「天気の子」徒然 その1
*ネタバレが含まれます。ネタバレを好まない方はこのページをそっと閉じてください。また、内容についても記憶間違いがあるかも知れません。
夏休みに入る前くらいに、子供たちと一緒に新海誠監督の「君の名は」を見せたら二人とも大ハマりした。兄弟二人で名場面の再現をしてみたり、主題歌の「前々前世」を歌い続けたり、大フィーバーだった。そういうわけで、夏休みには映画館に「天気の子」を見に行った。子供たちは喜んでいたが、面白かったなぁと思うには随分もやっとしたものがのこった。
夏休みの終わりに、金曜ロードショーで「天空の城ラピュタ」を見て、その理由が言葉にできそうな気がしたので年が明ける前に形にしておく。
33年の年を経て編まれた二つの「(何も持たない)少年が(不思議な力を持つ)女の子を助う(ことを通して成長する)物語」をとおして、「(『子供』の対義としての)『大人』の(『子供』に与えてやれる)力のなさ感」にショックを受けたのだとおもう。
>『大人』の力の衰え
「天気の子」の主人公・穂高は家出少年である。家族からは捜索願が出され、また別件でも警察にマークされ、見つかれば補導されてしまう。
冒頭で命の恩人となる須賀は、穂高を匿うことで自分の身が危うくなりそうになると、それまでのバイト代を手渡しあっけなく穂高を放り出す。物語の終盤まで、穂高の味方をしてくれる大人(?)は須賀の姪の夏海である。
「天空の城ラピュタ」主人公のパズーは、両親と死に別れた少年労働者だ。軍隊にさらわれたシータを助けるために、空賊のドーラ一家に協力を求める。が、その他に採掘場の親方や鉄道の運転士、ポムじいさんなど、結果として彼の助けになれなくとも、その気概の端を認められる大人たちがいた。
穂高はなけなしの小遣いで命の恩人の須賀に食事をおごっている。
パズーはドーラに差し出すものはなにも持たない。シータの利用価値含みとはいえ、どこの馬の骨とも知れないただの若造を身内にしたのだった。
どっちがけちか、だとか助けた弱みにつけ込んで子供にたかる須賀が汚い、とかじゃない。その行動にはリアルさも感じる。すなわち、大人の姿としてドーラより須賀の方がリアリティに溢れている、現実になってきているということ、それに寒々しさを感じる。
ただ年長者というだけで年少者に対して対価を求めず何かをしてやる、という振る舞いが綺麗事だとか、おとぎ話の中の現実となっていったのかもしれない。何かをするなら対価が必要であり、それはお金だったり物品だったりする。それらは必ずしも子供が所有しているわけでも、自分の力で自由に得ることができないものでもある。「バイト代」を手切金として放り出す(=穂高は宿無しとなる)須賀を見て「大人って汚え!」より、「ありそうな話だな」と感じた自分に嫌気がさした。さらに言えば、須賀は個人だが、ドーラ一家はチームである。ドーラ一味の誰かがパズーを放逐しようとしても、全員の意見がそうでなければ、しばらく飛行船にとどまれる可能性は上の穂高より高いだろう。人がどんどんバラバラになっていけば、最後に頼れるのは人間ではなく鉄砲になっていくのかもしれない。それはラピュタの最後でもそうだったけれど。
たぶん、ここ33年間はそんな流れだったんじゃないだろうかと思う。
その2 ヒロイン(自由意志とは何か) につづく、かも。