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”銀幕の妖精”がスリムだったわけ――オードリー・ヘップバーンとWW2

ディンゴが最も好きなオードリーは、『ティファニーで朝食を』('61)の小悪魔ホリー

エー。昨年の秋ごろですかね。東武東上線のNARIMASU駅には、オードリー・ヘップバーン('29~'93)の肖像を前面に掲げるコスメショップができました。

開店前ですが、こんな感じ。…ちょっとだけディンゴが映ってますね

ヘップバーンといえば、幼少期からのバレエで鍛えたスリムなボディ・シルエット。その美しさについては、常識的なところでは以下のような評価を受けてきました。

170cm 50kg ウエスト50cmというスリムなスタイルのヘップバーンは 「セックス・シンボル」 マリリン・モンローを筆頭にした大きなバストとヒップに象徴されるグラマラスな 「ハリウッド・ビューティ」の基準をくつがえし、世界中に新しい女性美を導入した (1954年のヴォーグ誌でも美の概念をかえた奇跡の女性と評された)。 彼女は映画が動くスタイル・ブックと呼ばれた時代の最後のトレンド・リーダーだった。

高村是州「ザ・ストリートスタイル」('97)より

その美しさから、今もなおファッション・アイコンとして世界中で賛美されるオードリー(の、外見)。しかし、そのオードリー自身は少女時代の戦争体験をきっかけに、生涯にわたって摂食障害を患っていたらしいんですが、そのことはイマイチ知られていない気がします。

※オードリーの摂食障害が晩年まで続いたかどうかについては近年、関係者が否定する機会がいくつかありました。けっきょく今からでは確かめようがないんですが、ただオードリーが生涯50kg以上に太らなかったことと、自身の体験から戦争を憎んでいたことは事実でしょう。

…イヤ、なんか因果なもんだなあと思って。亡くなってからもずっと、若い頃の写真が痩身美人のアイコンみたいに使われているオードリーですが、果たして本人はそんなに痩せていたかったんでしょうか。…ま、それはディンゴが死んでから本人に取材するとして、現世を生きてるうちは、この世に残された資料から、彼女の戦争体験のほうを探ってまいりましょう。

1939年、オードリーの戦争

検索したら向こうではこんな本も出てて、ディンゴが書く意味は特にねえなと思いました。…でもやるんだよ!(©根本敬)

まず大前提として、オードリーはイギリス(ブリュッセル、イクセル)で生を受けました。そしてその父、ジョゼフ・ヘップバーン=ラストン親ナチのファシストでした。その妻(オードリーの母)・エラもイギリス時代は若干、ジョゼフの活動に協調していたようですが、後年は完全に反ナチのスタンスをとっており、イギリス時代の親ナチ活動がどの程度の真剣さを伴うものだったのかはイマイチ不明のようですね。

ともあれ、父ジョゼフは反ユダヤ分離主義者としてどんどん先鋭化していき、1935年には当時6歳のオードリーほか家族を残して失踪。ファシズム運動の前線に身を投じます。オードリーはその後、父ジョゼフと会うことはなかったようです(※イギリスで親ナチ活動を続けたジョセフは、のちに投獄されています)。

ナチ政権ドイツによるポーランド侵攻が契機となった、第二次世界大戦の勃発が1939年9月1日。その二日後の9月3日には、ポーランドと相互援助条約をむすんでいたイギリス、そしてフランスがドイツに宣戦布告。これから本格的にヨーロッパの地獄がはじまっていくわけですね。

宣戦布告を報じる英「デイリー・ヘラルド」紙

このとき、イギリスを生活の拠点としていたヘップバーンとその家族(母エラや兄たち)はナチ政権ドイツの攻撃から逃れるため、当時は安全だと信じられていたオランダアルンヘム(※アーネムとも)、ソンスベークにその居を移しました。しかし1940年にはナチ政権ドイツによるオランダ侵攻がはじまってしまい、このアルンヘムも制圧されてしまいます。持てるすべての財産を、ナチに「喜んで」差し出すよう強いられるオランダ市民。

アルンヘムでは、やがて公然とユダヤ人狩りが行われるようになり、オードリーは後年までその風景を悪夢に見たと証言しています。

列車に乗るために母と一緒に駅へ行くと、ユダヤ人を満載した家畜運搬トラックが目に付く……小さな子供たちや赤ちゃんのいる家族が霊柩車に押し込まれる――てっぺんにわずかな隙間があいた木造の貨車の列、その隙間から無数の顔がのぞいている。プラットフォームではドイツ兵がさらに多くの、わずかな荷物を持って小さな子供たちを連れたユダヤ人家族を追いたてている。
「男はこっち、女はあっち」といいながら、家族を引きはなす。つぎに赤ちゃんを取りあげて別の貨車に乗せる。わたしたちは彼らが死ににゆくことをそのときはまだ知らなかった。特別な収容所へ送られるのだと聞いていた。わたしはまだ十一歳ぐらいだったから、どういうことなのか理解できなかった。わたしの悪夢にはいつもそのときの光景が現れる。

バリー・パリス(訳:永井淳)「オードリー・ヘップバーン」('96)より

ナチに遅れを取りつつも、オランダでは反ナチの地下活動(レジスタンス活動)が動き出します。オードリーの兄・アレクサンドルはナチの軍需工場での強制労働を嫌い、地下活動に身を投じました。
しかしもう一人の兄・イアンは、ナチの魔の手から逃れられませんでした。地下活動のかどでナチに逮捕されたイアンは、ベルリンで弾薬づくりの苦役を課せられ、日に14時間ずつ働かせられたといいます。戦時中、オードリーたちはイアンはもう亡くなったものと思っていたとか(※のちに家族のもとへ生還)。

1942年。地下組織による抵抗を苦々しく思ったナチは、オランダではまず5人の民間人を見せしめに射殺します。その中の一人、オットー・ファン・リンブルフ・スティロムは、オードリーの優しい叔父さんでした。

やがて恐怖はほとんど日常茶飯事と化した。「わたしたちは若い男たちが壁の前に立たされて射殺されるのを見た。ドイツ人は一時的に道路を通行止めにして、処刑が終わるとまた通れるようにする……ナチスに関して聞いたり読んだりする恐ろしいことを割引きして考えてはいけない。それはあなたの想像をはるかに超える恐ろしいことなのだ

バリー・パリス(訳:永井淳)「オードリー・ヘップバーン」('96)より

いちばん最初の観客たち

当時はまだローティーンのオードリーでしたが、彼女はレジスタンスに心を寄せ、できうるかぎりの支援活動を行ってました。その一つは、まだ幼いことを逆手に取ったメッセンジャーの仕事です。往来を比較的、自由に歩き回れた子どもだからこその活動として、レジスタンス間の伝書鳩の役を演じたわけですね。
そしてもう一つは、イギリス時代から開花をはじめていたバレエの才能を使った支援活動でした。

 彼女のバレエの才能もまたレジスタンスと自分のために役立てられた。(中略)戦争は続いていたが、夢はなくならない。「わたしはバレリーナになりたかった
 彼女の個人的な野心は、一連の「灯火管制公演」でレジスタンスと結びついた。それはバレリーナに舞台を提供すると同時に、地下組織のための資金集めにも役立った。「わたしたちはだれかの家の窓に鍵をかけ、鎧戸を閉めてそれをやったものだった。わたしにはピアノを弾く友達が一人いたし、母が古いカーテンやらなにやらで急ごしらえのコスチュームを縫ってくれた。わたしは自分で振付けをした――信じてもらえないだろうけど!
 それは彼女自身が考えたクラシック・バレエの短縮版で、ドアに鍵をかけ、ドイツ兵を警戒する見張りを立てて演じられた。場所は町の開業医ドクター・ウーダース家で数回、少なくとも一 回は彼女自身の家で行われた。「わたしにとってそれまでの最高の観客は」と、後年彼女は語っている。「踊り終わっても声ひとつたてなかった」。無言のカーテン・コールのあとで帽子が回され、「わたしたちが稼いだお金がナチスと戦うレジスタンスの活動を助けた

バリー・パリス(訳:永井淳)「オードリー・ヘップバーン」('96)より

こうした手作りバレエの秘密公演で得た資金が、レジスタンスの活動費用に活かされたということなんですね。オードリーの最初の観客はレジスタンスの戦士たちで…そして彼らは、当時のオードリーにとっては「最高の観客」だったという。

☆☆☆

このアルンヘムという町は1944年、連合軍のマーケット・ガーデン作戦(※映画『遠すぎた橋』('77)でおなじみ)で甚大な被害を受けます。この地で窮乏生活を強いられたオードリーもまた、栄養の不足を主因とする数々の病をわずらうことになりました。この際に摂食障害もわずらったことは事実で、またかつては晩年までその障害を抱えていたと言われていたんですが、そこが最近だと異説もあるところですね。

で、この際にオードリーを救った医療品はユニセフ(UNICEF)の前身・アンラ(UNRRA)による救援物資だったということで、この経験は後年の彼女の
活動に大きな影響を与えます。

…で、結局ディンゴは何が言いたいのや

いささか長く書きすぎました。たぶんもう誰も読んでないと思うんですが、要はオードリーが見上げた存在なのは、別に「若いときに綺麗だったから」とかだけじゃなくて、後年までこういう戦争なんかの経験を忘れず、生涯にわたって世界平和を訴え続けたからなんですよね。晩年のあたりではユニセフ親善大使としても活動。黒柳徹子もそうですが、ディンゴはこういう活動に献身的なスターに弱い。

'70年代からユニセフと関係を持ち始めたオードリーは、'89年に正式に親善大使の任を受けます。「今日までのキャリアは、この仕事のためのリハーサルだったのね」と語ったオードリーは世界中をとびまわり、窮地にある人々、特に子どもたちにその手を差し伸べ続けました。
'92年。亡くなる数か月にも、貧困にあえぐ内戦下のソマリアを訪れたオードリー。それに対して、あるイジワルなTV司会者が「ユニセフの活動っていうのも、けっきょく焼け石に水でしょう?」みたいなことを言ったんですが、それに対するオードリーのお返事がこちら。

「あなたはごくわずかな人間しか救われないのではないかとおっしゃるでしょう。でもその人数は確実にふえているのです。わたしは自分自身に問いかけます。あなたになにができるか? あの国へ行ってなにをするか?
 とにかくだれにでもできるなにかがあるのです。千人の人の世話ができないことは事実です。しかし一人でも救うことができれば、わたしは喜んでそうします」

バリー・パリス(訳:永井淳)「オードリー・ヘップバーン」('96)より

この精神こそが美しかった。わかってください。見た目だけではないんです。

…今でもタイプ仕事をしていると「ムーン・リバー」の幻聴が聞こえるディンゴより、”銀幕の妖精”に変わらない愛を込めて。

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