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会社で働くのをやめた話①

1.プロローグ


私は2021年9月に26年と6か月お世話になった会社を辞めた。
ただの事務職でしたが、組合も強く、福利厚生も充実。二人の子供の出産後も復帰し、育児時短勤務などや支援金もあった。
周りの理解もあったと思う。
きっとこのままがんばれば定年65まで働けた。
なのになぜ?

2. 自己紹介と履歴

ここで少し私の自己紹介。
現在44歳、気の優しい主人と、小学6年・4年生の女子2人と黒猫の4人と1匹家族。
田舎でのんびり育ち地元採用で製造大手の会社へ就職。1995年淡路阪神大震災の年でした。

勤続13年目2008年に結婚し翌年長女が誕生。
その頃出産・育児勤務制度が整い始め制度としては取得しやすい環境に。
2011年2人目を妊娠し2度目の育児休暇。しかし、出産前に実母が他界してしまいました。
結局、その後は誰にも頼れず、会社の制度や市のサービスなどを利用して仕事も育児時短勤務で対応しました。
保育園、学童のお迎え、夕食、宿題の確認、丸付け。お風呂。決まった時間で動かないと次の日が大変な毎日でした。主人は私がこんな大変なことをこなしているのは知っていても残業を切り上げる事ができない人でしたので、平日ほぼワンオペ。

また、少しASDの症状がある長女はこだわりポイントが人とは違い、手こずることが多かった。
スクールカウンセリングなども受けつつ、普通級に通わせ、いつかは8時間労働に戻らないと、会社でも頑張らないといけないと勝手に追い込む日々。

大変なこともいつかきっと笑い話になる日がくる。そう思っていたし、子供達の笑顔が支えでした。

ただ、私自身体力に自信がなく、片頭痛持ちもありしんどい日も多くて。

親として会社人としてなんとかしなければ!
とネットで健康情報を集めては食事・運動・整体に通い一生懸命 時間管理、健康管理をした。
土日もお出かけしたり買い出しにとゆっくり気が緩まってるときがなかったとおもいます。

3.コロナ禍での変化

2020年 環境が大きく変わり。
緊急事態宣言 子供たち学校にいけない。
主人 共に在宅勤務も増やし対応した。

うん、なんとかできる。

そこへ、近所に住む実父が病床に倒れ、入退院を繰り返すようになった。
病院送迎 、家族への説明への対応 。。。
頭の中はぐるぐると目まぐるしく回りいつも心ここにあらず。

私の中の風船がパンパンに膨らみ割れそうになって、
私はなんのためにあの会社で働いているのだろう
という思いが沸々と湧いてきた。

実はこれ、コロナ以前にも何度も思ってきたことだったんです。

会社の人やママ友は当然のように

辞めないほうがいいよ。
大学資金や老後も何があるかわからないから

という。
本当にそうだろうか。この会社じゃなきゃならない理由は?
私はどうしたいのか。
幸せを感じないのにこのままでいいの?
心はもやもやするばかり。

答えは出ないまま年が明けた。

2021年3月に闘病の末、父は旅立っていった。
会社人間だった父は75歳だった。
やりたいことをやっていた印象があるが常に気を遣い、人のために何かをするのが好きで自分や家族はどちらかというと二の次だった。
あと3年は生きてさまざまなことをしたい。
そう言ってた父を看取って思った。

思うより人生は短いのかもしれない。

そうすると会社に拘束される時間は、長い。
真剣に計算してみて経済的な問題がないなら、もう一度人生始めたい。
そういう思いが日に日に増していた。

4.今から変えても遅くない。

転職エージェントなどで調べてみたけど年齢的に管理職ポジションが多い。わたしはリーダー程度のノンキャリアだし、もっと大変になりそう。
家では長女・次女ともにコロナ以降不安定になり、朝登校渋りが激しくなった。出勤時に主人と二人で協力して対応したが、どうしても平社員の私に負担がかかった。

あと数年で子供たちは大きくなる。でも、この数年こそが実は大事なのではないかしら?

それで、少しづつ需要の増えていた完全在宅ワークの道を探り始めつつ、退職宣言に向けた心の準備をしていくことに。

5.ガツガツしないで生きていく

これからは健康第一。自分軸で生きる!
自分という存在を受け入れて楽しんで生きることができる仕事をする。
わたしの幸せはお金でもなく趣味でもなく、
今この瞬間を生きていること。
何者かにならないと焦らなくてもよかったのだと思います。

次は、実際に辞めるまでの半年に続きます。

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かのえみ(旧みよまい)
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