のカラオケ「リバーサイドホテル」が響き渡っていた。

静岡からこちらに引っ越してくるという長女・よしこ(伊勢佳世)は家族をやり直したいと希望を持っていた。
次男・次郎(田村健太郎)は、父の過去の暴力を咎め、騒ぎ、宴の最後には喧嘩沙汰になるが、長男・太郎(大倉孝二)は父との会話は無駄だとひとり静観していた。
次女・かなこ(藤谷理子)はバンドのボーカルをしており、それを理由によしこから執拗なカラオケの催促を受け、その場を逃げ出してしまった。
また、次郎の友人である前田(岡本昌也)はこの宴に誘われ、居心地が悪くも次郎を気遣っていた。

静かになった宴のテーブルについた母・通子(小松和重)は、よしこに父と離婚しないのかと聞かれ、「怖いから」と返事をするのだった。

この宴の合間に、後に亡くなる祖母の葬儀の様子が描かれていく。
葬儀屋(梅里アーツ、乙木瓜広)、牧師(板垣雄亮)が粛々と、時に家族から「変だった」と言われる葬儀が進められていき、最後には家族の<て>で、火葬炉へ送り出される……のだった。


富山のひとに観てもらえてよかった

終演後に、知りあいの演劇人と「富山でハイバイさんの知名度って、そこまで高くないと思うよね」という話をしていました。
演劇人でも、関東圏の劇団さんや公演にアンテナを張っていなければ知らないんじゃないかと個人的には思っています。それよりは、大倉孝二さんや伊勢佳世さん、小松和重さん、岩井秀人さんの方が知られていて、役者さん目当てで来た方や、オーバードホールだからという理由で来られた方の方が多いのではないかと思いました。

私は、この作品は富山の人だったら割とすんなりと見られるんじゃないかと思いました。年末年始、GW、お盆。帰省ラッシュとニュースから伝えられる頃、富山はまさにそれを受け入れる側です。
兄弟姉妹が集まり、その子供たちが集まり、瞬間的に集団が大きくなります。仲の良い従兄関係もあれば、嫁いできたばかりの人には立ち位置がわからず、「何かお手伝いしましょうか」という気遣いが行ったり来たりするかもしれません。
そういった宴会や宴、ご飯会などの席を容易に想像できる県だと思いますし、長女がこだわっていた「家族全員で集まる」ということにこだわる理由も、何となく感じ取れる人もいるんじゃないかと思うのです。言語化は出来ないかもしれないけれど、肌感覚で感じてしまうような。

「なんとなく集まらなくちゃいけない」
「みんな来るし」
「うちだけ行かんかったらなんか言われるかもしれん」
「おばあちゃんに顔を見せに行かんなん」

……というような、何となく「〇〇せんなん」(=しないといけない/富山の方言)という潜在意識を持っている人もまだまだ居そうな気もします。

また、介護をしていたり、施設に入ってもらっている祖父母がいる、居た家も結構ありそうだなと思います。登場人物、祖母の認知症が、辛いように見える作品だったらしんどいかもしれないと心配だった点もありましたが、そこは杞憂で、絡ませ方が上手いと思いました。

そういった、「こういう環境で暮らしているような人たちが色濃く残っているんじゃないか」と思われる場所の人たちに観てもらえて何だかよかったなぁと思いました。地方と都市部での感想の違いとかあるのかなぁ。あって欲しいと思うし、あってこそ、の作品のような気もします。


余計な思考をさせない

冒頭で、納棺を済ませた棺を前に牧師が話をするシーンがあります。そこでその牧師がおかしかった、と兄妹たちが回想えでツッコミを入れています。このシーンに入る前、前説からシームレスに作品に入っていく演出も大好物なのですが、「牧師」とするところに上手いなぁ、妙だなぁと思わされました。

富山は浄土真宗が多い土地柄です。多分、牧師さんがこのようにいらっしゃる葬儀を経験したことってほとんどないんじゃないかと思います。
そのため、葬式や葬儀場が舞台の作品を上演する時には、どの程度お客さまに納得して貰うかみたいな部分に苦心したことがあります。作法をどうするのか、焼香のシーンがあるなら順番や焼香の仕方は……みたいなところで、お客さまから「そうじゃないんじゃない?」みたいに言われない、けれども作品演出としてフィットするものを出す、というようなことです。
観ている人が、そこで思考をしない、違和感や反論を生まないことで、作品に入っていける。これができている作品って本当にいいなぁと思います。

だから、「牧師さんの葬儀」という、馴染みのないものであれば、本当の、いつものそれがわからないから違和感も疑問も持たないし、見て欲しいところを見てもらえる。巧妙なつくりにため息が出ました。同じようなことをイキウメ『人魂を届けに』の感想で書いています。

「魂とは」「魂の形とは」というところに、観ている人の重きを持っていかせないというのも良かった。「私は魂っていうのは丸くてほわほわ~っとしていて白いものじゃないとダメなの。」という山鳥の台詞が全てをねじ伏せて終わらせている。見ている方は、「魂は白くてほわほわ派」と「そうじゃなくてもいい派」のどちらかに自分の気持ちを落ち着かせることができる。こういった細かいけれど、序盤で引っかかって世界観に入りにくくなってしまいそううな要因を取り除くのが本当にうまいと思った。

▼の観劇記録より引用。気になる方はこちらもあわせてどうぞ        

そして、まざまざと見せつけられる家族の姿があります。どうしたって、自分の知っている家族を想像したり連想したりしそうです。こうやって、自分自身に置き換えて想像させるというのも凄いと思います。

これについても、昨年なんばグランド花月で漫才を見たときの感想で書いています。

そして、ネタやお客さん振りで思ったのですが、見ている中で「自分事として想像させる」のが上手いなぁと思いました。フットボールアワーのネタで冷蔵庫のどこにドレッシングをいれるか、というのがあったのですが、客席に居たお客さんが自分の家の冷蔵庫のドレッシングの位置を想像していたのがわかりましたし、それがバチーンとハマったときに、客席全体がワッ!と動いた反応でした。お客さんに想像させるというのが本当にうまい台本だなと思いました

▼なんばグランド花月に行った時の感想より引用。気になる方はこちらもあわせてどうぞ  

以前に感じたことがきっちりと埋め込まれていて、面白い作品はそうだよね、やっぱりね、と感じました。


シンプルな一言にひっくり返される

私は、ミステリーや推理小説の大どんでん返し、予想の斜め上を行く裏切り方、一言でそれまでの全てがひっくり返されもう一度最初から読まなければならないと思わせる展開が大好きです。

「て」でもそういった瞬間があって、
「うわわわあああ!!この一言で!!この何気ない、日常で聞いても何ともない言葉で、目の前の視界が急に開けたような感覚になるとは…!!」
と思いました。その言葉が、

母・通子
     「何年経ったと思ってるのよ」
     「ほんとに教会からだったかしら」

ハイバイ「て」より(うろ覚えなので正確ではない可能性が高いです)

の2つでした。

「何年経ったと思ってるのよ」

これは、宴を抜けて、同窓会に参加している友人からかかってきた電話に出た通子の最後の言葉です。心からの叫びと、宴で家族が盛り上がる様子の対比で、苦虫を噛みつぶしたような顔をして観ていた気がします。
学生時代からかっこよかった森君が、今でもカッコイイかどうか確認して、友人が本人に通子のことを言おうか?と、当時のノリと関係性が一瞬で蘇るようなやりとりです。
この、時間っていう、絶対に巻き戻せない、けれどもみんなに等しく与えられているものを自分はこんなことに使ってしまった、というような面白いのに悲痛さが感じられました。ほんとに、なんだよこれ、っていう気持ちでした。

それまで父をやり過ごしてきた、怖くて言い出せないし仕方ないのよ、みたいな言葉を言っていたのに、内面ではそんな激情が蓄積されていたのか、と、通子への感情がぐっと傾き、解像度があがった感覚でした。
今更そんな事言われても、そうなったとしてももうどうしようもないし、そうはなり得ないという絶望を感じた瞬間でもありました。


「ほんとに教会からだったかしら」

これは、長男・太郎が葬儀でこんなに泣くとは思わなかったという妹弟と母の会話で、どこから泣いていたのか主張が異なっていたというところの言葉です。
妹弟は教会からだったというのに対し、母は「本当に教会からだったか。もっと前からじゃなかったか」と言います。先にその会話があり、最後のシーンで、長男が怒りとも泣きとも取れる様子で、母が「ほんとに教会からだったかしら」とつぶやきます。

それまでは、全然、全く、ノーマークのやりとりだったのですが、ここで、長男の様子と母の言葉を同時に観ることで、「本当はどうだったのか」ということが提示されます。あるいは、この作品全体に対して「本当はどうだったのか」ということを提起されます。
何が本当で何が思い込みや認知の歪みかがゆらぎ、観ている人が自分で選択するという風になるのかもしれないと思いました。その後の牧師の「何が本当なんでしょう」という言葉が決定打かもしれません。

それを表面でしか受け取っていない妹弟と内面を見る母で、一気に長男への信頼感や信憑性が増した瞬間を感じました。それまで長男が言っていたこと、行動していたことの方が現実としては正しく、意味があったのかもしれない。だから、2視点から描かれた父親のどちらを本当だったかと思うかという部分がひっくり返され、改めるきっかけを作られ、気持ちが大きく動いた瞬間でした。

どちらも通子の言葉で、通子に共感したのかなぁとも思ったのですが、多分一番親近感があったのは前田君かもしれないと思いました。実際に誰に一番近いと言われればよしこなんだろうな……笑


微妙な関係者がいること

前田君の存在でギリギリ客観性を保てて居たんだろうなと思いました。いなかったら多分見ていられないし、家族の形も崩れてしまったかもしれません。こういう存在をぽーんと放り込めるのって凄いと思いました。

前田君を見たときに、これは私も経験したことがあるなと思いました。他の家族に混じらなくても、親戚の輪の中で前田君になることがあります。

結婚して長くない頃に、義母のお母さま(義祖母)が亡くなられました。配偶者にとっては祖母なので、葬儀に出て、その後義母の実家に戻ってきてからのお寺さんのお参りとご飯の時間がありました。
火葬場からお家に戻ってこられた時も、お家のお座敷(3つくらいつながっていたかも)がいっぱいになるくらい人が残っていました。そして、そのまま「ご飯も食べてかれ」となるわけです。
私は配偶者側の親戚はほぼ知らないので、気を遣って帰ろうとしてくれたのですが、周りのおばさまなどからかなり引き留められて、結局ご飯をいただいていくことになりました。

これです。

親戚だけど、私としては前田君と同じ状態です。
友達や知人の関係でなくても、前田君のような状況になることがありました。家族とは別の関係性として前田君は登場しましたが、親戚というくくりであっても前田君の立ち位置が存在するということに気が付かされました。なるほどな…。
そんなわけで、何となく、誰に感情移入するでもなく、私も前田君と同じような立ち位置で観劇していたような気がします。

直接家族で認知症の相手をする経験はこれからでしょうし、理不尽な親だったわけでもありません。そういった、ちょっとこの家族と共通点がない立ち位置の人たちからしたら、前田君は本当に心のよりどころだったと思います。

そして、通子が小松さん、男性だったのも落ち着いて見られました。きっと女性だったら辛くて見ていられなかったと思うし、あまりにも強度があり過ぎる気がしました。あと、その頃の年齢から徐々におじさんかおばさんか境界線が曖昧になってくるんじゃないかと思っています。性別とかではなく、人間に戻っていくような。そういった部分も感じられて好きだなと思いました。


迎える田舎

長男の太郎が地元で、母と父と祖母の近くにいて、それ以外の妹弟はそれぞれの土地で暮らす。そんな距離感なのかなと思いました。
祖母がきっかけで集まり、長女は戻ってきて祖母を見るというし次男も祖母を気にかけている。たまにSNSで見かける、何かが起こってから戻ってきて介護をしている家族たちに外野からやんややんや言う遠い親戚みたいな構図だなと思いました。それは介護だけではなく、家を建てるといったら勝手にアドバイスをしに来る親戚だったり、子供ができたと言ったらこれはしてはいけないこれはしろみたいなことを言いに来る親戚や他人の構図にも当てはまると思いました。

そう思った時、おばあちゃんの家の応接間にパーツを広げている長男の気持ちが何となくわかってしまったような気がしました。
その応接間だけではなく、祖母を含めたおばあちゃん家は長男の場所なんだという主張であるかもしれないし、自分以外が入ってこないでほしいと思っている場所かもしれない。先に挙げた、外野からとやかく言われる側のバリケードなのかもしれないと思いました。

そういう風に思うと、祖母にご飯を食べさせるシーンも、父に対して何も言わないシーンも違う景色に見えてきます。温度差というか、その時だけやっている人と、それ以外も毎日している人の色が違うような気がするのです。
同じ行動なのに違う風に見える演出の仕方がとても興味深く、いい意味で陰湿で残酷な印象を受けました。

また自分が経験を増やしたら見えることも違ってくるような気がしたけれど、そんな時が来てもいいような、来ないでほしいような気持ちもしています。


何となく思った全体のこと

オーバード中ホールの質感に、ハイバイさんがあっていたな~と思いました。客席の傾斜の付き方も良さそうで、本多劇場や赤坂、スズナリみたいな感じで、後ろの方も見やすそうだなと思いました。
ハイバイさんのテイストが合うなら、劇団チョコレートケーキさん、イキウメさん、ロ字ックさんも合いそうだなぁと思いました。

舞台セットがシンプルなのに、ギミックがあったり傾きで心理を感じ取れたりしていていいなぁと思いました。よくある感じだと思うけど、テーブルに物を固定して動かすのはいいなと思いました。田舎でも乗せたままちょっと動かすか~とかあるな….。(多分)

光の感じもこれはいいな…と思いながら見ていました。母が同窓会の電話をするシーンで、右側にそれ以外の家族が集まった時の感じが複雑で好きでした。あの棺の中に入っている状態で動くのってどんな気持ちになるんだろう…めっちゃ怖そう~と思ったりしてしまいました。

個人の感想ですが、富山に縁のあるとか、関係のある劇団さんや役者さんや劇作家さん(今回も岩井さんのお父さんが富山出身)が呼ばれている感じがするので、ゆくゆくはそういうのが関係なく作品や劇団を呼んでほしいなと思いました。観る側もそういうのを求められるくらい、演劇を好きなお客さんで埋め尽くしていきたいなとも思います。







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のとえみ
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