手応え
最近工作熱心な年中の次男は、夏休みに入ると仮面ライダーのフィギュア用ドールハウスを作り始めた。小さめの段ボール箱にドアと窓を開け、そして是非とも照明をつけたいという。カッターを使うところは私が引き受け、さらに照明は豆電球と導線があれば楽勝である。
スイッチは用意できなかったので豆球の導線を片方外しておき、これで金具に触れると電気がつくよ!と手渡した。こんな単純でむき出しな電気回路に触れたのは初めてだったろう。LEDではないので、光ると熱いと驚いていた。
その後、「大人の科学」の二眼レフを購入した。やはり仮面ライダー(ディケイド)好きの次男のリクエストである。
大人の、って書いてあるからお母さんが組み立てるよ!と引き受けた。半分以上、こういうキットを組み立てたい私のエゴである。組み上がったものを渡すとファインダー越しに周りの景色を見て子供達はご満悦である。撮影してみようと、いざフィルムを買いに行くと目が飛び出た。1本1000円ぐらいする。私の記憶の中のネガフィルムは、3本で1200円くらいだった。あまりに驚いて何も買わずに帰ってきてしまった。
フィルムカメラは、毎度フィルムを購入する必要があり、撮ったものはその場で確認できず、現像にも費用がかかり、仕上がるまでに日数もかかる。デジタルはフィルムのデメリット全てを解決したと思っていた。
今、目の前のカメラに何を期待するかという問題である。
ピンボケやブレがなく、撮りたいものが自分の期待した通りに写っているデータを得るということだったら、デジカメに軍配があがるだろう。現像するまでどうなるかわからないフィルムカメラに対し、デジカメはあまりに賢い。しかし、あまりに賢すぎて何が起こっているかに想いを馳せることが困難である。これでは写真はどうして映るのかなどと、考えるチャンスはあるのだろうか。そして自動調整された「綺麗」の定義は、誰かが設定したものである。果たしてカメラは何を写しているのか。
二眼レフカメラの中を見ると、カメラという道具が何を望まれているものなのか、読みとれそうな気がした。他のどんなカメラを見ても、映る仕組みなんて考えたことはなかった。分厚い説明書にうんざりしてオートモードのシャッターを切るだけだった。二眼レフカメラは雄弁だった。
私は子供達に道具の仕組みとはたらきの相互関係を知ってほしいと強く思っている。正しい使い方を知り便利に使うためだけでなく、壊れたら直せること、自分の使いやすいように手を加えることができるようになることに価値を置いているからである。
道具を使いこなすということは、道具の身体の延長とできることであると思う。自分の手で何事かをすることは、生きる手応えを感じることでもあると思う。道具を直すことは、自分をいたわることにもつながると思う。
魔法は使えている間はいいが、使えなくなってしまうと丸裸である。それが怖い。もし、魔法を道具のように扱えるのだったら、それは別の問題。
フィルムを買いに行こう。
これは半分くらい、それを正当化するための記事である。