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第二回「コダワリのコトワリ」の鼎談 白石雪妃 × yasuchika × 上田晃之

ゲスト: 書家 白石雪妃 (Setsuhi ‘eri’ Shiraishi)

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伝統的な書の世界を伝えつつ、独特のスタイルで他芸術とのコラボなど、書道を総合芸術として昇華させる世界観は高く評価され、生演奏との融合から生まれるライブ書道は世界中で多くのファンを魅了する。
2014 FIFA World Cupサッカー日本代表新ユニフォームのコンセプト「円陣」揮毫。
(株)資生堂 クレ・ド・ポー・ボーテ「6人の女性たち」に選出される。
PanasonicのTRMや日本オラクル(株)の壁書画を制作。
パリやNY、SFで個展など、海外でも活動する。

https://setsuhi.com/

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今回はファシリテーターに上田晃之 (劇作家、演出家、役者)を迎えて鼎談して行きたいと思いますが、
今回もお世話になっている喫茶茶会記の企画で、(上田氏は茶会記の副店主)雪妃さんを扱った企画があり、書家 白石雪妃を知るの為に素晴らしいサイトになっており、
またそこに書かれている上田氏の言葉がとても重厚で、なかなかネットでは出会えない言葉が綴られているので、是非一度覗いてみてください。

「Interpretation-白石雪妃の美の内奥について」

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鼎談

白石雪妃→雪)YASUCHIKA→Y)上田晃之→上)



Y)では第二回「コダワリのコトワリ」ゲスト、書家 白石雪妃さんと上田晃之(劇作家、演出家、役者)を迎えて、三人なので「鼎談」ということで進めていきたいと思います。
よろしくお願いします。

上)
はい、よろしくお願いします。

雪)よろしくお願いします。

Y)で、そう雪妃さんにさっそくなんですけど、(Setsuhi‘eri’Shiraishi)のミドルネームみたいなやつは何ですか?
って気になったので、聞いときます!

雪)本名です笑
海外だとその方が呼びやすいので


Y)なるほど! 本名は想定内でしたw で、海外だとそうですね。セツヒって正直俺は正確に発音するの難しく感じてましたw そもそも自分のYASUCHIKAってのも発音あやしいのでw


雪)確かに^^;


Y)あと、書家ですね。
俺これまで、書道家って呼んでしまっていたんですけど、
その辺りのコダワリってありますか?


雪)意味は同じですね。本来書家でしたが、近年書道家が主流になって、また更に最近は書家の呼び方が多くなった気がします。


Y)なるほど。意味は変わらないから、その辺りは世間の動向に合わせて流動的にってことなんですね。


雪)私はどちらで呼ばれても構いませんが、自分では書家と名乗っています。
人によってはこだわっているかもしれませんね。


Y)俺はよく舞踏家って言われるんですけど、
舞踊家なんですよ。
で、舞踏と舞踊って全然違うので、
その辺は訂正した方がいいと思った時は、訂正するんですよ。
俺の場合、コダワリってことじゃなくて、ジャンルが変わることになるんで、多少煩わしさ感じていたりするので、
結構他の芸術家さんの肩書には、センシティブにするようにはしてるっていう背景があるので、気になった次第でした。


雪)なるほど、大事ですね


Y)そうなんですよ。
それで、書の世界って、とてもとても長い伝統があるので、書家と書道家(道が付かないのと、付くの)の差がもしやあるのではって思ったんですよね。


雪)よく言われます。
ご期待に添えずすみません(笑)
ジャンルで言えば墨象家などは違うジャンルですね。
あと商業書道家


Y)いえいえ!(笑
ということで、肩書きについて、今後雪妃さんと絡む方は、気にしなくても大丈夫ということで!
で、商業書道家は分かりますが、墨象家?
これ初めて聞きます。
どんな専門なんです?


雪)墨を使って表現する方
技法などにとらわれず
先程お話に出た篠田桃紅さんとか


Y)ひょ~!
本当初耳ですわ。 
で、「墨」が出てきたので、今俺の中で熱い人を先日見つけまして、恥ずかしながら今まで知らなかったんですが、美術家の篠田桃紅さん。
…って言おうとしたら先に来ましたねww
篠田桃紅さんは、美術家って世間では肩書になってますけど、
書の世界の人から言ったら、墨象家ってことになるんですかね?
(上田)晃之、篠田桃紅さん知ってる?


雪)美術家なんですね、肩書き気にしてませんでした。


上)よく知らないです
名前とかは少しは知っていました


Y)篠田桃紅さんの系譜を追うと、なぜ美術家という肩書にしたのかをご自身でも語られていると思いますわ。
すごくシンプルに言うと「書」という世界から自由になりたいってことでした。
で、雪妃さんとは、「コダワリのコトワリ」の為に、忙しい中、一度は雪妃さんの作品が書かれ、また飾られているコーヒーショップで打ち合わせして、(これ何処か言ってもいいですかね?)二度目は晃之(上田)と共に雪妃さんの自宅兼アトリエへお邪魔させてもらって、
一度目は「筆」
二度目の時には「墨」
というコダワリが出てきたんですけど、
「墨」についてのコダワリのさわりだけでも何か言えることあれば教えてもらいたいです。
篠田桃紅さんを見ていたら、「墨」の深さをより感じたものですから。


雪)はい、ドトール笑
墨についてはまだまだ研究中です。

Y)そう!ドトールw飯田橋神楽坂店ですね!
で、「墨分五色」「墨は五色をあらわす」…五色っていうのは数多の色彩の比喩だと思うのですけど、
墨による色彩、物理的には黒から白への無限のグラデーションの中で表現される色彩を超えた何かまでも、観る者の世界を別次元へ連れていくことを篠田桃紅さんの作品から感じさせられました。
これって、余白の美や不完全であるが故に喚起される感覚と通じているなって個人的には感じてます。
そうそう。
有名な誰かが、何かの花の赤を、絵の具では再現できないってことを篠田桃紅さんが語ってました。
それを、墨の世界なら人間の想像、想像力(または経験的身体)によって感じ、観じ取ることが出来るのだろうって思いましたね。


雪)墨による色彩というのはグラデーションもありますが、色味の違いもありますね。淡墨(薄い墨)にした時に分かりやすいと思いますが、赤みがかっていたり青みや紫がかっていたり、、全て黒ですが色味は様々です。


Y)それはやはり、墨の一つの大きな特徴なんですかね?
墨には、大きく括った絵の具(特に西洋由来のもの)では出せないものがあるんでしょうね。
黒と言うと、雪妃さんがリスペクト?しているピエール・スーラージュの作品を思い出しました。


雪)そうですね、
スーラージュ黒の画家と言われていますが、墨を使っているわけではなくて、光の反射を使って表現するので光の魔術師とも言われています。


Y)とても対照的ですよね。
俺の師匠からは、日本の色彩は浸透性で、ざっくり西洋は発光性って聞いてきました。
布の世界で言えば、日本の重ねの色彩とか、十二単衣とかも分かりやすいですが、墨も重ねても重ねても塗りつぶされずに、浸透性を保ってますね。


上)墨から、黒から、透過性の話などになったのですが、ふと、裸という言葉が思い浮かびました。書にとって、裸とは何か。
また、同時に裸の対称として、着ること重ねること。そのようなことがテーマとして面白いかもしれないと直感しました。


Y)流石!
言葉のチョイスがいい!
で実はもう雪妃さんにお願いしていることがあって、同意してもらっているんだけど、
その文を少し削ったのを乗っけるわ。
『一番重要なのは、白石雪妃という書道家がいないと、生まれなかった書、作品があり、
それは一番何に依拠されているかといえば、白石雪妃その人そのものでしかない。
如何なる道具があろうとも、
如何なる環境があろうとも、
白石雪妃がいなければ、何も産まれない。
ということが、大前提であるということです。

もう一度そこに立脚して、「コダワリのコトワリ」に向かい合ってもらうことに協力して頂かないかと。
雪妃さんそのもの
書道家 白石雪妃という生命体、人生…
それらを自分の言葉でいうならば身体、カラダであり(身体と人生は不可分)
書でいうならば「書は人なり」と言うことに繋がるのではないかと思います。
で、人、生命、人生を一つの観方で切り取るならば、「動き」だと。
動きがあるから生命であり
生命は動きだと。

それで、書に話を持ってくると、
「書」は「書」という(既にそこに古から連綿と受け継がれた人の動きがあり)文字、形を通じて、表された人の動きの軌跡であり、
故に「書は人なり」ってことは、
俺からすると一面的な解釈としても当然ことに感じます。

その「動き」の軌跡は、あらゆる表現というものにも通底していることではあれど、
「書」はその成り立ち、文字があるが故に、より「動き」を捕まえやすい形式、形態なのだと思ってます。
そんなこんなで、「動き」ってことに集約していきたいと思ってます。』

で、雪妃さんのレスの一部を
『すごく良いですね!動作、所作、緩急や間などが、古来の美意識の軌跡を辿る追体験=意臨と、自分の表現における一画一文字に宿る魂や感性に繋がっていると思います。』

晃之のいう、書における「裸」ってことになると、また書の膨大な歴史にクラクラしそうだからw、
白石雪妃という書家に絞って、その「裸」ってことならば、上記に提案した、俺のアプローチで扱えているんじゃなかろうかって思うんだけど、どうだろう?


上)裸は動きの対称としての「待つ」です。
つまり、いかに動けるか、動かされるか、ということで、テーマは問題なく良いと思います。

これは、身体による書的な風景論になるのではないでしょうか。
そして、動き出したときに、そのすべては明らかになる。


Y)「待つ」って最近俺の中のワードで上がっていて、
多分、茶会記企画で雪妃さんの書、実演に対して晃之が述べたことの中に入っていたから出てきたような気もするんだけど、
で、「待つ」って、「動き」の対称として捉える層もあるけど、
「動き」を能動、受動で分けた時に、
俺の中での「待つ」って、動かされるに属するんだよね。

それで「身体による書的な風景論」って、
俺の言葉で言い換えるならば、
「書を通じての生じる内的身体の風景」になって、
それが表現媒体によって表出してくることが光によって明かされるって感じかな。
で、書はその歴史の膨大さにも関係すると観じるんだけど、「待つ」ことがとても要求されるって思う。


上)書の源泉に、すべての外界といかに内的な身体とが関わり、それらが生き物同士として感応し、書としていく過程が甲骨文字のようなものだと思っていて、そこには既に他者としての風景と、己の身体としての風景が、出会い、含まれている、と思います。つまり書は、既に待ち合わせの場所として生まれている。
そのようなときに、己の側は、いかに他者と感応し得る、ただの身体として待ち、他者なる風景と出会えるか、いうことが待つということになると思う。
まだない出会いをいかに待ち合わせることができるか。


Y)そうそう!
でね、俺の注目、集注する身体の層には、その他者性があるんだわ。
それを経験的身体(もしくは内観的身体)って言っていて、
経験的身体で言うならば、
個(己)の経験、
種(または文化)の経験、
生命の経験、
っていう風に層をなしてるんだけど、
(この分類は光岡英稔先生の言葉なんだけど)
まだない他者なる風景との出会いを待ち、出会ったことを表現するのが芸術の一つの在り方だと思っていて、
書はその待ち合わせの場所として、とてもいい場所だなって思うんだわ。

で、雪妃さんから教わったんだけど、
書の世界には、臨書っていう稽古、鍛錬法(?)があって、
臨書には形臨と意臨っていうのがあるんだけど、
もうそれって、他者(古の人)との感応力を養う行為そのものだって思ったんだよね。


雪)金野さんの「日本の色彩は浸透性で、ざっくり西洋は発光性」

とても対照的なのになぜ惹かれるのか、もちろん無い物ねだりとか共通点があるから惹かれるとかまたはその逆などもあると思いますが、この場合は余白の取り方でしょうかね。

墨を重ねても重ねても、というのはそのような作品をご覧になったのでしょうか?どのような作品をみてそう感じたのか興味があります。

金野さんの浸透性=上田さんの透過性という認識で良いのでしょうか?
そこから裸というワードが私にはピンとこなくて、ここが分かり合えないと違う方向へ行ってしまうのかもしれませんが、すみません、、
書にとって裸とは何か、という視点はとても興味深いのでその視点から考えてみます。
書にとって、というか私の書にとってを考えると、裸=素のまま=書き下ろしの書。また、裸の対称としては、裏打ち、額装、軸装など。そうなるとパフォーマンスの時の作品=裸となり、パフォーマンスとは何かと考えると「動的表現」すなわち私の動き、ということになります。以前、どなたかが、パフォーマンスを見られるというのは裸を見られてるみたいだったと言っていました。普段製作過程は人に見せるものではないからとも。。ただ私のパフォーマンスは制作過程ではなく、瞬間瞬間が作品だと思っています。だから私は重ねていくのですが、、
少し話を戻して、裏打ち、額装、軸装のところ。ここも相当こだわります。
全てトータルで私の作品という認識が強い。表装の種類はもちろん枠の中や空間がが数ミリ違うだけでかなり印象が変わるのでものすごく時間をかけます。全てが合致した時、一瞬にして引き込まれるのだと思います。余白は魔性ですね(笑)

金野さんの『一番重要なのは、白石雪妃という書道家がいないと、生まれなかった書、作品があり~中略~そんなこんなで、「動き」ってことに集約していきたいと思ってます。』

今あらためて再度読むと、人の動きの軌跡からの「書は人なり」はまた別のような気がしますが、おっしゃることは分かります。書は人なりというのは本来内面的なことですが、私の書いた書では、よく人が何かをしているように見えると言われます。例えば「遊」という漢字を作品にしたとき、子供がボールを蹴っている絵に見えるとか、、これが本当に見えるんですね笑

それで、上田さんの『裸は動きの対称としての「待つ」です。
つまり、いかに動けるか、動かされるか、ということで、テーマは問題なく良いと思います。』
は、なるほど、私が考えた次元より前の段階のことですね。


Y)そうなんです。
これ前の段階の話なんです。
前でありまた渦中の話ともいえます。
裸も動きも内的(内面的も含む)なところの話で、
目に見えないところの話になります。
目には見えないが、感じる(観じる)ことが出来るところの話なんです。
その内的な動きがあるから、
体の動きが出てきて、目に見える現象となるってことです。

生躰研究家(金野の肩書の一つ)として取り扱っている「身体」っていうのは、
その内的な動き、世界のことそのもので、
その「身体」より、芸術表現に接続することが、
俺の一番のコダワリであり、そこに様々なコトワリがあるんです。
その「身体」って、とても分かりやすく分類すると、よく言うんですが「死んだら消える身体」ってやつなんです。
大雑把すぎますが、意識の世界で言うなら、
意識ではない無意識の側です。

で、「パフォーマンスは制作過程ではなく、瞬間瞬間が作品」
その雪妃さんの言葉はよく分かります。
舞台芸術ってずっとそれなので。

「裸をみられているみたい」…ってよく分かります。
逆に舞台芸術は裸になる為に、訓練していきます。

で、裏打ち、額装、軸装の全てにコダワリがあり、それら全てをひっくるめての作品とうのもとても分かります。
そこも取り扱いたいのですが、
この企画は、瞬間瞬間を作品とするところのコダワリのコトワリを見出したいという企画であり、そこに俺がとても興味があるってことなんです。

それから、浸透性=透過性って思ってもらって大丈夫です。

あと、「墨を重ねても重ねても…」というのは、
記憶の中では、水墨画の世界とかで、
近々で言えば、やはり篠田桃紅さんですかね。
(映像でしか観れてないので、生で観に行こうと思ってます)

で、篠田桃紅さんの「墨いろ」から引用すると
「墨は重ねても、一回性の重なりで、
下の墨は消えない。
人が一刻一日と生きて、
ひとつの生涯となるのと同じように思われる」

この続きもせっかくなので一応
「人が書くというしぐさには
祈りに似た孤独の形がある」


雪)裸を見られてるみたいと言ったのは他のアーティストで、私はそう感じたことはなかったのです。だからといって見て見て!とも思わないですが、でも瞬間瞬間を作品とするところの、ある瞬間瞬間は見て!今ココ見て!とは思います。
私が見てほしいと思う瞬間を思い出してみると、筆捌きだったり、出した線だったり、流れだったり。
一方終了後にお客さんの印象に残ってるのは私自身の動き(所作)、待っている姿。

他者との交感におけるコダワリのコトワリを見いだすとしたら確かに意臨は役に立っているが
コダワリではなくマストなもの
であり、私ならではのコダワリは何か。無意識に意臨で養った力を応用していることを考えると、待つという行為そのものであり、待つという行為を経てできた作品が他者と出会えた風景になるのではないかと。


Y)雪妃さんが、「裸を見られている」って感覚がこれ迄になかったと言うのは、とても興味深いです!
勝手に想像するに、それだけ書(自身の作品)に対しての集注度がとても高いんだろうなと思いました。
まるで少女が何かに夢中になって、その世界に没入しているような…
そんな風景を想像してしまいました。
通常人は人前に出ると、人の目が気になってしまうものですからね。

で、人って集注度が高い人がいると、その人に目が行くものです。
なので、お客さんの印象が雪妃さん自身の動き(所作)姿になるのは頷けます。
で、「集注」と「集中」を俺は使い分けるんですが、違いは何かと言えば、「集中」は閉じた世界で、「集注」は開かれた世界…
そして「集注」は他者との交感が行われている最中として使っているんですが、
その雪妃さんの「待つ」という行為は「意臨」を通して養われたとのことですが、実際に何を待っているのか? 「待つ」から「書く」へ移行する時に何が起きているのか?
そこが本当に肝になるところだと俺は思ってます。
「動作」にしてしまうのは容易いが、
「待つ」のは難しく、
そして、現代的な身体って本当に待てなくなっているなと感じていて、
「待っている姿」って、現代的な感性からすると、とても特異なことだからこそ、より人を魅了するんだと思ってたりします。

で、「意臨」なんですが、「臨書」の中にわざわざ「意臨」と「形臨」ってものがある中で、
何をどう分けているのか?って何かあります?
俺は「意」ってなんなのか、まだ分かってなくて…
因みに俺が少し学ばせてもらっている中国武術は、「意」が入っているんですけど、中国文化に於ける「意」ってなんなのか…って


雪)むしろ今の方が裸を見られてる気がしますね。
意臨を通して待つという行為が養われたわけではなく、養われたのは交感、待っているものは自分。書くものやタイミングなども。
待つ〜書くへ移行するとき、自分の身体は脳から手に交感が行われていてそれは瞬時に行わなければいけない。

臨書についての質問の意図がよくわからないのですが、
形臨は形を真似るもの。意臨は心や意図、リズムや呼吸などを汲み取るもの。答えになっていますか?


Y)そうですよね。
その気持ち察してますw
すいません…とはいえ続けてしまいます。
「待っているものは自分」
「自分を待つ」
その待っている「自分」って雪妃さんにとって何なのか?
それは意臨を通して養われた「他者と交感」なのか?
「他者と出会えた風景」なのか?
またはそれとは別の何かなのか?

雪)どちらもですね。

Y)それは、どちらも同時に発生してるってことです?

雪)おそらくそうだと思います。

Y)それで、臨書についての質問の意図というか疑問は、
形をとことん真似れば、そこにリズムや呼吸、意図や心、その人の動きも否応なく交感、感応出来るのではなかろうか?って思ったんですよね。
(凄く難しいとは思うけど)
とはいえ、形骸化っていう現象は芸能にも、武術に於いてもあるので、書の世界も同じ現象はあると思うから、わざわざ意臨を設けたのかなと。
なので、そう思った俺からすると「意」ってなんなんだろう?ってことだったんですわ。
因みに臨書には、その言葉の概念、意味って重要視するんですか?


雪)言葉の意味はあまり重要視されないと思います。
意臨は形にはあまり捉われません。

Y)言葉の意味が重要視されないとなると、
「書」というのは、意味から解放されたところにあるもんなんですかね?
「書」は「書」として、一つの美術的なものとして存在するってことなのか?

雪)重要視されない、しないわけではなくて、線よりはあまりという意味です。

Y)雪妃さんの「書」はどんな感じなんです?

雪)しないわけではなく、ということで同じです。


上)興味深い内容が展開されていると思いつつ、やや漠然としてきたようにも思うので、方向性を少し整理してみたく、間に入ってみます。

金野さんが雪妃さんに聞きたいことは、「書」という芸術の形態のなかにある「歴史」(金野さんの言葉でいう経験的身体)と、雪妃さんの表現はどう関わりがあるのか、ということのような気がしています。
そして、ここが、言葉では語ることが難しい複雑なボリュームがある部分のようです。
それは、「書」が既に、他者性を帯びており(それゆえ臨書は、その他者性をインストールするためにある?)、また書家自身もまた内面と他者性を持っているということです。
つまり、書の現場で、雪妃さんは、個人としての身体と、歴史的な身体を出会わせていて、そのことが「待つ」ということなのかと思います。
そして、話が戻るようですが、その待ち合わせの場所に、雪妃さん独自の方法があるのか、ということが、コダワリのコトワリの質問のコアな部分なのかと思います。

その上で、僕から新たに、雪妃さんと金野さんの両者に質問です。
「未知のもの」に触れるということは、あなたの芸術にとって、どのような価値がありますか?また、そこに方法はありますか?


Y)流石!めちゃくちゃまとめてくれてありがと!
それでは、まず価値について。
「未知(ないし未経験)」に触れることそのものが芸術の価値だと俺は思っていて、
その訳はわざと現代的に言うと、自身のアップデートに繋がるからなんだわ。
で、アプデした方が単純に世界が変わるし、それは楽しく面白いと考えているから。
ってことは生命体として活力が上がっている状態。
活力あるなし、どっちがいい?ってなったら、活力ある方がいいよね。
ポップに言うとそんな感じ。

で、その方法は様々あるかと思うけど、
ひとつ外せないのは、生命体には感応力があるわけ。これが大前提。
その感応力によって、未知なるものに出逢い、それが伝わる、感応する、俺の言葉では響命する…
で、その感応力を高めた(ないし深めた)者達が、芸術家だと俺は位置付けているかな。
その感応力は文化形成にも大前提なこと。

で、その方法は様々で、その機構が芸術の様々なジャンルって言えばいいかな。
それで、その感応の大前提から、方法というか、条件として、まずまず自身が未知に出逢ことが必要で、自分の外側ないし内側に自身を置くこと。
その自分の外側、内側って言っているのがここで言っている「他者性」であって、意識の世界で言うなら、無意識サイドってこと。
演劇だと分かりやすいかな。
「役」ってものが、それを導いてくれる。分かりやすく他者だもんね。
具体的方法とってよりも前提と条件の話になってまったけど、ここ外すと、どうしようもないから。とりあえずだね。


雪)未知のものを書に置き換えることにより共通性を見出し、書が関われる幅をを広げ、書の可能性を増やすという価値が考えられます。未知のものに触れるための方法は、先に書いてしまいましたが、未知のものを書に置き換えるということです。ここでいう書は自分の書になるかと思います。置き換えるというのが金野さんのいう感応力なのかなと。

具体的にいうと、書の現場(ここではパフォーマンスの現場と解釈)で何が行われているのか、独自の方法があるのかを考えたときに
例えば数ある法帖(書家が勉強しなければいけない昔の中国の政治家(=書家)が書いたお手本)の中の一冊には、しんにょうだけでも約50文字あって、全て変化に富んでいる50種類のしんにょうを手に入れる。(因みにこの法帖は王羲之というとてつもなく素晴らしい書家が書いたものからいろんなとこから部分的に集めて作られたもの(=集字)。なので流れとか気脈はないのだけど、文字そのものを学ぶにはとても良いもの。部分的に集める、中にはへんとつくりさえ別々のところから取ってきたものもあったり、、)
また別の法帖では、全て違うさんずいの字が約60文字ほどあったりする。
これだけのしんにょうやさんずいなどを引き出しとして頭の中に入れるために
形臨、意臨、背臨、集字、倣書、創作が行われてきたわけですが、
こうして得た自分の自分だけのあらたな引き出しから選定されて(ここが待つというところにされている作業かなと)、動くことになるわけですが、
それが独自の方法なのかと言われると、方法としてはみんな同じなのでは、、と思います。選定というところが独自なのかな。でも方法としては同じですよね、、こう考えると古典がいかに大事かと思いますね。
振り出しに戻ってしまいました。。。
とりあえず方法はこんなところでしょうか。

独自の方法が何かと言われたらやはり待つことかなと。ここでの待つは時間が過ぎていく待つのことで、タイミングをはかっているということでしょうか。
あとは線の太さなどによりそこから生まれる余白がどれだけ美しさに影響するかが書の醍醐味ではないかと思っていますが、これは前に書いた額装や、パフォーマンスの時にセッティングする道具の配置(私は紙の上に配置することが多いのですが)にも通ずる二次元におけるこだわりではありますが、いまはここは求められていないとのことなのでスルーします。

続く…

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