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もこもこ


日記という概念に憧れている。
日記というか、手書きで何かを残すことにずっと憧れている。

自分向けでも他人宛でも、必然性のない何かを手で書いて残すって、なんか、すごい。


数日前、家にあった古い北海道行きのガイドブックを開いたら、ピラッと何かが出てきた。
明らかに余ったものっぽい水色の紙。
その両面にシャーペンで書かれていたのは、「ここお店のなになにが美味しい」「この時間にここへいくとこれが見られてきれい」といった内容だった。
シャーペン書き。

聞けば母が当時通っていたお菓子教室で、ちょっと仲良くなった方がご厚意で書いてくれたものらしい。
しかしその方とはいまや連絡もとっていないし、名前すら端っこに書かれたものをみて思い出したそうだ。あの紙の存在も。

言ってしまえばその程度の仲の相手に、B4裏表いっぱいの手書き文字。
内容は全て「自分がいいと思って、教えたいと思ったもの」。

おののいた。

好きなものを誰かに紹介するとき、テンションが上がってたくさん自分の個人的感想までも過剰に伝えてしまいたくなる感情を私は知っている。あと毎回反省している。
しかし同時に、人に見せるための文章を書くことの七面倒くささも、私はよく、いやちょっとだけ知っている。

思うのも言うのもそこそこめんどくさくて難しい。
しかしそれを書きだすために必要な過程と時間はその比にならない。

考えは曖昧で、言葉は模糊。
でも文字はクッキリとしている。クッキリさせなければ書けない。

私のあたまのもこもこは、こねくり回さないとクッキリしない。
こねくり回すのは面倒くさい。
そんなことをしなくてもいいときに、そんなことをするのは、もっとめんどくさい。

だから、必然性なく、主体的になにかを書くことは、
どんなちっちゃいことでも本当に体力の必要な行為だと思っている。
全然そんなことないひともいるのかもしれないけど。私にとっては。

それを、手書き。

悪筆の私からすると、書くことを手書きなんて、天だ。
月で、雲。

つまるところ、天で月で雲が、素朴な厚意と楽しさの形で、シャーペンの薄い色をして私の目の前にあった。

怖ぇ。なんか。

おののいた。
母にあげると言われたものの未だにちゃんと読めていない。
しあさって北海道行くから普通に読みたいのに。

そんなふうにビビったと同時に、やっぱり、憧れた。

文章を書くこと。

言いたいことを要素としてまとめ、適切な言葉を少ない語彙から選びとり、
これは伝わるのか否か? 悩んでパズルの如く文を並べ替え、
何がいるか何がいらないか、嫌いな文をつけ足し好きな文を伐採し、
ウンウン唸ってやっとこさ捻りだした文章のあまりの拙さに頭を抱える、あの。

めんどくさくて全然意味があるように思えなくて、コスパの悪い行為。

そしてそのめんどくささとかけた時間ゆえに、
自分向けであれ他人宛であれ、受け取る人間にとって文章というのはそれそのものに質量がある。

ことスマホでいくらでも整った文字を打ち込める今、
手書きの文章なんか、「そうまでして」という想像が更に重なって、尚更。

書きたいじゃんそんなん。

私にカッコいい素敵な文章は書けないし、見る人そうそういない。
でも、たとえば未来の自分が、あるいは知らない誰かが私の文章を読んで、
いまの私の心持ちを、「あ、こうまでして残したかったんだ」と思ってくれたら、なんか嬉しい。

5歳のころのお絵かき帳に、「きょうわたしのカレーにハートのじゃがいもがはいってました」と書いてあったのを発見してなぜか泣いたことをふと今思い出した。

もし同じように、いま私が書いた文章を読んだ人間が、
文章にしたことのうしろにある曖昧模糊に一瞬でも思いを馳せてくれるのかも、と考えると、
全然意味ない気がする自分の感情やらなんやらに、意味を与えられたような気持ちになる。

それは気持ちであって、実際の意味かは知らない。
知らないし、そもそもそんなモン、という気持ちもある。

ただ、私がいま考えたもこもこが、
文にしないといけないほど自分にとって大事だったんだと、
これを読んだ誰かに(自分かもしれない)見留めてもらえる……

……と、いま私が思えることは、私を防空壕みたいに守ってくれるので、
少なくとも私にとってやさしい。


そんなわけで、日記のようなものを書こうと突如私は思った。

突然恥ずかしくなって爆破するかもしれない。
そもそも続くようには思えない。めんどくせえから。

でも憧れてることってやらないと憧れのままなので、やる。
ワンチャン続くかもしれないので。

ただ手書きは無理。悪筆がすぎる。
憧れって綺麗だし…………


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